【短編】邪神殺しを殺した奴隷
卯月スズカ
第1話 永久の虜
「あら。おはようございます、ご主人様。今日は随分とお早いですね」
「夕暮れ時を早いと言っていいのかは分からないけどね。おはよう、ルゥリィ」
ベッドから這い出てきた僕を見て目を丸くするのは、鉄の首輪を嵌めた女性、ルゥリィ。
鉄の首輪は奴隷の証。嵌められたが最後、死んでも外すことのできない契約の首輪。そんな身分に落とされてしまった彼女は、勇者殺しの大罪人でもある。
勇者殺しのルゥリィと言えば、近隣諸国で知らない者はいないだろう。
邪神殺しの勇者を殺した奴隷。
そんな女性に、どうして僕のような貧弱な子供がご主人様と呼ばれているのか。理由は単純。昔、投げ売りされていたルゥリィを買ったのが僕だったからだ。
「ご主人様、今日は何をなさいますか?」
「そうだね。絵でも描いてみようかな」
ルゥリィが差し出してくれた薬膳茶を飲みながら答える。
苦くて、酸っぱくて、好んで飲もうとは思わない味。けれども僕の身体に足りない体力を補うには、このお茶が最も手軽だから仕方ない。
「絵、ですか。ええ、良いと思います。モチーフは何に?」
「君」
またもや目を丸くするルゥリィ。
呆気に取られていてもやっぱり美人は美人。様になる。昔、檻の中で痩せこけていた子供と同一人物だとは未だに信じられない。
「ルゥリィがいい。付き合ってくれる?」
「……ええ、もちろん。ご主人様がお望みなら、どのようなことでも」
鉛筆を走らせる。
昔はこうやってのんびりとしている余裕もなかったから、絵なんて描いた経験はない。
頼りにできるのは観察眼だけ。パーツの一つ一つを観察して、見たままを再現するように指を動かしていく。
とはいえ、まるで体力のない身体だ。三十分ほど絵を描けば三十分の休憩を挟んで、また再開する。
起きていられる時間も長くはない。見よう見まねの人物画が完成したのは三日後のことだった。
「……うーん、やっぱり駄目だね」
「私は素晴らしい出来映えだと思います」
「再現度だけならね。そこは僕も満足してる」
目の前にはルゥリィの顔を写しとった紙がある。
初めてにしてはそこそこの出来だろう。ルゥリィの綺麗な顔を伝えるのに不足はない。
でも、それだけ。
名を馳せる芸術家たちが作品に込める情熱が、僕の模写からは感じられない。
この世で最も大切な人を題材にしたのに。やっぱり、僕は人でなしなのだろうか。
「……ご主人様、ありがとうございます」
そんなことを考えていたら、後ろから抱きしめられた。
ルゥリィはささやくように、耳打ちをするように、小さな声で伝えてくる。
「ずっと、宝物にしますね」
森の中に隠れ住んでいても、生きるために物資は欠かせない。
近隣の村へ買い出しに出ていくルゥリィを見送って、僕は一人、窓際で日光浴をしながらまどろんでいた。
ルゥリィは勇者殺しの大罪人。捕まれば極刑は避けられない身の上だ。
認識阻害の魔術を使っているとはいえ、心配は尽きない。本当なら着いていきたいけれど、僕の体力のなさではただの足手まといになってしまう。
情けない。
ルゥリィ。君は、こんなご主人様で本当にいいのかな。
まどろみはいつしか眠りになって、気が付けば夜になっていた。
僕が目を覚ましたきっかけは、小屋の周囲を取り囲むように動く複数の足音だった。
「五……違う。七人か」
勇者殺しに向ける人数としてはあまりにも心許ない。賞金目当てのゴロツキなら、数十人単位でやってくることだってあるのに。
つまり、外の彼らは真実を知っている。勇者殺しが、ごく普通の女性だということを知っている。
おそらくは王国中枢からの刺客だろう。 こうして居所を掴まれたが最後、いつものように逃げたところで追われ続けるのは目に見えている。
やるしかない。ルゥリィを、ルゥリィとの穏やかな暮らしを守りたいのなら、彼らを殺すしかない。
「できるかな」
昔の感覚で挑めば一瞬で終わる。半日起きていることすら難しいこの身体だ。戦おうとすれば、数秒足らずで心肺機能が悲鳴を上げて動けなくなる。
戸棚から取り出して、袖に隠すのは三本の果物ナイフ。これよりもサイズが大きくなってしまうと、肝心なところで取り落とす恐れがあった。
装備も心も、着々と、殺しのための準備は整う。
何の抵抗もなく、仕事にやってきただけの彼らを殺そうとしている自分に気が付いて、思わず笑ってしまった。
やっぱり僕は、人でなしだ。
「……子供?」
小屋を取り囲んでいたのは想像通りの王国騎士だった。全員が上層部に近い人間であることは、装備の質を見ればすぐに分かった。
「こんばんは。こんなところに何のご用ですか? ここには僕と姉しかいませんが」
騎士たちにとって、僕の存在は想定外だったらしい。
ひそひそと小声で耳打ちをして、話がまとまったのだろう。一人が近付いてくる。
「失礼。姉、というのは実姉かな?」
「いいえ、血は繋がっていません。縁があって助けられて、それから一緒に暮らしているんです。騎士様方が、姉に何のご用でしょう」
僕からも一歩、近付く。
当然、子供よりも大人の歩幅の方が大きい。一人だけ、包囲の中から浮いていく。
「君の姉は、奴隷の首輪をつけているのではないかな?」
「……どうして、そんなことまで知っているんですか?」
ルゥリィの身分は彼らにとって何よりの証言。
途端、首根っこを掴まれた。ぷらりと宙に浮く身体。男の首が、僕の目の前にあった。
「当たりだ。効くかは分からんが、この子供は人質に――」
血しぶきが溢れて、僕の顔を濡らす。
ぐらりと、頸動脈を切断された男の身体が地面に崩れ落ちる。自然、僕も下草の生える地面に落ちた。
酸素が喉から押し出される。
この一瞬のやりとりで、僕の体力はもう尽きかけていた。まだ動けるけれど、うかつに動けばナイフも振るえなくなる。
実に情けない体たらく。でも、あと六人は仕留めないと。
「人質にするならどうぞ。できるものならやってみせてよ」
どこの誰とも知れない子供に挑発される。気高い彼らには許せない屈辱だろう。仲間を殺されたばかりとはいえ、とりわけプライドが高い奴の一人か二人は釣れるはず。
予想は大当たり。一人が包囲の中から飛び出してきた。
「っ――ガキが、いい気になるな!」
迫る剣。躱す余力はない。
だから、ナイフで剣を弾いて、振り下ろされた勢いのままに男へ刃が飛んでいくようにした。
狙い通りに飛んでいく剣。僕に振り下ろされるはずだった剣は、持ち主の首を落としていた。
「ふう――」
ちかちかと、あまりの疲労感にめまいがやってくる。
残りは五人。間に合うだろうか。
「今のは、魔術か?」
「いいえ、気配もありません。……すべて、あの子供の技巧です」
流石は騎士というべきか。残った彼らは冷静に、状況を把握しようとしていた。
こうなれば、むざむざと突っ込んでくることはないだろう。僕からすればお手上げの展開だ。
「なんだ、来ないんだね。騎士なら腕に自信があるんじゃないの?」
ピリ、と彼らの空気がひりつく。それでも愚策を犯してはくれない。なかなかに手強い。
「僕が知る騎士は、手柄が好きで、侮られることなんて絶対に許さない人たちだったんだけどね。十一年もあれば、ちょっとは慎重になれたのかな?」
まだ動いてくれない。
たかが挑発とはいっても、大声は着実に僕の体力を奪っていく。
このあたりが潮時だろう。情けない主人でごめんね、ルゥリィ。
「ルゥリィ、いるよね? 包囲、お願い」
「ええ。準備はできています、ご主人様」
僕の呼びかけに、騎士たちの表情が一気に切羽詰まったものへ変わる。
指示を待たずに逃げ出そうとする男もいた。でも、遅い。
急成長したイバラが小屋の周囲を取り囲む。ルゥリィの魔術によって、どちらにも逃げ場はなくなった。
僕と騎士のやりとりで生まれた隙をついて、こちらへやってきていたルゥリィが肩に触れて、身体を支えてくれる。ほんの少しだけれど、極度の疲労に襲われている身体が楽になって、ナイフを握る力にも余裕ができた。
「申し訳ありません、ご主人様。私のせいで……」
「ううん、元はといえば僕が原因なんだ。君が気にする必要はないよ。
――ほら、かかってきなよ。お目当てと邪魔者が揃ったんだから、絶好の機会でしょ?」
ルゥリィ本人の口から発せられた「ご主人様」という呼称。
それが決定打だったのだろう。騎士の喉から、懐かしい呼び名が紡がれた。
「邪神殺し――」
「昔の話だよ」
◆
泥のように眠るご主人様を背負い、森を歩く。
追手は全員、ご主人様に屠られた。猶予はまだまだある。次の隠遁先を見つけるのも難しくはない。
「今度はどこで暮らしましょうね。海が見える場所でも探しましょうか」
気絶したように眠るご主人様には聞こえるはずもない。けれど、ご主人様と一緒にいることをより強く感じたい一心で、無為な言葉を発し続ける。
「湖もいいかもしれませんね。ご主人様はまだ、見たことがないでしょう?」
邪神殺しの勇者。
それが、かつてのご主人様を示す異称。
人の身では到底敵わない邪神。怒りに触れないよう崇めるしかないモノを殺してしまった英雄。人を外れたヒト。
殺せるか、試してみたかった。ご主人様はそう言って、生贄に選ばれた私を救い出してくれた。
首の鎖と檻と、死の運命と。
二度も私を助けてくれたご主人様はけれど、人間社会程度が受け入れられる人ではなくなってしまった。
邪神を超えた暴力。人間は、ご主人様をそう認識した。
ご主人様が自分には頓着しないことを良いように、城の奥深くへ閉じ込めた。
民衆向けの英雄を作り、ご主人様の偉業を利用した。
ご主人様から一切の自由を奪って。
その行いが私には、とても許せないことで。
だから私は勇者を殺した。
「それともいっそ、山を登りましょうか。空気の綺麗な、美しい場所」
偽物も同じ城で暮らしていた。
勇者の役割を被せられただけのプロパガンダだ。寝込みを襲えば、殺すのは難しくなかった。
その直後、偽物の殺害現場にやってきたご主人様は私に告げた。
――ルゥリィ。僕のことも殺してくれるかな?
「世界には美しい景色がたくさんありますからね。私たちの一生では回りきれないくらい、たくさん」
転魂。
私はご主人様が望むままに、禁術を使ってご主人様の魂を人形に移した。
その果てに掴んだのが今の暮らし。
奴隷に過ぎない私は勇者殺しとなり、邪神殺しは虚弱な少年となった。
心臓のない身体で、魂だけで動いているのだ。体力がないのは当然のこと。
むしろ、この身体で半日近くも活動できることが驚嘆に値する。
ご主人様の髪に触れる。
少し癖のある髪は昔と変わらない。何もかもが変わってしまったように見えても、残っているものは確かにある。
「ご主人様。私の気持ちも、ずっと変わりません」
檻から助け出されたときに忠誠を誓った。
邪神から救われたときに、一方的な愛を誓った。
人生で初めて描いた絵のモチーフに私を選んでくれた喜びは、この鼓動に刻まれている。
「ルゥリィは、何があろうともあなたの虜です」
【短編】邪神殺しを殺した奴隷 卯月スズカ @mokusei_osmanthus
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