ダイイング・ダイイング・メッセージ・ダイイング〜日村冴の場合〜
北 流亡
日村冴の場合
グラスはそのまま床と衝突して、破片とワインが八方に飛び散った。
冴は胸を押さえて片膝を付く。
『30年物の赤ワイン』の風味ではなかった。例えば腐敗した生魚のような、例えば家畜の糞尿のような。
——毒
冴の脳内によぎった。
全身が火照り、視界が大きく揺れていた。神経毒の類だろう。おそらく、テトロドトキシンか。
冴は即座に、ワインを飲んだ量、毒の致死量、自身の体重を元に残り時間を計算する。30分。冴は唇に犬歯を突き刺した。
冴は深く呼吸をする。動悸はおさまらない。それでも落ち着かなければならない。
まずは状況の整理だ。
冴がここに来たのは、所属するゼミの教授である石谷薫の誘いがあったからだ。
教授室に質問に行った際、互いにミステリー好きであることがわかって意気投合し、酒でも飲みながら語り合おうということになったのだ。
場所は鵜原山中腹にある石谷の所有する山小屋。
石谷は、蔵書のほとんどをこの山小屋に置いているそうだ。
休暇の大体を過ごしているというこの山小屋は、1人で使うには大きすぎるが、その空間の半分以上が本棚と乱雑に積まれた本の山(それは冴にとって文字通り宝の山であった)で占められており、ほとんど倉庫のような使い方をされていた。そのため、生活スペースは寝室とキッチンとバスルームとゲストルームに限られた。
犯行はキッチンスペースで行われた。
石谷が手料理とワインを振る舞ってくれたので、それに舌鼓を打ちながらミステリー談義に花を咲かせていた。
完全に油断していた。冴は自身の迂闊な行動を悔やんだ。2人で赤ワインを11本空けている間に石谷に怪しい動作は一切無かった。しかし——
(いったい石谷教授はどうしてこんなことを?)
思い当たることは無かった。知り合ってからそんなに日は長くないし、怨みを買うようなマネをした覚えもない。しかし、彼女は凶行に及んだ。
まあ、動機はあってないような物なのかもしれない。「人をいかにして殺すか」をテーマにした小説を愛好してる時点で、人間としてどこかネジが外れているのだから、犯罪を起こすのもやむを得ないと冴は思った。ひょっとしたら、ミステリー小説を読み漁るうちに素晴らしいトリックが浮かんでしまって、試したくなってしまったのかもしれない。
その気持ちは理解出来ないこともなかったが、むざむざとトリックの犠牲になることは悔しいと冴は思った。しかし、このままただの被害者Aになってやるつもりはなかった。
冴はふらつく身体を捩じ伏せるように立ち上がる。
ダイイング・メッセージを遺そう。
犯人に気づかれずに犯人を示すメッセージを。
冴は口の端を吊り上げた。彼女は勝利を確信していた。
冴はカバンから紙とペンを取り出した。こんなこともあろうかと、あらかじめダイイング・メッセージを考えておいたのだ。
——当方に死亡の用意あり!
冴は紙にしっかりと「犯人は石谷薫」と書いて4回折り、口の中に含んだ。
ペンは油性で紙は耐水性だ。水に10日漬けても字が滲まない。既に実証はしてある。
冴はその場に横たわる。後は死を迎えるのみだ。約束された勝利。我が生涯に一片の悔いなし。
伏したまま、しばらく時間が経った。
5分は経っただろうか。もしかしたら20分は経ったのかもしれない。まだ冴は生きていた。
ここに来て急に不安が襲ってきた。
果たして、死んだ後も口を閉じたままでいられるのだろうか。
今は何をされたところで意地でも口を開かないつもりだが、死んだ後まで続けられるのだろうか。死んだことがない冴にはわからなかった。
徐ろに立ち上がり、カバンを漁る。ガムテープがあったので口に貼った。これで飛び出す心配は無いはずだ。
しかし、これが剥がれない保証はなかった。そこまでは実験していない。冴は次に包帯を取り出して顔面をがんじがらめにした。
一切の隙間が出ないように顔面を覆い、更にその上からガムテープを巻いた。こうすれば流石にダイイング・メッセージが飛び出ることはあるまい。
冴は再び横になる。意識がだんだんと遠のいていく。
薄れゆく意識の中で冴は思った。
「鼻の穴まで塞ぐ必要はなかったのでは?」と。
「いやー、日村さんごめんねー。まさかワインが腐るとは思わなくてさー……きゃああああああ!」
ワインセラーから戻ってきた石谷が見たのは、顔面を包帯とガムテープでがんじがらめにされて横たわる教え子の姿だった。
「日村さん!? しっかりして! 今救急車と警察呼ぶから!」
程なくして救急車と警察が到着した。
冴の命に別状は無かったが、医者にも警察にもそれなりに叱られた。ともあれ、ダイイング・メッセージは役に立たずに済んだ。
それから2週間が経った。
冴は再び石谷の住む山荘の扉を叩いた。
「先生、先日はすみませんでした! これお詫びの気持ちです!」
冴は深々と頭を下げて、細長い紙袋を渡した。中には白ワインが入っていた。学生だと少し背伸びをしないと買えない額の白ワインが。
石谷は苦笑してそれを受け取る。
「わざわざ良いのにそんな。まあ、お互いに飲み過ぎには気をつけましょうね」
「いやあ、本当に申し訳ないです……」
「でも、日村さんのダイイング未遂メッセージのアイディアは良いと思ったわ」
冴は頭を掻く。
「私も自信はあったんですけど、実際にやってみると穴だらけでしたね……」
「あのダイイング・メッセージ、改善点をいくつか思いついたのですが……日村さんこの後時間あるかしら?」
「へ? 今日はヒマですけど」
「じゃあ夕食をご一緒しながら話しましょう! ちょうど今日は白ワインに良く合う料理を作ったので」
「うーん……じゃあ、お言葉に甘えちゃいます。この間の話の続きもしたいですし」
「うふふ。とっておきの白ワインも出しちゃおうかな」
「お手柔らかにお願いします……」
日村冴の右手から、ワイングラスがするりと抜けた。
グラスはそのまま床と衝突して、破片とワインが八方に飛び散った。
冴は胸を押さえて片膝を付く。
『とっておきの白ワイン』の風味ではなかった。例えば牛乳を吸った雑巾のような、例えば清掃の行き届いていない公衆トイレのような。
——毒
冴の脳内によぎった。
冴はカバンから彫刻刀と石板を取り出した。
ダイイング・ダイイング・メッセージ・ダイイング〜日村冴の場合〜 北 流亡 @gauge71almi
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