鶴美

明日出木琴堂

鶴美

「ニャッ。」

…ボン!!

「チーン」

ガチャ

「臭いよぉ…。」

「ママ。ママ。また壊れちゃったよぉ…。」

「どうしたの鶴美? …。 ギャーッ。」





「達哉君。」

「社長、おはようございます。」

「今日から【来夢来人】本店で働いてもらうことになった川本さん。」

「あっ。はじめまして。【来夢来人】ファッションビル店の内田達哉と言います。」

「はじめまして。川本鶴美です。よろしくお願いします。」

「達哉君はうちで一番の古株だから、何かあったら聞くといいよ。」

「分かりました。」

出会いはバイト先で…、あくまでもこんなものだった…。

新人バイトの挨拶なんて、ごくありふれた事だ。

ブティックの店員のバイトなんて理想と現実のギャップからなかなか長続きしない。

入れ代わりの激しいバイトだからね。

たった1年程の在席で古株扱い。その1年程で何度か同じシチュエーションを経験している。

この場面もそんな程度の印象しか僕にはなかった…。




夜8時過ぎ。レジを締め、ファッションビルの夜間金庫に納金し帰途につく。

繁華街は師走の書き入れ時で大賑わいだ。

街中、電飾できらびやかだ。

あちこちのレコード屋からは先日発売されたマイケルジャクソンのスリラーが漏れ聞こえている。


元来僕は、にぎやかなのは苦手だ。育った環境のせいかもしれない…。

貧乏な家に生まれた僕は、中学高校と貧乏な家の負担にならないようにと、小遣い稼ぎのつもりで新聞配達のバイトをやってきた。

進学のために1年の浪人生活を決め込み、新聞配達のバイトで大学の入学金を貯めた。

大学は敢えて、県外の大学に決めた。この進学を期に、この家を出ることにした。

そうなると自分の学費、生活費を全て自分で賄わなくてはならない。貧乏な家に仕送りなんて期待できるはずがない。

僕にとっては働く事は苦ではない。しかし、県外に出ても僕の選ぶバイトは相変わらず地味なものばかりだった。

誰も知らない場所でどうせバイトするならと、地味な自分を変えたいという気持ちもあって、1年前にブティックの販売員のバイトの面接を受けてみた。

接客なんてやった事もない。まして女性相手になんて。我ながら思い切った行動だったと思う。

ましてや、地方からやって来た僕は、ファッションセンスなんて微塵も持ち合わせていない。

だから面接した社長も、バイト初日に僕をフラッグショップである路面店の【来夢来人】本店の中では働かせず、師走の商店街の通りに、ワゴン1台とラック1台と幾ばくかの釣り銭を持たせて露店販売させたんだと思う。

「今日、3万円売れなかったらクビな。」と、バイト初日から社長にノルマを下された…。それほど見るからに僕はファッションには不釣り合いな人材だったのだろう。


師走、都会の繁華街は、人通りでいっぱいだった。

皆、何かを買おうと躍起になっているように見えた。

確かに、僕を採用したブティックと同じように、商店街の通りにワゴンやテーブルを持ち出して物を売っている店はたくさんあった。

そこかしこのワゴンやテーブルに、人々がたかっている。

僕はこの状況でどうすればいいのかまるで分からなかった。

雇ってくれた社長からはノルマを言付けられている。

何も出来ないでクビになったら…、自分を変えるなんて到底出来るはずがない。


しかし、売り方を教えてくれる人はいない…。見よう見真似をできる手本もない…。考えているだけでは埒も明かない…。

とにかく、もじもじしてても物は売れない。人は寄りつかない。

結果『とにかく、目立たないと…。』という結論に至った。

僕が露店で売るように言いつかっている商品は、婦人服だ。僕には婦人服の知識なんて皆無だった。

ただ、幸運だったのは、ワゴンの中味は婦人用のパーカーとトレーナーだけだったのだ。ラックにかかっている物も婦人用の羽織物だった。


僕は迷わずそれらを着た。僕は体が小さく細い方だったのでそれらは難なく着れた。そして、持っていたハンカチを頭に巻いて…。

奇跡的に田舎者のセンスの悪さが功を奏した。

僕がした無茶苦茶な格好は、当時流行っていたジュリーの「ストリッパー」の衣装に似てたのだ。ビギナーズラックだった。

僕の格好を面白がった通行人が寄って来る。ワゴンの商品やラックの商品を触り出す。

1人の女性がトレーナーをくれと言うと、私も、私も、とあれよあれよと売れていた。

その日は社長のノルマ通り、3万円を超える売り上げを上げた。

社長は「明日は4万円だから。」と、帰りがけに僕にノルマを伝えてきた。

『やっぱり僕はファッションには不向きな人間なのかなぁ…。』


次の日も、その次の日も、またその次の日も、1万円ずつ上げてくる社長のノルマを僕はどうにかクリアーしていった。

その年の大晦日、社長からの売り上げノルマは25万円ぐらいだったけど、僕はその日に50万円を売り上げた。

その売り上げは、【来夢来人】本店の売り上げよりも良かった。

社長は「ずっと冗談のつもりだったけど、内田君がクリアーするから…。こっちもどこまでできるかなぁ…、ってノリでやってたけど、こんなに売り上げるとは、恐れ入ったよ。」と、驚きを隠せない。

「露店ワゴンでこんな売り上げ立てたのも内田君が初めてだよ…。」バイトの初日から考えればえらい人の変わりようだ。

「それで、相談があるんだが…。」

「来年早々、銀座通りにあるファッションビルの【来夢来人】の店長をやってくれないか?」

たった1か月ほどで認められた。結果を出せば報いられる。僕にはこの仕事は向いているのかも知れない。僕は両手を上げて引き受けた。


『あれからもう1年か…。』

先日、社長と酒を飲む機会があった。その時に社長は「大学を卒業したらうちで正社員として働かないか。」と、言ってくれた。

これまで【来夢来人】は社長と専務である奥様の二人三脚で切り盛りをされていた。今後、店舗数を増やして、拡大路線に進みたいらしい。

『まぁ…、社長の体型を見ている限りでは、金回りは悪くなさそうだ。将来的には考えてみても…。』


そんな昔話と与太話を思い出しながら地下鉄の駅に向かって帰り道を歩いていた。

トン…。トン…。

『えっ?!』

ウールモッサのチェスターコートの背中を優しく叩かれた。

僕は慌てて振り返る。そこには背の高い女性…。

「えーっと?」お店のお客様かぁ…?誰だっけ…?

「内田さん。」

「ええ。そうです。」

「驚かせちゃってすみません。川本です。」

「川本…さん。ああ!【来夢来人】本店の。」【来夢来人】本店の初出勤日に顔合わせした女性ひとだったっけ…。すごく印象が変わったなぁ…。きれいになった。


僕を呼び止めたのは【来夢来人】本店でバイトしている川本さんだった。

初めて会ってからひと月ぐらい経ったのかなぁ…。あの時は化粧も「流行りの」って感じで…、格好はブティックでのバイトということもあって頑張っていたけど、「アンアンの物真似」って感じで…。全部「借り物っ」て感じだったなぁ…。

今は化粧も上手くなってるし、服も持ち物も彼女に似合うものばかりだ。女性は変わる時は変わるなぁ…。

「今、お帰ですか?」

「うん。」

「私も同じ方向なんです。ご一緒しても…。」

「ええ。」

それから僕たちは5分ばかりの地下鉄の駅までの道のりを一緒に帰った。


数日後、僕はいつものように帰路についていた。

「…。 …さん。 …田さん。 …内田さん。」

呼びかけに気づき振り返る。僕に手を振りながら駆けてくる女性ひとが目に入る。

「川本さん…。」

「お見かけしちゃったんで声かけちゃいました。」息を切らせながら彼女はこう言った。

「何か、ご用でも?」

「一緒に帰ろうかと思って…。」今日、入荷したばかりの売れ筋のワンピースを着ている。スッキリ背の高い川本さんは見事に着こなしていた。よく似合っている。

『でも、よく、ケチな社長が売れ筋商品の社販を許したな…。』などと考えつつも、5分程度の道のりを一緒に帰った。


次の日の、昼食を終え、ファッションビルの休憩室で缶コーヒー片手に煙草を吹かしていると「内田さん。」と呼ばれる。

煙を吐きながら、呼ばれた方向に顔を向ける。

「川本さん。」

「お店の方でこちらだと聞いたもので…。」

「何かありました?」

すると彼女は手に持った【来夢来人】の店名の入ったくしゃくしゃの紙袋を差し出した。

僕は紙袋の隙間から中味を覗き見る。

「店間移動の商品です。こちらが伝票です。」

『ああ。店間移動の商品を持って来てくれたのか…。本店とここは近いからよくあることだけど…。川本さん、この前入ったばっかりのニット着てる…。それも一番売れ筋の色…。』

「重いのにわざわざありがとう。お店に預けておいてくれれば良かったのに。」

「はい。次からはそうします。」川本さんの顔が暗くなった。

「どうかした?なんか気に触ること言った?」

「…。」川本さんは黙って首を横に振るだけだった。

気まずい雰囲気が休憩室に漂う。競合他社の店員たちも休憩している。『変な噂を立てられるとまずい…。』

僕は咄嗟に「下の喫茶店にでも行こうか。」と、川本さんに言っていた。


川本さんを連れ出したはいいものの。

「時間、大丈夫?」川本さんが【来夢来人】本店を空けている時間が心配になる。

「電話してきます。」と、川本さんは喫茶店にある公衆電話に向かう。そしてほんの二言、三言喋ったかと思ったら僕のいるテーブルに戻ってきた。

『社長から、早く帰ってこいって言われたなぁ…。』と、僕は思っていた。しかし川本さんから返ってきた言葉は「大丈夫でした。」だった。

僕は呆気にとられた。

『あの社長が…?考えられない…。』


お茶を飲みながら続かない他愛もない会話を繰り返し、僕の休憩時間の終わりが近いた。

「ぼちぼち交代時間だから店に戻ります。」

「はい。お時間、ありがとうございました。楽しかったぁ…。」

「そう?それは良かった。」

「また、来ていいですか?」

「う、うん。【来夢来人】本店の方が問題なければ…。」

「【来夢来人】本店は大丈夫ですよ。じゃあ、また来ますね。」川本さんはさっきの暗い顔から打って変わって明るい表情であっけらかんと言葉を返す。

「そ、そう。じゃ、先出るね。」僕は移動商品の入った紙袋とレシートを取り、2人分の支払いを済ませ店に戻った。


次の日、お昼少し前に店の電話が鳴る。

『客注取り置きか?商品移動か?』こんな時間に電話が鳴ることは珍しい。

定期的にかかってくる電話は夕方の4時と夜8時の閉店間近。社長が売り上げ確認をするためだ。それ以外の重要な取引先やお客様の電話は【来夢来人】本店の方にかかるようになっている。

僕の店はファッションビルの中に入っている。通路にはひっきりなしにビルの案内がアナウンスされている。両サイド薄い壁だけが隣店との仕切りになる。

どこも、広さ10坪程度の店々が好き勝手な音楽を結構なボリュームでかけている。

こんな状況下では、ゆっくり電話なんてしていられない。

「毎度ありがとうございます。【来夢来人】ファッションビル店でございます。」

「【来夢来人】本店の川本です。」

「内田です。何かありましたか?」

「内田さん。今日のお昼休憩は何番目ですか?」

「えーっと。今日は2番目です。それが何か?」

「お昼ご一緒してもいいですか?」

「ええ…。大丈夫ですよ…。」

「1時からですよね。」

「何もなければ…。」

「じゃあ、1時にそちらに行きますね。」

「はい…。」で、電話は切れた。


川本さんは1時きっかりに【来夢来人】ファッションビル店にやって来た。

競合他社の店で売れ筋だと聞いているコートを羽織っていた。僕の店の店員も周りの店の店員も少し変な目で見ている。僕は川本さんを引き連れてそそくさと店を出た。

「小町通りにできた新しい洋食屋さんに行きたかったんです。1人じゃ不安だったから…。」と、川本さんはファッションビルを出るまでに今日のお誘いの理由を述べた。

「そうだったんだ。じゃあ、そこでお昼にしましょう。」


小町通りに新しくできた洋食屋は確かに美味しかった。ただ、店内が女性趣味っぽくて僕は落ち着いて味わえなかった。

店へ帰る道すがら「今度、夜につきあってくれませんか?新しくできたお店に行きたくって…。」と、川本さんは聞いてきた。

僕はなんの気なしに「前もって言ってもらえれば、空けておきます。」と、応えていた。


次の日、閉店後にファッションビルの従業員出入り口から出ると、川本さんが立っいた。

「お疲れ様です。」

「お疲れ様。誰か待ってるの?」

「内田さんを待ってたんですよ。」

「僕を?」

「はい。」

「ここで長話はなんだから…。」

『また変な目で見られる…。』そう思った僕は川本さんを連れて、さっさといつもの帰路についた。

「昨日、夜につきあってくれるって、言ってくれたじゃないですか。」

「う、うん。」社交辞令のつもりで何も考えずに確かに言った…。

「いつ、お時間あるかなぁ~って思って。」

「そ、そうだったね。えーっと…。確か、クリスマスイブの前が休みだったから…、バイト終わってから…、22日の晩だったら大丈夫かなぁ…。」

「ありがとうございます。じゃあ、22日の晩で。」



12月も深くなると【来夢来人】ファッションビル店は目が回る程の忙しさだった。僕はこの忙しさにかまけて川本さんとの約束をどこかに置いてきてしまっていた。

約束の日も普段と変わらず店を閉め、ファッションビルの従業員出入り口から帰ろうとしていた。俯き加減で煙草を咥え火を…。

「内田さん。」頭を上げると目の前に川本さんがいた。

「あっ…。お疲れ様。」今日の川本さんは髪を下ろしていた。いつもは後ろでまとめている。化粧もいつもよりキツめだ。それよりも目を引いたのは、真っ赤なコートと真っ赤なピンヒールだった。

「さあ!行きましょ。」

「ど、どこへ?」

「約束したじゃないですか。新しくできたお店…。」すっかり忘れてた…。

「そ、そうだったね。」こんな格好で大丈夫か…?お金、足りるか…?

川本さんは僕の腕を取り、急かすように連行していく…。


何本か筋を越え、飲食店の多い区画に入る。

「こっちかなぁ…。」迷いながらも川本さんは先導する。僕は腕を引っ張られながらついていくだけだ。

「あった。あった。」川本さんは雑居ビルの2階辺りを指差した。

「チェリーレイン…。ディスコ…!!」

新しくできた店ってディスコだったんだ。もし川本さんの目的地がここならば、僕にとってはディスコなんて生まれて初めての経験になる。

よく見ると雑居ビルの周りには奇抜なファッションに身を包んだ若者たちが煙草を吹かしながらあちこちにたむろしていた。


2階のディスコへは雑居ビルの正面に無理矢理つけられたような螺旋状の外階段から入るようだ。

僕は川本さんに腕を引っ張られながらその階段を及び腰で上っていく。

螺旋階段は径が小さく目が回る。上りきるとそこには大きな真っ黒な鉄扉。川本さんは躊躇なくその真っ黒な鉄扉に付けられた金色のさくらんぼの形をしたドアノブを握り、重そうな扉をゆっくり開けた。


「これはこれは。ようこそ。」

はだけた柄物の合繊シャツ。その胸にゴールドのネックレスをこれでもかっと言わんばかりに巻いた色黒の男たちが挨拶をくれる。

僕が抱いていたディスコの印象とは違い、ここの部屋は全くうるさくない。多分、ここは受付か何かだろう。川本さんは色黒の男の1人に紙きれを渡している。僕にはディスコというもののシステムはよく分からない…。

「お荷物はあちらのロッカーにお願いします。」ごてごての見た目の割には以外と腰が低い。言われるように手荷物を入れる。コインロッカー同様、鍵は自分で持ってないといけないようだ。

川本さんはバッグと真っ赤なコートをロッカーに預けたようだ。真っ赤なコートを脱ぎ去った彼女は、真っ白なモヘアの体に張り付くノースリーブのミニ丈のワンピースに、そのウエストに黒の革が間に通ったゴールドのチェーンベルトという出で立ちだった。

反して、僕の出で立ちは、今日、店に着ていった黒のオフタートルのセーターにアーミーグリーンのジョッパーズ。ここのきらびやかさには全くそぐわない。

「本日、ご招待券お持ちのお客様はワンドリンクサービスとなっております。何になさいますか?」

「私はスクリュードライバーを…。」スクリュー?ドライバー?

「僕は…、ビールで。」アルコールなんてビールか日本酒ぐらいしか知らない。

「只今お持ちします。少々、お待ち下さい。」

しばらくすると同じように柄物の合繊シャツをはだけた違う色黒の男が両手にプラスチックコップを持ってやって来た。

僕には泡立った琥珀色のコップを、川本さんにはオレンジ色のコップを渡す。

「では、中でお楽しみください。テーブルはどちらでも結構です。」と言うと、また違う柄物の合繊シャツの胸をはだけた2人男がこの室内にある大きな金色の鉄扉をゆっくりと左右に開いた。瞬間、けたたましい音と何色もの光の柱に僕らは襲われた。


川本さんは僕の手をしっかりと握り雷鳴とどろく中へ誘った。

人をかき分け、コップの飲み物をこぼさないように奥へ奥へと進む。

すると、ぽっんと背の高い小さな丸テーブルが現れ、川本さんはそこにオレンジ色のコップを置いた。

「ここにしましょ。」よくは聞こえない。騒音にかき消される。

「鶴美、久しぶり。」

「ご無沙汰してます。」川本さんは、小刻みに体を揺らすサングラスをかけた男から話しかけられている。

僕からは話している内容は聞き取れない。二言三言話すと小刻みに体を揺らすサングラスをかけた男は離れていった。

するとまた違う男がやって来て川本さんに声をかける。二言三言話すとまた離れていく。それが何度も続く。

僕は肩身が狭く、時間ももてあまし、プラスチックコップのビールをちびちび口にしていた。

たった一杯のビールだったけど、空腹のためか、激しい光と轟音のせいか、僕は急に立っているのもやっと、という状態になってしまった。

『やばい…。立ってられない…。川本さんは忙しそうだ…。申し訳ないが、無言で先に帰らせてもらおう…。』


僕は覚束ない足取りで爆音とどろく戦場を抜け、荷物を取り、螺旋階段を転がるように下りた。

『大通りに出てタクシーを拾おう。』よろよろと建物の壁に手を宛行いながら歩いていた。

殊更、酒に強い方ではないが、こんなことになったのは初めてだ…。

『あそこまで行けばタクシーを拾える…。』と思った矢先、腕を掴まれた。

「内田さん。大丈夫ですか?」川本さんだった。

「ほめんふぁふぁい。《ごめんなさい》ほめんふぁふぁい。《ごめんなさい》」呂律も回らない。頭も回らない。

「内田さん。この近所に私の知ってるお店があるから、少し休んで行きましょ。」

「ふぁえ…。《かえ》ふぁえ…。《かえ》」【帰ります】と、言えない。口が動かない。

川本さんは僕の腕を肩にかけ、腰に手を回し、僕の意思とは違う方向に連れて行く。

僕には抗える力はなかった。


『いったいどこを歩いているのか?いったいどこに連れて行くのか?』朦朧とした意識の中で同じ質問を繰り返す。

気がつくとコンクリートの階段を下りていた。古ぼけた木の扉を開ける。煙の充満した空間。様々な臭いの入り混じった空気。薄暗い中にゆっくりとうごめく人間。まるで、地中に潜り込んだようだ。僕は川本さんの誘いで柔らかいソファーのようなものに寝かされた。

「内田さん。これ飲んで。楽になるわよ。」遠くの方で声がする…。その声は頭の中で鐘のように響き渡る…。混乱している…。

声が言うがままに出された何かを口にする。味も匂いも分からない…。

瞬間、僕は意識を失った…。




肌寒くて目が覚めた。明るい。目の前に見覚えのある天井があった。体をまさぐる。何も身に付けていない…。昨晩の事を思い浮かべる…。耳の中に膜が張っているようだ。よく聞こえない。川本さんとディスコに行ったのは事実として…、僕はどうやって帰ってきたんだ?

ゆっくり体を起こす。辺りを見…、

…誰かいる。

僕の布団に包まっている。ボケた焦点を意識して合わす。布団から出た黒く長い髪…。『誰だ?』

僕は布団に手をかけた。勢いよく捲ろうと思ったが、布団が小刻みに震えている『どういうことだ…?』

「許して…。お願い…。」

「えッ?!」どういうこと?

「もう、許して…。」

「大丈夫…。何もしないから…。」こもっているけど、川本さんの声だ…。

「ほんとに…。」

「ほんとに。安心して。何があったの?」

「…。」

「何があったの?布団から出れる?」

ゴソゴソと布団が動く。そしてゆっくりと川本さんが体を起こす。布団から頭だけ出した。

「どうしたんだい?その顔。」川本さんの顔はあちこち赤くなっていた。

川本さんは顔を震わせ涙をこぼしながら「覚えてないんですか?」と、涙声で言う。

「えッ?!何を…。」いくら記憶を呼び起こしても何も出てこない。

「調子を悪くした内田さんを抱えてタクシーで家まで送っただけなのに…。」投げやりな言い方だった。

「あ、ありがとう。それで僕は…?」

「ほんとに覚えてないの?」川本さんは本気で怒っている。

「う、うん。ごめんなさい。」

「あなたは無理矢理…、私を…。」川本さんは声を上げて泣き出した。

僕は察しがついた。僕は川本さんを無理矢理押し倒したのだろう…。最悪だ。

僕はその場に土下座して謝るしかなかった。

「川本さん。ごめんなさい。本当にごめんなさい。」

「あなたは嫌がる私を…、何度も何度も…。」

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」僕は同じ言葉を馬鹿みたいに繰り返すしかできなかった。


暫しの沈黙の後「…洗いたい。…体。」と、川本さんは震えた声で言う。

僕の住む男子学年専用のアパートには部屋風呂はない。トイレも台所もない。

ただ、共同で使えるトイレ、簡単な台所、1人用のシャワーはある。

年明けの後期試験までは大学は休み。このアパートの僕以外の住人は故郷へ帰省していて誰もいないはず…。

僕は裸にジーンズとシャツだけをつけ、川本さんに僕のスエットの上下を着てもらい共同シャワーまで連れていった。石鹸やバスタオルを手渡し、共同シャワーの使い方を説明し、僕は部屋に戻った。

ジッとあの場で待ってられるのも嫌だろうと思ったからだ。


戻った部屋で冷静になってもう一度回りを見渡す。

獣たちが暴れたような有り様だった。

シーツには血の跡が…。自分のしでかした事を否応なく認識させられた。

部屋の隅に川本さんのバッグが転がっている。中味も飛び出てしまっている。

『中味だけでもしまってあげよう。』と思いバッグに近づき片づけようとした…。

僕の目に金の文字が書かれた手帳が目に入った。

【私立✕✕女子高等学校生徒手帳】

僕は震える手で手帳を取り、震える指で手帳をめくった。白黒の顔写真が貼られている。

【川本鶴美 昭和✕✕年✕✕月✕✕日 生】

僕の頭は計算し始めた。『今は昭和✕✕年。川本さんの生まれた年は昭和✕✕年…。』僕の頭は計算をやめた。僕は要らぬ事実を知ってしまったらしい。体中から血の気が低い。

『川本さんは…、まだ…、16だったのか…。』

心臓を押し潰されたように胸が痛くなる。急に視力を失ったように目の前が真っ暗になる。自分の愚かさがまたのしかかってくる。いったいどうすれいいのか、分からない。

僕が川本さんの生徒手帳を持って固まっていると、シャワーを済ませた川本さんがドアを開けた。


「…私は、内田さんを好きだった。」

「えっ?」

「…でも、内田さんは、…。私の体だけ。」

「違う。そんなことはない。」

「…私からアプローチしてるのに、いつも迷惑そう。」

「違う。僕は知らなかったんだ。女の人と付き合ったこともないから…。」

「…じゃあ、私の気持ちが分かった今は?」

「う、うれしいよ。」

「ほんとに?」

「ほ、ほんとに本当。」

「じゃあ…、私の彼氏になってくれる。」

「う、うん。」口からでまかせでもこの場を収めたかった。

「やったぁ~。」

「…。」

「じゃあ…、今回の件は許してあげる。」

「あ、ありがとう。」『助かったぁ…。』大事にならずに済んだ安堵が押し寄せる。どうにか乗り切った幸運に感謝する。自分の無責任、無誠実さを棚に上げて…。




クリスマスイブ、クリスマス、大晦日と、年内は変わらず【来夢来人】ファッションビル店のバイトに勤しんでいた。

変わったことと言えば、川本さんからの命令で、川本さんを【鶴美ちゃん】と呼ぶようになり、バイト帰りはいつも一緒に帰るようになったことだった。

次のシフトはファッションビルが始まる新年3日から、元日、2日は休みがもらえる。

鶴美ちゃんは大晦日から新年の初バイトの日まで僕のアパートへ泊まりに来ると言う。

僕にはそれを断わる勇気はない…。あの日の事を蒸し返されたくないからだ…。



僕の学生アパートに泊まりにきた鶴美ちゃんが「達哉、自転車買わない。」と、脈絡なく提案してきた。

「急にどうしたの?」

「自転車があれば、休みの日に少し遠出ができるし…。」

「うん。」

「それに私、もう学校が始まるから、バイトに入れる日数も減るし…。」

「うん。」

「だから、バイトに入れない日は、自転車でここに来て達哉の帰り待ってたいの。」

「うん。分かった。じゃあ、新年の営業が始まったら、自転車買いに行こう。」

とにかく僕は、鶴美ちゃんの機嫌を損ねる訳にはいかない。

鶴美ちゃんは笑顔で納得してくれた。




新年も5日を過ぎ、世の中も通常営業に戻ったこの日、【来夢来人】本店の鶴美ちゃんから「お昼を一緒に…。」と、連絡があった。

約束の時間に外に出ると、鶴美ちゃんはもう来ていた。

「はい、これ。」

「えっ?」紙包みを渡される。中味は商店街にあるパン屋のカスクートだった。

「食べながら向かいましょ。」と、鶴美ちゃんは僕の先を歩く。


連れて来られたのは大通りにある大きな自転車屋。

「達哉、どれにする?」

『正月休みに言ってた話か…。』鶴美ちゃんは自転車屋の店内を、ところ狭しと置かれた自転車を器用にぬって足取り軽やかに見て回る。

僕も意を決して見ようとした時「達哉~。達哉~。こっちこっち~。」と大声で呼ばれる。

行ってみると白と黄色の自転車が…。真っ直ぐなハンドに籐のカゴがついている。

「達哉はどっちの色にする?」鶴美ちゃんはもうこれに決めているみたいだ。

「僕はどっちでもいいよ。」

「じゃあ~、達哉は黄色。」

「うん。分かった。」

「すみません。これ2台下さい。」

「2台ですと…、139,600だから…。登録料込みで、135,000円にしておきますよ。」

「今、持ち合わせないので直ぐにおろして来ますね。」鶴美ちゃんは咄嗟に返した。

「お待ちしております…。」自転車屋の店員の心のこもっていない声…。

鶴美ちゃんは僕を連れて慌てて外に出る。

「高かったね。びっくりしちゃった。」

「でも、あれが気にいってるんだよね。」

「うん…。でも私、お金無いし…。」

「じゃあ…。」と言って、僕は銀行のATMでお金をおろした。

僕はバイトの給料から大学の学費のための蓄えもしている。いく分かの余裕はある。なので、もとより自転車は2台とも僕が買うつもりだった。そう行動するのも鶴美ちゃんへの後ろめたさからかも知れない…。

自転車屋へ戻ると、店員は驚き顔で「おかえりなさい。お早かったですね。」と、言った。多分、僕たちのことをたちの悪い冷やかしだと思っていたのだろう。まぁ、ある面、そうだったのだが…。

支払いを済ますと、店員は素早く登録作業を済ませ、自転車2台分のチェーンロックまでくれた。

僕たちは2人してその真新しい自転車を各々の店まで押して戻った。

バイト終わり、2人で自転車に乗って帰宅することにした。

バイト先からは僕は地下鉄で5駅、鶴美ちゃんは3駅のところに家がある。鶴美ちゃんの家の近所まで送り、僕はアパートへの帰路を急いだ。


学校が始まると鶴美ちゃんはバイトに入らない日は、直接僕のアパートに来て、部屋の掃除や僕の衣服の洗濯なんかをしながら僕の帰りを待っていてくれる。

僕が帰宅すると一緒に夕飯を食べに行き、そのうち数日は泊まっていく。

夕飯を食べて帰る日は僕が自転車で鶴美ちゃんの家の近くまで送っていく。

泊まる日は、一緒に銭湯に行って、夕食を取って、アパートに戻って寝る。ただこれだけ。決して、男と女の関係はもたない。

どうしてもあの日のことが僕には心の傷になっている。僕があの時、いったいどうなってどうしたのか分からない。だから、自分が怖い…。

今、僕にできることは鶴美ちゃんの手を握って寝るのがせいぜいだ。鶴美ちゃんもそれに不平不満を言うことはなかった。

多分、僕は鶴美ちゃん心にも傷を付けてしまったのだろう…。


鶴美ちゃんと僕のよく分からない付き合いが始まった新年の1月は終了しようとしていた。

僕は後期試験も終わり、また、【来夢来人】ファッションビル店でのバイトの日々に戻る。

高校の3学期が終わるまでは鶴美ちゃんはバイトにはあまり入れない。だから、学校帰りに自転車で僕のアパートに来ることが多くなった。




月替わり2月のある日、バイトからアパートに帰宅すると鶴美ちゃんが泣いていた。

「どうしたの?何かあったの?」

「達哉、酷いんだよ…。」

「何があったの?」

「私がここに来た時、アパートの前に置いてあった達哉の自転車がなかったの。」

「えっ?!」

「いつも置いているところをみたら、これが…。」それは僕の自転車に付けていたチェーンロックだった。

「切られてる…。」

「せっかくお揃いで買ったのに、盗られちゃった…。」

「大丈夫だよ。登録しているからそこの交番に届け出るよ。」

「今から行く?」

「そうしょうか。」

僕は鶴美ちゃんと一緒に学生アパート近くにある交番に自転車の盗難届けを出しに行った。


届け出した2日後、僕のバイトする【来夢来人】ファッションビル店に交番から電話が入る「自転車が見つかった。」と…。


交番から連絡があったこの日、僕は自転車を受け取って帰宅しようと考えていた。

帰り道、交番に寄るとそこには無残に壊された僕の自転車があった。

「見つかったは見つかったんだけどねぇ…。」交番のお巡りさんも困り顔だった。

「ありがとうございました。」なぜか僕は酷いことをされているのに怒りも悲しみもなかった。ただ冷めていた。

「盗難と器物破損で捜査するかい?」

「いえ。結構です。」僕は本当に本心から断わっていた。

ゴタゴタが長引くことが断わる理由ではない。自転車を買った時から何かずっと釈然としない感情が僕の中でうごめいていたからだ…。


交番からアパートに戻る途中にあるごみ捨て場にボロボロになった自転車を捨てた。あちこちに深いキズが入っている。まるで恨まれているみたいだ。

アパートの部屋に戻る。今日は鶴美ちゃんは来ていなかった。久しぶりに自分だけの時間が持てた。心からくつろげた…。


次の日、バイトを終えアパートに帰ると鶴美ちゃんが待っていた。僕は昨日の自転車の件を話した。

鶴美ちゃんは大粒の涙を流し怒りをあらわにした。「なんで?なんで?私たちの邪魔するの?いったい誰の仕業なの?」と…。

この時の僕には鶴美ちゃん程の激情はなかった。そして、彼女の示した反応が正しいのかどうなのかも分からなかった。


この後、しばらくは何も起こらなかった。鶴美ちゃんとの付き合いにも然程変化はなかった。

変化が現れたのは月が替わった3月に入ってからだった。

この日は鶴美ちゃんも【来夢来人】本店のバイトに来ていた。

いつものように閉店後、一緒に帰路につく。鶴美ちゃんは帰りの地下鉄の中で、今日は泊まると言ってきた。

何も問題は無い。淡々と了承した。

付き合う時間が経るごとに僕の中でこういう行為にも然程緊張しなくなった。特別な事ではなくなっていった。

何も考える事無くいつものようにアパートまではたどり着いた。変化があったのは、僕の部屋のドアの前に立った時…。

ドアに貼り紙がされていた。

「出ていけ!」と…。


僕たちは部屋に入ること無く、帰ってきた道を折り返す。僕は無意識に先ず鶴美ちゃんを家まで送る。

鶴美ちゃん送り終えたあと、頭を冷静にすることに努める…。帰り道の途中にある公園のベンチに腰掛けて頭を冷やす…。何が起きているのか考えを巡ら…す。

自転車を盗まれ、壊された件…。さっきのドアの貼り紙の件…。

狙われているのは僕だ。僕はいったい何をやらかしたのか?何も思い当たらない…。

僕にとって変化したことは鶴美ちゃんと付き合い始めたことだけ…。

それが標的にされる理由なのか…。分からない…。


僕は、この件があった一週間後、人知れず引っ越しをした。




僕が引っ越す事で鶴美ちゃんの家からの距離は近くなったけど、大学への通学の距離は遠くなった。ただ、環境は劇的に良くなった。

今までは多くの学生たちが住む下宿屋街のような町に住んでいたが、引っ越し先は閑静な住宅街にある凝った造りの一軒家だ。しかも格安で住まわせてもらっている。

それもこれも貼り紙の件で僕を心配してくれた鶴美ちゃんが、ご両親の知合いの不動産会社を紹介してくれたからだ。

鶴美ちゃんは僕の現状の話も不動産会社にしてくれていた。

不動産会社は鶴美ちゃんの話を考慮し、家の留守番として住んでもらえるならと、この優良物件を斡旋してくれた。

この物件の持ち主は現在、海外赴任中で、用心のために誰かに住んでもらいたかったらしい。

ただ、できれば、単身者であまり家にいない人物が良かったようだ。新しく建てたばかりで、家を傷めたくないらしい。

この条件は僕にはうってつけだった。そして、僕にとっては、渡りに船だった。

転居に際しての敷金礼金や家賃の増加は痛手だったけど、不安を抱えたまま生活するよりはマシだ。

引っ越しは、鶴美ちゃんの高校のお友達のお兄さんという方が手伝ってくれた。

当日、軽トラで来てくれたが、元々、持ち物の少ない僕の荷物は軽トラの荷台半分程度しかなかった。

そのせいか、全てを運び終えるまで2時間とかからなかった。引っ越しを手伝ってくれたくれた鶴美ちゃんのお友達のお兄さんに謝礼を渡そうとすると「鶴美から受け取ってるから…。」と、物静かに辞退された。

不動産屋の紹介から引っ越し先の斡旋、引っ越しの手はずまで、僕の代わりに全てやってくれた鶴美ちゃんの気遣いに心から感謝した。

特に、ここしばらく、大きなお金の出費が重なることになった僕には、引っ越し費用がかからなかったことは幸いだった。




環境が変わった生活は僕に張り合いを与えてくれた。

数カ月に渡る様々な出来事からマイナス思考だった精神面も良くなった。バイトの調子も良くなった。鶴美ちゃんとの関係も何か違ってきた。

これまでは鶴美ちゃんに対して、お節介、お仕掛け女房のように思う節があったけど、今ではそれも取り払われたように感じる。

鶴美ちゃんとこの家で過ごしていると、新婚生活ってこんな感じなのだろうかと思ってしまう…。

この家は造りがかなり凝っていて、木材がふんだんに使われている外観、口の字に建てられた2階建て、その真ん中は吹き抜けでタイル敷きの中庭になっている。

そこに置かれてあった木製テーブルセットに腰掛け、朝食を取るのが僕の新しい習慣となった。食後にコーヒーを飲み、煙草を燻らす、僕のお気に入りの時間だ。

鶴美ちゃんが泊まった朝にも同じように時間を過ごす。僕にとって今まで経験のなかった心穏やかになるひと時だ。

この家は部屋数も多い。だから鶴美ちゃんが泊まりにきても僕とは違う部屋で寝てもらうことにしたので、僕の精神面も安定していた。

別の部屋で寝ることに対して鶴美ちゃんも反対することはなかった。多分、あの日のことがずっと引っかかっているのだろう。

ただ、一緒の部屋で寝ないせいか、鶴美ちゃんの起きている時の親密度が強くなったようには感じる。ずっと、手を繋いでいたがるし、僕の体に触れたがる。

それにここ最近は下着姿でうろうろすることも増えた。

何かのアピールなのか?それとも僕の考え過ぎか?




「達哉。車買わない?」

「えっ?!急にどうしたの?」

朝食を中庭でとっている最中に、また急に鶴美ちゃんが言ってきた。

「達哉の自転車がなくなっちゃったから、全然どこにも行けてない…。」

「うん。」

「せっかくお家に駐車場あるんだから、車買ってあちこちに行こうよ。」

「う、うん。」ここまで色々と助けてくれた鶴美ちゃんの提案に、僕に逆らえる権利はない。

「親戚に車屋さんいるから、安く譲ってもらうから…。」

「でも、僕、免許無いよ。」

「じゃあ~、急いで免許取りに行こうよ。隣町にある教習所、夜間もやってたよ。」

「そうなんだ。分かったよ。」

「やったぁ~。」どうしても鶴美ちゃんの申し出を断わることはできない。

次の休みの日に、隣町の教習所に申し込みに行った。入所金が30万円弱。免許取得にはあと諸々5万円程かかる。また、出費が嵩む。でも、僕には鶴美ちゃんの願いを断われない。入所金を支払い、教習所に通うことになった。




4月には車の免許は取得できた。

そんな中、鶴美ちゃんは車のカタログを持ってきた。

「どれにしょうか?」

「えっ?!」

「この中のだったら安くしてくれるって。」

僕はパラパラとカタログを見た。カタログには値段が表記されてなかった。でも見るからに高そうだ。

学生の身分の僕には分割払いなんか組めない。かと言って、現金一括で買える程の預金もない。というか、これ以上預金に手をつけると、授業料の支払いができなくなる。それに生活もままならない。僕は悩むしかできなかった。

「達哉、お金なら大丈夫よ。」

「えっ?」僕の気持ちを見透かしたように鶴美ちゃんは言った。

「親戚の車屋さんが先に現金一括で払ってくれるから、それを分割払いで返してくれれば良いって。」

「そんなに甘えて…。」

「大丈夫。それよか…これにしない?」

「あっ…。うん。そ、そうだね…。」

鶴美ちゃんの選んだのは小型のドイツ車のカタログだった。いったいいくらするのだろうか…?僕には想像もつかない金額の買い物だ。


1週間後、鶴美ちゃんの希望した車が家に届いた。【フォルクスワーゲン ゴルフ カブリオ】と言う名前の車らしい。色は赤。屋根が幌になっていてオープンカーとしても走れるようだ。

納車してくれたら鶴美ちゃんの親戚の車屋の従業員が車の各部の説明を丁寧にしてくれた。

その後、車の代金の支払いに対して聞かれた。僕は鶴美ちゃんから聞いている話を伝えると「それでは月々、いかほどばかり返済できますか?」と、質問を受けた。

僕は「月々3万円ぐらいなら…。」と、答えると車屋の従業員は「分かりました。月々3万円を月末までにこちらの口座までお振込み下さい。」と、僕の意思を汲んでくれた。

「ただ、」と、車屋の従業員は話を続ける。

「今回のお取引に関しまして、川本様より特別な依頼として承っております。内容としましては、車の代金は弊社が一括で車会社の方へ支払いしておきます。

内田様には月々無理のない範囲での弊社へのご返済をお願い致します。ローン契約のような返済期限は決めませんので…。

その上で、車の所有名義は全てのご返済が終わるまでは弊社名義とさせて頂きます。全額返済完了の暁には晴れて内田様名義に変更致します。この点だけご承知おき下さい。」と、説明を受けたが、僕の頭の中は3万円を捻出することばかりを考えていた。

「今のご説明で宜しければ、こちらの書類にご署名ご捺印をお願い致します。」と、車屋の従業員は紙を差し出す。僕は訳も分からず、名前を書き、判子を押した。一連の作業が終了すると、車屋の従業員は僕に車の鍵を渡した。




学校帰りの鶴美ちゃんが僕の家に来た。納車された車を見て開口一番「ドライブに行きましょ。」と。

僕も見ず知らずの人から良く訳の分からない話を鵜呑みにして署名、捺印してしまったことに、少なからず後悔を覚えていた。もやもや、むしゃくしゃ、した気分は間違いなかった。だから鶴美ちゃんの意見に直ぐ賛同できた。

4月上旬の夕方。まだ肌寒い。だけど僕は車の幌を上げた。そういう気分だった。

車からは何かできたての新しい匂いがする。僕は鶴美ちゃんを助手席に座らせて車のエンジンをかけた。瞬間、車体を微かに震わせて静かな爆発音が一定のリズムを刻み始めた。シフトをDに入れパーキングブレーキを戻す。フットブレーキから右足を外すと車はゆるゆると前に出た。


鶴美ちゃんとの初めてのドライブは爽快だった。まだまだ運転に不慣れな僕だったので、冷や汗をかきながら、それでも夢中で車を走らせていた。何もかも忘れてた。何もかも忘れられた。

ほんの30分程度のドライブだったけど、心地良い疲労感と言い知れぬ高揚感が熱をもって僕を包み込む。僕の中で新しい何かがはじけ飛ぶ。成長したような錯覚を覚えた。

「楽しかったねっ。」鶴美ちゃんの言葉に頷くことしかできない僕。

始めは鶴美ちゃんの申し出を嫌々飲んだ僕だったが、今は『彼女は僕を知らない世界へ誘ってくれているのかも知れない…。僕の前にある新しい扉を開けてくれているのかも知れない…。』と、思えてしまう僕がいた。




借家ではあるが大きな凝った作りの家、借金の返済はしないといけないけれど、ガレージにはドイツ製の真っ赤なオープンカー。朝食は中庭で優雅に食する…。たった5が月前とは考えられないような生活だ。

大学3年生で僕の生活は一変した。心持も変化した。何か変な余裕を感じる。これが大人と言うものなのだろうか…。今まで辛抱してきたものは何だったのだろうか…。

この素晴らしい世界を教えてくれたのは鶴美ちゃん。鶴美ちゃんはこれからも僕を知らない世界へ連れていってくれるだろう。だから僕は今の生活を、今のこの世界を、しっかり守らなくてはいけない。


大学3年生の今の僕は、ブティックのバイトの方に力を入れている。大学の単位は2年生までに8割は取得している。少々授業をおろそかにしても問題ない。この学年であれば就職活動も始めなければならないが、僕は社長が誘ってくれているこの会社に就職するつもりだ。大学在籍中に社長、専務である奥様と力を合わせてブティックを拡大させる。僕は収入を増やし借り物ではない本物の生活を手に入れる。そして、鶴美ちゃんと本物の家族を作る…。今の僕は今までの人生でないほどに活力にみなぎっている。


天皇誕生日の祝日の前夜からゴールデンウイークが終わるまで鶴美ちゃんが僕の家にずっと滞在すると言ってきた。その期間はここから学校もバイトも通うと言う。

僕には断る理由はない。それに、前とは違い嫌々受け入れているわけでもない。どちらかというと、僕も一緒にいたいぐらいだった。


鶴美ちゃんと過ごす時間はどんどん楽しいものになっていった。家で二人して夕食を作る。車を走らせて街のレストランで舌鼓を打つ。休みの日には車で郊外へドライブに行った。毎日が楽しい。毎日が新しい。この生活を続けたい。この生活を続ける…、鶴美ちゃんと共に…。





ゴールデンウイーク明けの水曜日の早朝、家のチャイムがけたたましく鳴らされた。

「達哉、怖いよ。」隣の部屋で休んでいた鶴美ちゃんがスリップ姿で僕の部屋に飛び込んできた。

「なんだろう。見てくるよ。」そう言っている最中もチャイムは鳴り止まない。

「はーい。何ですか?」玄関ドアを開けることなく僕は問いかけた。

「鶴美いるだろ!」

「どなたですか?」

「鶴美いるんだろう!」と言うと外にいる男は玄関ドアを蹴り出した。

僕は『壊されたらたまったもんじゃない。』と思い、チェーンのかかったままの玄関ドアを開けた。

刹那、その隙間から色黒の顔の男の大きく見開かれた目と目が合った。

「鶴美を出せ!」

「近所迷惑になる大声を出すな。」

「鶴美。鶴美はどこだ?」

「あんた鶴美ちゃんの何なんだ?」

「俺は鶴美の婚約者だ!」

「えっ?!」僕の逆上せた血液が一気に冷める。冷静を取り戻す。

「鶴美、いるんだろ!」男は同じ言葉を繰り返す。

「聞け!」僕は外の男に対し恫喝した。

「…。」男はおとなしく僕の言葉を聞いてくれている。

「僕は今から仕事に行かなくてはいけいない。」

「…。」

「晩の8時に仕事が終わったらあんたのとこへ行く。」

「…。」

「どこに行けばいい?」

「鶴美が知ってるよ…。」

「分かった。聞いて行く。必ず行く。今は帰ってくれ。」

「…。必ず…、だぞ。」

「ああ。」

男は玄関ドアから消えた。

僕は鶴美ちゃんの元へ行き、この男のことを伝え、話を聞くことにした。

鶴美ちゃんは暫し黙っていたがぽつぽつと語り出した。

「あの男の言う事はほんと…。私はあの男と結婚することになっている…。」

「…。」鶴美ちゃんはまるで他人事のように言う。

「高校を卒業したらあの男と結婚する気でいた…。達哉と会うまでは…。」

「あいつはどういう人間なの?」

「うちの近所にあるラーメン屋の息子…。達哉よりひとつ上だったかなぁ…。」

「じゃあ、あいつは鶴美ちゃんの家の近所にいるんだね。」

「そう。」

「そこに行けばいいんだね。」

「うん。」

「バイト終わったら行ってくるよ。」

「達哉、私も行く。」

「分かった。」





バイト終わりに地下鉄で鶴美ちゃん家の最寄駅に向かう。

逃げ出したかった。何でこんなことになっているのか皆目見当がつかなかった。

何で見ず知らず男に会いに行かなければならないのか分からなかった。

バイト中もずっと同じことを考えていた。相談できる人もいない。ひとりで考えたところで答えなんて出るわけがない。

ただ、よくよく考えると、僕は鶴美ちゃんのことを何も知らないのだ。僕が知っている鶴美ちゃんは、僕の目の前にいる鶴美ちゃんだけなのだ。

最寄駅を出た僕は覚悟を決めきれずに煙草に火を付けた…。


駅を出た直ぐの道路で鶴美ちゃんは待っていてくれた。

「達哉、ごめんね。変なことに巻き込んで…。」

「うん。」

「怒ってるよね。」

「うん。」

「たぶん、あいつなんだよ…。」

「何が?」

「達哉の自転車壊したの…。達哉のアパートに貼り紙したの…。」

確かに…。僕が恨まれる可能性があるとするならば、あの男しかいないだろう。

「あいつの親に私の父親が借金をしているの…。」

「…。」

「あいつの親と私の父親は共同で事業をやってたの。」

「…。」

「それに失敗して二人して多額の借金を作ったの。」

「…。」

「その借金を全額あいつのお爺ちゃんが肩代わりしてくれたの。」

「…。」

「あいつのお爺ちゃんは返済はいつでもいいって言ってくれてた。」

「…。」

「でも、お爺ちゃんが亡くなって、あいつの親が借金を直ぐに返せって言ってきた。」

「…。」

「私の父親は急な申し出に全額は対応できなかったの。」

「…。」

「だから、私があいつと結婚することで残りをチャラにしてやるって…。」

「…。」

「そんな話…。」

「分かった。もういいよ。」僕の腹は決まった。


鶴美ちゃんに案内してもらいあの男住むアパートにやってきた。

コンコン「朝の者だけど。」

「開いてる。入れ。」

ドアを開けた途端、部屋にこもった汗臭い臭いが鼻につく。入って直ぐに小さな台所と廊下…。3歩も歩けば嫌でもメインルームに辿り着く。

メインルームは一目で見まわせるほどしかない部屋の広さだった。『僕の前に住んでいた学年アパートの部屋と変わらない…。』

「座れば。」と言われても…、躊躇せざるを得ない狭さ…。

どうにか場所を探し当て無理矢理に座る。鶴美ちゃんは小さな台所に立っていた。

見知らぬ男二人が面と向かって座っても話すことなどない…。この男も今朝から比べれば落ち着いている。刃傷事は避けられそうだ…。

男はおもむろに煙草に火を付け一息吸う…、と「鶴美は俺の婚約者だ。」と言い放った。

「鶴美ちゃんから経緯は聞いた。」

「なら、分かっただろ。」と言って煙草をまた一息吸った。

「分からない。」

「なんだと!」

「今の時代に借金で人心を縛るなんて…。」

「ふざけるな!」

「あんたも心無い相手と結婚したってしょうがないだろう。」

「お前に鶴美の心が分かるのか!」

「分かるわけない。」

「そうだろ!」

「だから今ここで鶴美ちゃんに決めてもらえばいいじゃないか。」

「…。」

「どっちと一緒にいたいのか?」

「…。」

「どうする?」

「分かった。それでいい。ただ…。」

「ただ?何だろう?」

「鶴美の選択と借金の件は全く別の話だからな。」

「…。」

「鶴美が俺を選ばなかったとしても、借金がチャラになるわけじゃねーぞ。」

「その通りだ。」

「じゃあ、鶴美。好きに選べ。」

鶴美ちゃんは間髪入れることなく意志を示した。僕を指差した。

「もうこれで鶴美ちゃんには付きまとわなでくれ。」

「ああ。」

「それじゃあ、邪魔した…。」

「ちょっと待て。」

「?」

「さっき言っただろうが…。借金は誰が払うんだ?鶴美が払うのか?鶴美の親か?」

鶴美ちゃんからは言葉が出ない。

沈黙という重苦しい時間が流れる。汗臭い淀んだ空気が顔にまとわりつく。僕のこめかみを汗が滴る。

僕は耐えられず思わず口火を切ってしまった。「残りは…、いくらなんだ…?」

男は指を一本出した。『100万円かぁ…。100万円なら、なんとか…。』

「あと、1000万円だ。」と言うとカラーボックスから証文を取り出した。

僕の目から色彩が消えた…。


「やっぱりあんたと結婚するしか…。」鶴美ちゃんが全てを吐き出す前に僕は言ってしまった。「僕が払う。」


「男気あるねぇ~。」男は茶化すように言った。

「…。」

「本気なの?」男は確認する。

「ああ。」

「返せる宛でもあんの?」男は再度確認する。

「無い。働いて必ず返す。」

「そんなこと信用できないぜ。」男の言うことは当たり前だ。

「信用してもらうしかない…。」

「そんな馬鹿な話はないだろう。」僕だってそう思う。

「その通りだ…。」僕も賛同するしかなかった。

「じゃあ~、俺が金借りれるとこ教えてやるから、ついてこい。」と、男は言うと立ち上がった。僕もそれに従うしかない…。

男は鶴美ちゃんの前を通る時、「良かったなぁ~。今日で俺からも借金からも解放されたなぁ~。」と嫌味を垂れた。

そのあと通った僕は鶴美ちゃんに帰るように言づけた。




「では、こことここにご署名を。こことこことここに拇印をお願い致します。」一見紳士そうな男が優しい口調で僕に指示をする。

「これでご融資はさせて頂きます。ご返済は利息込みで月々10万円。毎月10日までに弊社の口座へお振込み下さい。遅延、延滞は無きようお願い申し上げます。」

「分かりました。」

目の前のテーブルに1000万円分の1万円札が積み上げられた。帯の付いた100万円の束が10個。全く実感が湧かない。僕は何をしているんだ?

僕の隣りに座った見知らぬ男は嬉しそうにその札束を集金袋に詰めている。

僕は控えの紙切れを取るとその場からよろよろと立ち上がり、ふらふらとその建物を出た。




1ヶ月の返済金額が13万円。家賃、生活費、学費のための預金…。全てを足すと最低でも毎月25万円のお金はいる。今のバイトの給料は15万円ほど…。毎月10万円足りないことになる。何かもう一つバイトをやらないと生活が破綻してしまう…。


「達哉、夜のバイトする気ある?」中庭で煙草を吸っている僕にまたまた急に鶴美ちゃんが言い出した。本当に僕の心を見透かしているようだ。

「バイト、も一個探そうと思ってたんだ…。」

「ブティックの近くにある私の知ってるお店が従業員募集中なの。」

「場所は悪くないね。掛け持ちしやすいね。」

「やってみる?だったら電話するけど。」

「うん。お願いするよ。」


鶴美ちゃんの紹介ということで面接もなく採用が決まった。

鶴美ちゃんに書いてもらった地図を頼りにバイト先を探す。鶴美ちゃんと来たディスコを過ぎ人気ひとけの少ない通りの袋小路のどん突きにその建物はあった。

その建物のある場所には街灯もなく、暗く、不気味な雰囲気を漂わせていた。

建物の地下階に僕のお目当てのお店はあるようだ。コンクリートむき出しの階段を下りる。一段一段下りるごとに気温が低くなるような感覚を受ける…。階段の突き当たりには色を失くした古ぼけた木の扉。それを静かに開ける。瞬間、大量の煙が我先にと言わんばかり表に飛び出していく。

中を覗いても先が見えない煙の充満した空間。様々な臭いの入り混じった空気。薄暗い中にゆっくりとうごめく人間。まるで、地中に潜り込んだようだ。

ただ、なぜか僕にはこの店の既視感があった。


「いらっしゃい。」煙の中から気だるい女性の声がかかる。

「はじめまして。今日からバイトさせてもらう内田と申します。」僕は見えない相手に挨拶をする。

「あ、ああ。鶴美の紹介の…。」

「はい。」

「中に入って。」

「はい。」


僕が掛け持ちでバイトすることになったのは【アンダーグラウンド】と言うストレートな店名がついたパブだった。

ここでの仕事は洗い場と余裕があったら給仕をすることだった。

夜の8時半から深夜0時までの短時間のバイトだが、時給は良かった。これで毎月の足りない分は補えそうだ。




バイト掛け持ちで自転車操業ではあるが、どうにか今までの生活は維持できた。鶴美ちゃんとの関係も変わることなく続いている。ただ、婚約者の件以来、鶴美ちゃんは全然、お願いもおねだりも言わなくなった。

確かに今の僕では鶴美ちゃんの願いを叶えられるだけの余裕はない。でも、できるだけ早く、彼女が僕を僕の知らない世界へ連れていける環境に戻したい。

そのためにはきっちりと4年で大学を卒業し、【来夢来人】の正社員となり、店舗を拡大し、事業を成功させる夢を僕は描く…。


ただ、夢は儚かった…。


8月上旬、【アンダーグラウンド】は保健所の立ち入り検査により、再三注意勧告してきた衛生面での改善が見受けられないという事由から営業停止を言い渡される。

それに伴い経営者たちは雲隠れし、7月分の給料の未払金が発生することになった。これによって僕の計算に大きな狂いが生じる。

8月10日支払いの10万円は全てお金をつぎ込めばどうにか支払える。ただ、次の【来夢来人】給料日までの生活費が全くない。【来夢来人】の給料日までどうにかやり過ごせたとしても、9月10日の10万円は全くめどが立たない。

直ぐに次の掛け持ちのバイトが見つかれば良いのだが、それも簡単にはいかないだろう…。

そうこう考えている間に8月10日を迎えてしまう。

僕はありったけのお金でどうにかこの日をやり過ごした。

しかし、明日からの生活費ない。【来夢来人】の給料日まで2週間…、どうやり過ごすか…。


この日、家に帰ると鶴美ちゃんが来ていた。

「達哉、ちょっと瘦せたんじゃない?」

「そう。」

「なんか、影があって格好いいかも。」

「そうかな…。」笑いが引きつる。

「浮気しちゃダメだよ。」

「大丈夫。安心して…。」そんな余裕は僕にはない…。

中庭に行き、煙草を吸おうとズボンのポケットをまさぐる。出てきたのは煙草の空箱だけだった。

中庭に置いてある灰皿から今朝吸った湿気モクを拾う。口に咥え火をつける。『うまくない。』

上を向いて吹き抜けから空を見る。雲で星も月も見えない。

『どこで僕は間違えたんだ…。』




お店に立ってても流石に3日もまともに食べてないと倒れそうになる。

接客していても腹が鳴る。空腹を紛らわすために休憩室の水道で水を飲む。周りの騒音で頭が痛い。とにかく時間が早く経って欲しい。一刻も早くここを出たい。


やっとビルの閉店の音楽が流れ出した。『帰れる。』この時点ではそれだけが生き甲斐だった。『精算して早く帰ろう…。」と、レジの金庫を開く…。…。…。…。

『なんだ。ここにあるじゃないか…。』僕はレジの金をズボンのポケットにしまった…。


帰り道にあるマクドナルドでたらふく食った。マクドナルドがこんなにも美味しいことを初めて知った。

腹が膨れたら冷静さが戻ってきた。しかし、それはお店のお金に手を付けた罪悪感ではなく、うまく誤魔化せたかという確認だった。

『今日はレジから3900円抜いた。その分は返品処理で戻し入力をした。商品の不足分は棚卸しを誤魔化せば良い。大丈夫。バレることはない。』

自分自身のために行った行為のチェックを済ませ、問題点のないことを確認した上で、僕は自動販売機で煙草を2箱買って帰路についた。


次の日からは売れた段階でレジ入力を行こなわずに、売り上げ金だけ頂くことにした。レジの戻し入力が多いと精算レシートを見れば直ぐに疑われてしまう。

しかし、売れたものをレジ入力しなければ、その事実はどこにも残らない。

あとは棚卸しを上手く誤魔化せば済む。1ヶ月10万円ぐらいならば僕なら誤魔化せる。

これで生活をつなげられる。鶴美ちゃんとの生活を続けられる。


始めの内はちゃんと自分の中でルールを決めて売り上げ金を抜いていた。

バレない程度の少額に抑えていた。しかし、バレない安心感は僕の行動を大胆にさせていく。

売り上げを抜く金額が1万円が2万円になり、2万円が3万円になる…。それに伴って僕の羽振りも良くなる。

鶴美ちゃんを連れて外食三昧。時には車で県外の温泉へ。なにも悩むものはなかった。

そんなある日、珍しく社長が僕のいる【来夢来人】ファッションビル店に来た。簡単に視察した後、「達哉君、商品少なくないか?」と、聞いてきた。

「まだ、店頭出しできてないもので、すみません。」と、返すと「頼むよ。」と、言って【来夢来人】本店に戻って行った。

僕は一瞬、冷や汗をかいた。店に出している商品が店の全在庫だったからだ。

『売り上げ、抜き過ぎたかぁ…。』

返す金もなければ商品もない。ただ、方法はあった…。


ファッション業界は変わった仕組みがある。

ファッション店舗とはあくまで商品の販売を行うだけの場所。自社で企画、生産、販売まで行う会社は稀な存在だ。

大抵のファッション店舗は企画、生産を行うファッションメーカーと言われる仲卸から商品を買い付ける。ここに、完全なる分業体制が確立されている。

人気の高い商品を作るファッションメーカーは引く手あまた。

ただ、どれだけ引く手あまたのファッションメーカーの商品であっても、近隣の競合する取引先の店舗に無節操に卸すようなことはできない。暗黙のルールが存在するのだ。

しかし、ある程度、競合する取引先の店舗の距離が離れていれば、同じメーカー商品を扱うことが許される。

【来夢来人】で扱っている商品も隣町のファッションビルや郊外の大型スーパーで取り扱われていることは知っている。

だから、そこに行って商品を調達する。けど、競合他社の店舗でお金を出して商品を定価で買っても【来夢来人】の利益にはならない。

だから、購入することはない。


あくまでも調達…。


商品を【取る】のだ…。


婦人服の店で男の僕1人がウロウロしていれば流石に簡単に怪しまれる。

だから、僕が調達に行く時は、鶴美ちゃんに同行してもらう。

何も知らない鶴美ちゃんには「競合他社の商品調査だから、あれこれ試着して感想を聞かせて欲しい。」と、言い含めてある。

幸運なことに、鶴美ちゃんは背が高くバランス良い体型をしている。おかげで、僕が調達を試みる店舗の店員たちもノリノリで鶴美ちゃんの試着に協力してくれる。

その隙に僕は調達を行う。


店舗に陳列されている商品には手を付けることはない。なぜならば、陳列商品の紛失は店舗の店員は一目瞭然で分かるからだ。

だから、僕は商品のストックを狙う。

これは大店舗に入っている小売り店舗の習性のようなもので、小売り店舗の家賃は、坪当りや、売り上げ当たりで、徴収される。

だから、坪効率や売り上げを上げたいがために、少しでも沢山の商品を置こうとする。

それ故、得てして倉庫などという売り場にならないものを限られた面積の中に作りたがらない。

そのため、商品ストックは陳列してある什器の近くに段ボールなどに入れて置かれていることが多いのだ。

また、小売り店舗は売れない商品を置いておけるスペースなどはない。ストックしている商品はおのずと売れ筋商品奥行きだけとなる。

ただ、ストック商品が無くなっていたとしても、店員はなかなか気づかない。やっと気づくのは棚卸しをした時となる。だから、棚卸しが近い時期には調達は行わない。

僕はみんなの視線が鶴美ちゃんに集中している間に、ストック商品の整理をしている振りをして商品を調達させてもらうのだ。

同じ店舗で何度も調達するのは足がつきやすくなる。できる限り様々な店舗で調達を行わないといけない。


ある日の商品調達終わり、大店舗内を鶴美ちゃんと散策していると、ウエディングドレスの販売・貸衣装の店舗があった。

鶴美ちゃんは「試着していい?」と、僕に聞いてきた。

今日やるべきことは全て終わっていたので、僕は快く了承した。

僕の「オーケー。」で、鶴美ちゃんは顔を紅潮させ喜び勇んでお店に入って行った。【来夢来人】でバイトする僕だけど、なぜかこういう店舗に入ることに躊躇いがあった。理由なく結婚とかいうものを神聖なもののように感じていたので、お店の中に入ることなく外で待っていた。

「旦那様。旦那様。」ウエディングドレス店舗の店員に声をかけられた。

旦那様ではない僕は更に戸惑った。

「是非是非、ご覧ください。お美しいですよ。」店員は芝居がかった言い方をする。僕は遠慮がちに俯き加減でお店に入らせてもらった。

「達哉、どう?」鶴美ちゃんの声で顔を上げた僕…。言葉が出なかった。

『美し過ぎる…。』そこにいたのはいつもの鶴美ちゃんだけど、いつもの鶴美ちゃんではなかった。特別な鶴美ちゃんでだった。

さっきの店員の芝居がかった言い方は満更噓ではなかった。

「どうなのよ?」鶴美ちゃんが膨れっ面になる。

余りにも美しく可愛いらしい光景に僕は涙目になりながら「うん。うん。」としか返せなかった。

この時僕は「絶対にこの生活を守ってやる。」と、決意した。




綱渡りのような生活だったけど、一月ひとつきふたつき三月みつき目の返済もどうにか乗り越えられた。僕にとっては、長いようで短いようで、苦しいようで楽しいような、今までに経験したことのない刺激的で波瀾万丈な時間だった。

それもこれも全ては鶴美ちゃんがいたからできたこと…。今までの僕の人生で、こんなに集中して、こんなに執着して、こんなに行動したことはなかった。

あと、2週間もすれば、1年前に鶴美ちゃんに初めて会った12月を迎える。もう1年かぁ…。という気持ちと、まだ1年かぁ…。という気持ちが入り混じる。

そんなこと思いながらバイトへの道を急ぐ。


「おはようございます。」

「あっ!内田さん。ちょっと待って!」

「えっ…。」ファッションビルの従業員出入り口で警備員に呼び止められた。『照明の消し忘れでもあったかぁ…。』

警備員は無線で話し出す。「ザァーザァー、【来夢来人】の内田さんが来られました…。プチッ。」「ザァーザァー、そこで…てて…らって…。プチッ。」「ザァーザァー、了解。プチッ。」

僕は無線でのやり取りがだいたい把握できたのでおとなしくそこで待った。その間にも競合他社の店員がどんどん出勤してくる。ジッと立っている僕を怪訝そうな目で見ていく。

「内田さん…。」と、ファッションビルのフロアー担当マネージャーが息を荒げながら声をかけてきた。これで晒し者のようないたたまれない時間は終われると思った。

「おはようございます。」

「お宅のお店…、潰れたって。」

「はぁ?」

フロアー担当マネージャーに連れられて店の前までやって来た。一見、昨日と何も変わらない。いや、店は昨日のままだ。

違うのは、店の前に立てられた数本の銀色のポールと、それにかけられたロープ。

そのロープには紙が貼られている。【告示書】と、書かれた紙…。


僕は慌てて【来夢来人】本店へ走った。

【来夢来人】本店はとっくに開店時間だというのにシャッターが下りたままだった。シャッターの前に数人の人影。近づいて見ると【来夢来人】本店の店員たちだった。僕を見つけたスタッフがにじり寄る。

「内田さん。これどう言うこと?」

「僕もさっき知ったんです…。」

「昨日まで普通だったじゃない…。」

「社長たちはどうしてるの?」

「僕にも分からない…。」

「お給料はどうなるの?」

「給料…。」しまった…。やられた…。

【来夢来人】本店のシャッターにも【来夢来人】ファッションビル店と同様の紙が貼られていた…。




【来夢来人】の倒産で僕の設計はことごとく崩れ去った。

11月下旬から始まる支払のめどが全くもって立たない。

資金調達する術もない。

今、僕ができることはこの家で籠城することだけだった。鶴美ちゃんには【来夢来人】の倒産が分かった日にできるだけ説明して、ここに近づかないようにと、言ってある。残った金で買えるだけのカップラーメンを買った。煙草も買った。

気楽に出歩けない。大学にも行けない。とにかく時間を稼いで次の手を考える。



一番最初に家賃の支払い期日が過ぎた…。数日経っても何も言ってはこなかった。

次は車の振込み期日が過ぎた…。何日経ってもやはり静かだった。

『なんか肩透かしだな…。たいしたことないな…。』

最後に、鶴美ちゃん家の借金の肩代わりをした返済期日が過ぎた…。

3日後、家のチャイムが激しくかき鳴らされた。僕は甘かった。

この日から連日、家に誰かがやって来た。

「内田ぁ~。いるんだろぉ~。出て来いよぉ~。」と、大声でがなる。

「金返せ!」「金返せ!」「金返せ!」と、大声で喚き立てている。

「内田達哉さん、借りた金返して下さいよぉー。」と、周囲の家にこれ見よがしに大声を上げる。

家の電話がひっきりなしに鳴る。

玄関ドアを叩く、蹴る。家のあちこちを叩く、蹴る。

ガレージの車に何かをぶつけている。

ペンキのスプレー缶でどこかに何かを書いている。…等々が、昼夜問わず、四六時中、際限なく繰り返される。


1週間、2週間と繰り返される強引な取り立てに、僕の心は擦り減っていく…。

3週間が終わる頃にはカップラーメンも煙草も底をついていた。僕の頭の中は逃げることしかなかった。


奴らがいない時を見計らってここを出る。

違う土地でやり直す。

そのためにはここから逃げる…。

どこで僕は間違えたんだ…。

奴らがいない時を見計らってここを出る。

違う土地でやり直す。

そのためにはここから逃げる…。

どこで僕は間違えたんだ…。

奴らがいない時を見計らってここを出る。

違う土地でやり直す。

そのためにはここから逃げる…。

どこで僕は間違えたんだ…。

奴らがいない時を見計らってここを出る。

違う土地でやり直す。

そのためにはここから逃げる…。

どこで僕は間違えたんだ…。

奴らがいない時を見計らってここを出る。

違う土地でやり直す。

そのためにはここから逃げる…。

どこで僕は間違えたんだ…。


同じ言葉が頭の中を巡る…。




カップラーメンと煙草が切れてから何日経ったのか…。

外がうるさくない。

僕はこの好機を逃すまいと車のキーを持ち外へ出た。辺りを見回す。人気ひとけはない。

外は暗かったがそんなに遅い時間ではないようだ。

静かにガレージに入り鶴美ちゃんのお気に入りの車の前に立つ。

無残としか言いようにない状態だった。

幌は割かれ、ボディーは落書きと傷跡だらけだった。

ドアの鍵を開け、ゆっくりと運転席に身を置く。

その瞬間に鶴美ちゃんとの楽しかった思い出が走馬灯のように脳裏に映し出された。

僕は知らず知らずのうちに泣いていた。

イグニッションを回す。車体を微かに震わせて静かな爆発音が一定のリズムを刻み始めた。『動くぞ。流石はドイツ車。』シフトをそっとDに入れパーキングブレーキを戻す。フットブレーキから右足を外すと車はゆるゆると前に出た。

『これで逃げれる…。』



宛などなかった。どこに行けばいいのかも分からなかった。車の燃料は十分にある。結構遠くまで行けそうだ。しかし、このボロボロの状態では目についてしまう。

『どこを目指せばいい?』

こんな時、僕の考えを見透かしたように、いつも鶴美ちゃんが扉を開いてくれた…。

鶴美ちゃんに会えないだろうか…。と、考えた矢先、車のヘッドライトに白い自転車が現れた。僕は急ブレーキを踏む。

「達哉、どこいくの?!」怒った声だった…。鶴美ちゃんの…。

僕は奇跡のような再会に思わず涙した。。

「なに泣いてるのよ。それよりどこ行くつもりだったの?」

「分からない…。逃げたかった…。鶴美ちゃんに会いたかった…。」

「ここじゃ目立つわ。私を乗せて車を走らせて。」

「うん。」

車に乗り込んできた鶴美ちゃん。僕は懐かしい思いと共に車を走らせた。

「この車、ひどくボロボロになっちゃったね。」

「ごめん。」

「達哉、せいじゃないよ。」

「うん。」

「心配だったから見に来たんだけど、会えて良かった。」

「うん。」

「で、どうする?」

「分からない…。どうすればいいのか…。」

「お金、ないもんね。」

「うん。」

ここで沈黙が続く。先立つものがないことが2人の思考を止める。


「そうだ。思い出した。【アンダーグラウンド】再開したんだよ。」

「【アンダーグラウンド】…。ああ…。あそこか…。」そんなところもあったな。

「達哉、最後の掛け持ちのバイトの給料、もらってないでしょ。」

「…。ああ。うん。」そんなこともあったな。

「オーナー変わってないから、未払金の給料、もらいに行きましょうよ。」

「うん。」僕は鶴美ちゃんの言うままに車を走らせた。


【アンダーグラウンド】や【来夢来人】のあった街中に車は入った。今が何時なのか分からないが、行きかう人々はまだ多い。車の運転中、どこを走らせていても人の視線が気になった。監視されているようだ。

僕は【アンダーグラウンド】に行く前に少し休ませて欲しいと鶴美ちゃんに伝えた。

鶴美ちゃんは「じゃあ、【来夢来人】本店があったとこがいいわ。あそこなら車停めててもうるさく言われない。」と、休める場所を教えてくれた。本当にいつも助けてくれる。

【来夢来人】本店のあった建物の前に車を停めた。あるじのいなくなった館は熱も色も失っていた。

【来夢来人】本店はあの日と同様、シャッターが閉ざされたままだった。ただ、貼り紙は無くなっていた。雨風で剝がされたのだろう…。

僕は少しだけ眠りたいと鶴美ちゃんに懇願した。鶴美ちゃんは「【アンダーグラウンド】もまだオープンしてないから気兼ねなく休んで。私はこの辺プラプラしてるから。」と、優しく返してくれた。僕は言葉に甘えることにした。




コンコン。コンコン。

『…な、なんだ?』

コンコン。コンコン。

『もう少し寝かせて…。』僕は薄目を開けて音のする方向見た。助手席側の車の外に人が立っている。こいつが車のボディーを叩いているようだ…。

僕はもう少し目の焦点を合わせてみる。特徴的な制服でその人物が即座に分かった。

『警官だ…。』

僕は寝ている振りを続けながら頭をフル回転させる。『逃げよう。とにかく逃げよう。』

後に、冷静になって考えれば、僕は警官から逃げる必要などなかったのだ。僕が逃げているのは借金取りからなのだから。ただ、この時の僕には警官も借金取りも区別して考えることができなかった。この時、冷静であれば…。


僕は寝返りをうつ振りをしてイグニッションを回した。シフトレバー【D】に入れ、アクセルペダルをおもいっきり踏んだ。

ゴルフは僕をシートに押し付けるほどの加速をする。ルームミラーで後方を見た。警官は呆気にとられたように立ち竦んでいた。

危機を振り切った僕はゴルフと共に姿を消そうと十字路を左折しようとハンドルを切る。


ドーン!!!ビィィィィィィィィィィィ…。ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…。

僕はハンドル操作を誤り、ゴルフは曲がり切れずに電柱に激突した。その際にしこたま頭を打った。意識が遠のく…。

運転席のドアが急に開く。体が引っ張られる。

「達哉、大丈夫?早くここから出て。」鶴美ちゃんの声がする。僕は強い力で運転席から引っ張り出され、担がれてどこかに向かっていた。



気がつくと鶴美ちゃんに担がれてコンクリートの階段を下りていた…。

鶴美ちゃんは僕を担いだまま古ぼけた木の扉をゆっくりと開けた…。

そこは煙の充満した歪んだ空間…。様々な臭いの入り混じった淀んだ空気…。薄暗い中にゆっくりとうごめく人間ども…。まるで、地獄に潜り込んだようだった…。

鶴美ちゃんは僕を柔らかいソファーのようなものに寝かした。

「達哉。これ飲んで。楽になるわよ。達哉。壊れちゃダメだよ…。」

遠くの方で小さい声がする…。その声はだんだん大きくなって頭の中で鐘のように響き渡る…。僕は昏倒しそうになる…。

声が言うがままに出された何かを口にする…。味も匂いも温度も分からない…。

瞬間、僕は気を失った…。




「内田達哉さん…。」

「内田達哉さん…。」

耳元で名前を呼ばれ目が覚めた…。明るい…。目の前に見覚えのある天井がある。「内田達哉さん…。聞こえてますか?」

耳元でうるさく質問してくる方向に顔を向ける。そこにいたのは制服姿の警官だった。

「内田達哉さん…。聞こえてますか?」

「ええ…。」

「あなた、内田達哉さんで間違いないですか?」

「…はい。」

布団の中で体をまさぐる。何も身に付けていない…。

強制的に昨晩の事を思い浮かべてみる…。頭部が痛い…。事故を起こしたのは事実のようだ…。しかし、いったい僕はどうやってこの家に帰ってきたんだ…?

「内田達哉さん、川本鶴美さんという女性はご存知でしょうか?」

「…はい。」変なことを聞く警官だ。目を凝らしてよくよく見ると部屋の中には数人の警官がいた。僕は静かに体を起こした。

「川本鶴美さんとはどういうご関係で?」

「…付き合っています。」僕は顔をまさぐりながら何を聞きたがっているのか考えていた。

「昨日もご一緒で?」

「…ええ。」

「それでこちらの家に一緒に帰って来た?」

「分からないけど、たぶん、そうですね。」鶴美ちゃんが連れて帰ってくれたのか…。

「隣りのお部屋にいるのが川本鶴美さんでしょうか?」鶴美ちゃんがいつも使っている部屋にいるのは鶴美ちゃんだろう。当たり前のことだ。

「ええ。そうですね。」

この瞬間、警官たちが動き出す。

「昭和××年××月××日××時××分。被疑者確保。氏名、内田達哉。容疑、川本鶴美に対する暴行及び殺人…。」

この言葉とともに僕の両手に手錠がかけられた。




何度目かの取り調べの最中に、当時の鶴美ちゃんの持ち物を見せられた。

その中には金の文字が書かれたあの手帳もあった。

【私立✕✕女子高等学校生徒手帳】

取り調べ官の許可をもらい、僕は震える手で手帳を取り、震える指で手帳をめくった…。

【川本鶴美 昭和✕✕年✕✕月✕✕日 生】

やはり白黒の顔写真が貼られている…。



ただ、その顔写真は、僕の知ってる鶴美ちゃんじゃなかった…。






終わり

















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鶴美 明日出木琴堂 @lucifershanmmer

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