英雄などいなかった

宇津木志優

英雄などいなかった

 家に帰ってきて、一番に目についたのは憔悴しきった夫の姿だった。


 エリザベートは夫の帰りに何も言わず、ただ黙って買い物袋を台所に置いた。狭い家に置かれているテーブルで夫、カリスと向かい合うように座った。


 カリスの言葉を待つ。苛立っているわけでも焦らしているわけでもない。ただ、ゆっくりと、当たり前のように言葉を待つ。


「……すまない」


 ただ一言、ぽつりと言う。なんのことやら、わからなかった。だが、カリスの顔は青ざめていて、マントをかぶって身を縮ませている姿を見ると、情けない、というよりも哀れだ、と言う同情の念が浮かんでくる。

 しかし、エリザベートはそんなことをおくびにも出さず、ただ一言問うた。


「どうかしましたか?」


 カリスはびくりと体を強張らせた。目が泳いでいる。何か悪いことをしたのではないかと、さすがに心配になったが、エリザベートはともかく表情に出さなかった。

 ただ優しい笑みだけを浮かべて、カリスを落ち着かせようとした。カリスは幾分か落ち着いたのか、呼吸こそ少し早いが、やっとこちらに目を向けてくれた。

 冷え切った青い瞳がこちらを向いてくる。何もかも凍り付きそうな。

 エリザベートの赤い瞳がそれを溶かすようにまっすぐ見つめ返した。


「すべて捨ててきた」


 その一言で、ああ、とエリザベートは納得したようにうなずいた。



 カリスとエリザベートの暮らす国と、隣国はある時をきっかけに関係が悪化し、戦争状態になった。カリスは裕福な家で生まれたが、傭兵になると言って飛び出し、その戦争に参加していた。

 エリザベートと結婚したのはそのさなか。二年前になるだろうか。そんな時に行ってきたのは、こんな一言だった。


「俺は英雄になってみせる! そして、兄貴や父を見返すんだ。な、そうしたらお前との生活も楽になるし、一石二鳥だろう?」


 その一言に嘘偽りはなかった。その時はそう考えていたのだろう、エリザベートは振り返る。そして、夫はなんとか兵を集めて国の義勇兵となって戦争に参加し、手紙をよこすごとに戦績を上げたぞ、だとか、苦しい戦いだった、とか。そんなことをはつらつとした字で書いていたものだった。


 しかし、それがおかしくなったのは終戦も間近になってきた、つい最近の頃である。隣国も押し込まれ、ほとんど勝負が決まっていたときに、夫は華々しい功績をあげたのだという。だが、その報告をした文字は弱弱しかった。なんとか誤魔化そうとしているのが見え見えのような、無理な力が入った字だった。


 周りの家からも、噂が流れてきたのだろう、エリザベートを祝福するような言葉を投げかけてきたものだった。そんな彼らがこの手紙を見たらどう思っただろう。



「何を捨ててきたんですか?」


 あえて、エリザベートは問う。そしてゆっくりとカリスの手に触れた。びくりと、カリスの体が強張り、飛び上がりそうになる。今、家の周りには凱旋した者たちを見に行っているために誰もいないだろう。

 エリザベートはそんな気になれなかったので、なんとなく買い物をし、家に帰ってきた。そうしたら、この様子のカリスがいたというわけだ。


「……だから、すべてを」

「それじゃわかりませんよ」

「……名誉も、地位も。功績もだ! 俺は全部……全部捨ててきた!」


 嗚咽を吐きながら、カリスが涙をこぼし始める。これが、戦争の英雄だと言ったら誰が信じるだろうか。


「なぜ捨ててきたんです?」


 エリザベートはあえて問いかけた。表情は変えず、ただカリスの言葉を待つだけだ。

 カリスはぼそぼそと何かを話していたが、エリザベートに聞こえるような大きさではなかった。だが、何かを話そうとしている。彼女は待つことにした。

 そうしているとカリスはうなだれ、観念したように言った。


「怖くなった」

「怖くなった、ですか」

「そうだ。手紙でも贈っただろう、相手の将軍を打ち倒した功績をたたえられ、俺は千人隊長に任されることになったんだ」

「それは喜ばしい話ですね」

「……それを、俺は土壇場で部下に譲った。こいつがいなきゃ俺は何もできませんでしたってな。実際そうだ。俺を支えてくれていた部下たちのおかげで、たまたま功績を取れたもんだ。俺のものじゃない。あいつらのものだ。だから……俺なんかが受け取っていいのかなんて思ったら怖くなった。それに千人隊長なんて、俺の柄じゃない……ってな」


 カリスの言葉が徐々に饒舌になっていく。まるで誰かを、いやこの場には彼しかいないのだから、自分自身をだろう。馬鹿にしているような語り口だった。


「バカな男だよ。お前との生活を楽にさせて、兄貴や父を見返すと言ったはずなのに。土壇場になって、責任もなにもかも部下に押し付けて、逃げ出してきたんだ」

「そうでしたか」

「そうでしかって……お前、何か言うことは……!」

「貴方がそうしたいと思ったのでしょう? 私には何も言う権利はありません」


 はっきりとした口調で言った。ある意味突き放したのかもしれない。カリスは、自分に縋りつこうとしたのだろうと、彼女は感じ取っていたから。

 カリスは呆然とした表情を浮かべて立ち上がろうとした体を脱力させる。そして、うなだれるまま顔を下に向けた。


「……俺は馬鹿だ」

「なぜですか?」

「無責任な野郎だ」

「そうかもしれませんね」

「……お前はどう思うんだ?」


 カリスは少し怒気を含めた目でエリザベートに顔を向けた。いつも怒った時はこうだ。しかし、エリザベートは知っている。この男はそれ以上に度胸がなくて、寂しがり屋で、弱くて、そして優しいのだと。


「やってしまったものは仕方ありません。部下の功績になったのでしょう? ならばいいではありませんか。あなたがそうしたかったのだから」

「……俺はただ、怖くなっただけだ」

「そうでしょうね。わかっています」

「それに、あいつだって俺のことを恨んでいるかもしれない。責任を押し付けて、なにを自分だけぬけぬけと」

「あなた」


 エリザベートは初めて口をはさんだ。そして、ゆっくりと口を開く。


「人の心なんてわかりませんよ。その部下の方は、あなたが思っているように恨んでいるかもしれませんし、貴方を邪魔に思っていたのかもしれません。もしかしたら、喜んでいるのかもしれません。これで自分の思う通りにできると」

「そんなことを考える奴じゃぁ……」

「人はわからないものです。だから、考えるだけ無駄です。考えていいのは、自分のやったことに対する結果、これからどうするかということですよ」


 エリザベートの言葉に、カリスはただ茫然としていた。エリザベートはただ優しく微笑む。弱さも、強さも、逃げ癖も、全部好きになったから彼についていこうと思ったのだから。


「どうされますか?」

「……今はわからない」

「そうですね。帰ってきたばかりですもの、少し落ち着いた方がいいかもしれません」


 そう言って、エリザベートは茶を入れた。杯に入れられたそれを、カリスはゆっくりと啜り、幾分緊張がほぐれたかのようだった。そうわかると、エリザベートも少しだけ安心したように口端を緩ませると、自分の分も飲み始めた。実家から送られてくる茶はいつでも、どう煎れてもおいしい。


「……そうだなぁ。しばらく旅に出るか」

「思いつきですか?」

「……その通りだな。もっとゆっくり考えた方がいいか」

「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。ただ……」


 エリザベートはカリスの手をゆっくり握る。今度はカリスが離れることはなかった。二人の指には、交わした約束がつけられている。


「私はどこへでも一緒に行きますよ」

「……本当か?」

「ええ。じゃないと、危なかっしくて見ていられませんもの」

「……はは、そうか。じゃあ、ここを引き払って、どこかへ行こう。お前の実家でもいい。落ち着く場所に……」

「はい」


 エリザベートはただ頷いた。たぶん、その表情は朗らかだったのだろうと、彼女は夫の照れ臭そうな表情を見て予想する。


 ここに英雄などいなかった。ただの弱くて、優しい男と、それについていこうと思った女がいるだけだった。

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