氷川さんの話
千葉まりお
氷川さんの話
※作中コロナ禍での療養やコロナによる芸能人の死亡事例を扱っています。
「色々あったけど今はリハビリがうまくいって、なんとかなったらしいんですよ。本当によかったですよね」
氷川さんの名前は出さない。「母の知り合い」とか「ちょっとした知り合い」の話として話す。実際に私は氷川さんのことを母の話経由でしか知らない。もしかしたら
現実的な細々した不幸描写の後に、唐突に訪れるざっくりとしたダイジェストハッピーエンド。私の話を緊張した面持ちで聞いていた人々は安堵の息を吐き、笑みを浮かべる。彼らの顔を見ると、私の気分は
何人かは大袈裟に天を仰ぎみたり、目頭を指で抑えるふりをしながら「よかった。あのまんまじゃ可哀想すぎるもんね」と感想を述べたりする。
またその内の何人かは、友達から、会社の同僚から、知り合いから聞いた話として、氷川さんの話を私の知らない誰かに話すのだろう。「めっちゃ嫌な話聞いたんだけどさ。でも大丈夫、ハッピーエンドだから」と断りを入れて。
「よかった」と、私の話を聞いていた女性が微笑んだ。人の話にかなり感情移入するタイプらしく、私がもたらしたハッピーエンドに目を潤ませている。きっと彼女も自分の家族や友達に氷川さんの話をするのだろう。
誰かが誰かに語り継いだり、継がれたりするたびに氷川さんの物語は補強され、改変され、洗練され、ハッピーエンドのさらなる高みへと登ってゆく。
「なんとかなった」の高みで、氷川さんは光り輝く。なんともならなかった大勢の人々を照らす、そういう輝きになるのだ。何も問題はない。私は世界をほんの少し明るくする。
雨は降り続け、バスはまだ来ない。しばらくはここに足止めされそうだ。
スマホは充電切れ。最寄りのカフェまで走る間にずぶ濡れになるだろう。やることがない。さっきまで話し相手になってくれていた女性も自分のスマートフォンに意識を戻している。本の一冊でも持ってくればよかった。
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母は
戦後ん十年経った今では流石に「ようこそ、ソドムへ!」という町ではなくなったけれど、夜のお店の密集地であることに変わりはない。コンビニよりラブホが多い町としてネットで有名だ。Googleマップには元附田池赤線という表示も残っているし、どっかのラブホにはゾゾゾが来たとか来ないとかって話も聞く。
特に本町はキャバクラと、ホストクラブと、外人パブと、ニューハーフバーと、メイド喫茶と、アダルトビデオを個室鑑賞できるチーェン店と、ラブホテルと、センベロ店がとうもろこしの粒みたいにぎゅぎゅっとしている。早朝はそこらじゅうにゲロがあるし、時々上半身裸のおっさんがご機嫌に転がっており、地元の小学生にはゲロエロ街道という身も蓋も無い名前で呼ばれている。
そんなだから舟杭の人間に母が附田池本町で喫茶店を経営していると言うと、「ははぁ。夜の」と勝手に変換されてしまい、言葉通りに受け取ってもらえない。
だから氷川さんの話をする時、母の店は「松戸の元伊勢丹側にある」ということになっている。周りは民家と小さな飲食店とマッサージ店がポツポツある。ゲロエロ街道とは絶対呼ばれない。
思春期の頃は随分と嫌な思いをさせられたものだ。
「リコちゃんのお家ってお店やってるの? え、喫茶店! おしゃれー! 今度行っていい? どこらへん? ……あ。本町の……。ううん、変なこと聞いちゃってごめんね。ごめん。……大変なんだね、無神経だったね。私は全然気にしないから! 私たち、友達だもんね!」みたいなやり取りを10回はやった気がするし、なんか知らん人に「君も働いてるの? 幾ら?」って下校中に声をかけられたこともある。速攻写真撮って、速攻逃げて、速攻通報して、速攻逮捕させた。クラスメイトの男子の親父だった。男子、めっちゃ泣いてた。知らんよ。
だが、母が経営しているのは本当に喫茶店なのだ。
純喫茶アマデウス。
遮光フィルムがガッツリ貼られているせいで店内が全く見えない大きな窓と、威圧感のある木製のドア。ドアにはダイソーで買ったホワイトボードが雑に貼り付けられていて、「軽食あります! モーニング・ランチは500円から!」とでっかく書いてある。日焼けして退色したテント看板はダリっぽくダレ落ち、野良猫除けのペットボトルが、雨風に汚されてところどころ黒い筋が走っている白いペンキ塗りの壁をぐるっと囲む。窓の下にはレンガで仕切られたちっちゃい花壇があって、ホームセンターで安売りされていたパンジーたちが、ふてくされながらポツポツ咲いている。そういう感じの垢抜けない店だ。
レトロな店が好きなインスタ民にはワンチャン刺さるかもしれないが、いかんせん周りの景観が悪すぎて、フジカラー片手に訪れるにはハードルがあまりにも高い。その手のが好きなら普通にさぼうる2とか邪宗門に行った方がいい。
メニューは全て手書きで、壁に画鋲で貼り付けてある。喫茶店というよりは定食屋だ。実際に珈琲や紅茶よりも客のリクエストで出すようになったナポリタン風すき焼きうどんの方が人気。プラス100円でお味噌汁とおしんこがつく。ますます定食屋だ。松重豊が似合う。
母が喫茶店を始めたのは私が中学生の頃なので、もうかれこれ20年になる。入れ替わりの多い附田池本町のお店の中では古株と言っていい。
風景に馴染みすぎて、長くやってるわりにグーグルレビューは2つだけ。
ローカルレビュアーねこすけさん曰く。
「この通りで唯一の普通の喫茶店。モーニングは4時からやってるから便利だけど、夜のお店の人たちが突っ伏して寝てるからちょっと入りにくいかも。ランチタイムから夕方までは地元のお爺ちゃんお婆ちゃんで賑わってます。ナポリタンを頼むとうどんがでてきます。安くて美味しいです」の星3つ。
「夜は4時に閉まるので注意。頼めば電源貸してくれる。家庭料理しか出てこないので人の家でご飯食べてる気分になる。味噌汁はインスタント」の星3つ。
悪くはないけど、特別よくもない。普通。
個人事業の飲食店において「普通」とは、合格ということだ。母は「もー赤字ギリギリよ。儲けなんかない、ない。ゼロよ、ゼロ」とよく口にするが、常連客がそれなりにいるので経営は一応安定しているのだと思う。なんだかんだで毎回毎回赤字にはギリギリなっていないようだし。不健全な町にある唯一の健全な店というのは、隙間産業的に需要があるものなのだろう。
まぁ、ここら辺もお話しからはカットしている。お話しの中の母のカフェはもっと小綺麗で固めのプリンとスペシャリティコーヒーを出すし、イチオシメニューは地元のちょっといいパン屋のパンを使ったやわらかバインミーだ。そういうことになってる。
氷川さんというのはその喫茶店の常連さんで、母の話ぶりから察するにおそらくは80代のお婆ちゃんだ。
65歳の母は70代の人を「ちょっと上の人」と言い、80代の人のことを話す時は「あの歳にしてはお若い人」と言うのだ。
「あの歳にしてはお若い人でね、1人でなんでもできちゃう人だったのよ。旦那さんを早くに亡くされて、息子さんを育てるためにバーで働いて、自分のお店まで持てた人なのよ。まぁ、もうお店はたたんでるけどね。ちょうどお母さんのお店ができたのと入れ替わりのタイミング。今はほら、メイド喫茶になってるとこよ。バーのママさんの稼ぎで息子さんを大学まで行かせたんだから、これはすごいことなのよ」と母は言っていた。
私は氷川さんと面識はなく、写真を見たこともないので、彼女が実際にどういった雰囲気の人なのかはわからないのだが、私の頭の中で氷川さんは白いフリルのついた小花柄のワンピースを着た可愛らしいお婆ちゃんの姿をしている。赤ずきんチャチャの校長先生実写版。
というのも、うちには母が氷川さんからいただいてきた手作りの布製カーテンタッセルや、トイレットペーパーホルダーや、ドアノブカバーが幾つかあり、その全てが白いフリルのついた小花柄だったからだ。
だから人に氷川さんの話をする時は「小柄で品が良くて、下妻物語の深田恭子みたいな乙女なおばあちゃん」ということにしている。
母が氷川さんのことを話す時、全ては過去形になる。
「元気な人だった」「なんでもできちゃう人だった」「息子さんと仲良しだった」「昔はよく来てくれた」。
今はそうではないということだ。非常に、非常に残念だが。
もちろん私はそこらへんはカットする。ハッピーエンドにはいらない部分だ。
氷川さんの息子さんは大学卒業後に幕張の輸入品卸しの会社に入り、主にマレーシアとシンガポール関係の仕事の次長をやっている。コストコとか業務スーパーとかカルディなんかで売ってる輸入品シリアルやパンケーキの素とか、そういうのを扱ってるらしい。
世の中には何の得にもならないのに、人の情報を「ウォーリーをさがせ」感覚で調べる人間がいる。母もそういう人間の1人だ。
母は氷川さんから息子さんの仕事を聞いたその日の晩には、カウチでごろごろしながらスマホを弄り、「幕張」「輸入品」「卸し」「企業一覧」などのワードから「株式会社 ビッグズ」という社名をググり出していた。炙り出しみたいな感じで、母はよくこうして人の情報をネットからググり出す。
私が絶賛反抗期だった頃。育児ストレスでぶっ壊れた母は、育児情報と生活の愚痴吐き場所を求めてネットに駆け出し、にちゃんねるに堕ちた。つまり母がインターネットフォースの暗黒面にどっぷり浸かって、人間特定技術を得て、ネットウォッチ板のコテハン持ち特定班になったのには、私にも責任があるということだ。
母が『【怒らせるな】思春期の娘が厨二病になったんだがwww【どうなっても知らんぞ】』スレッドを立て、そこで私を『娘(ベジータ)』と呼んでいたのを知った時は流石にきつかったが、反抗期の私も中々酷かったので陰でベジータ呼ばわりしていたことは水に流した。
今は心の半分を常にネットに常駐させている母に対して「開示請求とかされなきゃいいな」と思うばかりだ。変にネットリテラシーが高い分、変な陰謀論にハマらないでいてくれているのだけはありがたい。一時期涼宮ハルヒとからきすたのキャラから「世界の歴史の真実」を学んでいた時はどうしようかと思ったが。
最近はにちゃんねるから離れ、トゥゲッターに入り浸っているがやってることは基本同じなので、この人は多分、死ぬまで「あるある過ぎて草」「完全に死亡」とかやってるんだと思う。65にもなってやってるんだから、85になってもやってるに決まってる。【お前ら】終活始めるんだがぶっちゃけ何すればいいの?【おしえれ】。あるいは【ゆっくり解説】遺書の書き方・生前葬の始め方。
「二ツ橋商事の輸入事業の完全子会社だって。大手の子会社じゃ安泰なのかしらねー」と言いながら柿の種を貪る母に、「そーゆーのわざわざ調べないの」と小言を言った記憶がある。
私は母に友人や恋人の職場やその他特定につながる情報は言わないようにしている。どうせいい気分にはなれない。
母は私の小言を聞き流してググり出しを続け、数分後には「入社式」「ビッグズ」「歓迎会」「打ち上げ」「マレーシア」「上司」などのワードと、異常に高い検索スキルによってビッグズに入社した新入社員たちのインスタアカウントや、フェイスブックアカウントや、ツイッターアカウントを特定し、アップされていた新卒歓迎会の集合写真から「はい見つけたー。次長さーん」と息子さんらしき男性を特定していた。
私は母のこういうところが本当に無理だ。母にiBookを貸すとブラウザ履歴は「amazon セール 何を買うべき」「youtube ケビンズイングリッシュ」「ラーメンハゲ 鮎 ラーメン 再現レシピ」などの当たり障りのない言葉で埋まるが、予測変換で「ふ」を押すと「藤井翔太」、「か」を押すと「彼女」、「そ」を押すと「東山 ソーセージ」、「う」を押すと「噂」、「こ」を押すと「小室圭 年収」、が出てくるようになるので、実際何を調べているか丸わかりだ。場合によってはもっとエグいのも出てくるが、嫌いになりたくはないのでできるだけみないようにしている。
写真の中の氷川さんの息子さんは、家電で言うと冷蔵庫って感じの中年男性だった。四角くてでかくて、肩のエッジが丸い。一筆書きした恵比寿様のような顔をしていて、要職についている男の中では無害そうな感じだった。まぁ、本当に無害なやつが会社で次長になれるかというとそんなわけないのだけれど。
母はしばらく氷川さんの息子さんの情報をネットで漁っていたが、やがて飽きたのか、まとめサイトで小室圭さんと羽生結弦選手の恋愛と離婚と金銭に関する記事を交互に読み始めた。こういうところがじんわりと無理。
それからしばらくの間、母が氷川さんの話をするのは「お客さんからもらっちゃったー」と小花柄の何かしらを持ち帰ってきた時だけになった。そう頻度が高いわけではない。せいぜい数ヶ月に1度か2度だ。
この頃の私は氷川さんの名前もイマイチ覚えていなくて「いつもの小花柄の人。なんか息子が次長の」程度のぼんやりとした認識でいた。というか、多分ほぼほぼ忘れていた。母の店の常連さんの情報に、私はさほど興味を持てなかったから。知らんて、そんな人。ってなる。
ある日。
喫茶店から帰宅した母はいつになく楽しそうだった。
「今日、氷川さんの息子さんがお店にきたのよー」と母が言った時、私は「誰だっけ?」と聞き返した。
「氷川さん。お店のお客さん。この間可愛い布マスクくれた人」と母が言ったところで「ああ、息子さんが次長の人」とやっと思い出すことができた。
「ちょっと前に氷川さんが連れてきてね、感じのいい人。まぁ、ほら、こういうご時世でしょ? あんま親に出歩いて欲しくないみたいな? 普段どういうとこ行ってんだ的な? そういう探りを入れにきたんだろなーって感じはしたけどね。まぁ、うちは検温してるし? 換気もしてるし? 消毒液もテーブルに置いてるからね」と母は自慢げに言った後で「来月から当分休業だけどね。ほんと、わけわかんないよ。飲食店ばっか槍玉にあげてさ。満員電車はどうなんだって話よ。それでリコちゃんさ、PDFとか作れる? 補助金の申請書さぁ、PDFでまとめてくれって役所が言うんだけどよくわかんないのよ。税金は勝手にもってくくせに、補助金の申請はわけわかんなくしてんのよ。自動でやれってのよ。まぁ、ヨッちゃんとこもサチエさんとこもケイくんのとこも、水商売は補助金なしですーとか言われてるから、うちは出るだけマシではあるけど! つか市役所の連中、しょっちゅうサチエさんとこきてるくせに補助金出さないとか何事よって話よ!」と急に苛立ち始めた。ご機嫌からの急降下。母あるあるだ。
私は元々この状況下で店をやり続けることに反対だったので、母には悪いと思うが休業してくれることに安堵していた。
普通の感覚の人間はこういう状況になったらまず家を出ようとしないものだ。となると店に来るのはまぁまぁヤバい奴ということになる。コロナ舐めプ勢率が上がる。舐めプは舐めプで固まるし、集まるし、群れる。ノーマスクがノーワクチンを呼び、コントロール不能のノーマスクワンダーランドがコンプリートしてしまう。母が「コロナは風邪! 全て製薬会社とアメリカの陰謀!」とか「ヒラリーはピザゲートで赤ん坊を食べている」とか「ワクチンを射つとトカゲ人間になる!」とか言い出して、今度こそ「ネットでわかる世界の真実」に気がついてしまう可能性がある。
私は母が「やっぱ休業やめる! めんどくさい! みんなが休んでる中でうちだけやってたら客総取りだしね! 『自粛』でしょ! したくないからお断りー!」とか言い出す前に、話を氷川さんの息子さんに戻した。
「で、息子さんが来てどうしたの? なんか言われた?」
母はまたしてもご機嫌になり、顔の前で両手の指先を合わせて乙女チックな三角形を作った。
母が言うには、氷川さんの息子さんはまもなくやって来る氷川さんの誕生日に、何か特別な贈り物をしたいのだそうだ。
「ずっと働いてばかりの人で、幼少期は一緒に過ごせた記憶があまりありません。もちろん、それは全て僕のためでしたから、仕方がないことだと分かってはいます。ただ、困ったことにあまり母の好みを知らないんです。なんでも僕にあわせてくれる人ですから。多分何をプレゼントしても喜んではくれるんですが、たまにはドンピシャなものを贈りたくて。それにコロナが明けて移動が自由になったら、しばらくマレーシアに出張に行かなきゃいけないんです。きっと寂しがるだろうから、何かちょっといいものを贈りたくて。母の友人や知り合いの方々から情報を集めているんです。何かないですかね? 母が欲しがってるものとか、心当たりはないですか?」
とかなんとか、息子さんは言っていたらしい。
母と、たまたまその日お店に来ていた他のお客さんはあーでもない、こーでもないとアイディアを出し合い、ワイワイとした楽しい時間を過ごしたのだそうだ。人間には、フェアリーゴッドマザーになって他の人間の悩みを解決したいという、お人好しな仕組みが標準装備されているのだろう。
で。平均年齢48歳の純喫茶アマデウスの男女が2時間かけて選んだプレゼントが、 「いきいき生活・寝たままモミモミくん」だったわけだ。
「1日5分! 1日5分でいいんです!」な例のやつ。
アマデウスの常連客ぐっちゃんによる「最近腰がいてぇって愚痴ってたよ」と言う情報と、準常連客ロザリンによる「昼の通販番組を真剣にみてる」という情報により、多数決で決まったのだ。ロクシタンとか資生堂のちょっとお高めの基礎化粧品を推す声もあったが「化粧品は肌にあう、あわないがあるから」というもっともな反対意見により沈静化。ジャズ羊羹とか、霜ばしらとか、ちょっといいお菓子を推す声はいいとこまで行ったが、そもそも売り切れだったり季節がずれてたりで購入不可だった。
もし私がその瞬間にタイムトラベルできたなら、ロクシタンの美容液を押すし、ア・ベイクのクッキー缶を激推ししただろう。なんだっていい。だって美容液やお菓子だったなら、氷川さんはあんなことしなかったし、あんなことにもならなくて済んで、みんなニコニコ幸せに暮らせたはずだから。
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※医療器具ではございません。以下の症状をお持ちの方は使用をお控えください。妊娠中・捻挫・骨折・ぎっくり腰・脱臼・打ち身。
「いきいき生活・寝たままモミモミくん」を、氷川さんは熱烈な歓迎で迎えた。
氷川さんの息子さんが母に語ったところによると、本当に大喜びだったらしい。すぐに箱から取り出し、その場に寝転び、1日の推奨使用回数3回を連続して使ったそうだ。
「ちゃんと時間を守ってね、あんまり使い倒して壊しちゃったら勿体無いからねって伝えたんですけどね。聞いてんだか、聞いてないんだか」と息子さんは苦笑いしながら純喫茶アマデウスに報告にきた。
「これからも母をよろしくお願いします。これよかったらお店で使ってください」とまだまだ品薄だった使い捨てマスクと、消毒液を置いていった。あるところにはあるもんだと母は言っていた。
氷川さんは息子さんが海外出張に行った後も変わらずお店にやってきて、息子の自慢話と「いきいき生活・寝たままモミモミくん」が案外気持ちよくてずっと使っているという話をしていたそうだ。
氷川さんが「気持ちいいんだけど、いいとこで終わっちゃうのよね。いちいちボタン押し直すのが面倒で」と愚痴った時、母は「ああいうのってあんまり長く使っても逆に良くないんでしょ?」と言ったそうだ。
「私、ちょいちょい注意してたんだけどね。でも『はいはい』って感じで聞き流してる感じで。『この人、ちゃんとわかってんのかしらね?』って不安ではあったんだけど」と母は氷川さんの話をする時に顔を歪める。
それで、氷川さんは「いきいき生活・寝たままモミモミくん」をずっと使い続けた。
最初は1日3回、1回5分をちょっとオーバーするくらい。
そのうち1日3回、1回10分に。1日3回、1回15分に。1日3回、1回30分に。
まだやりたりない、もう少しいける、全然大丈夫、もっと、もっと、もっと。まだ大丈夫。全然平気。気にすることない。ああ、気持ちいい。極楽だ。息子の思いがこもっている。孝行息子だ。苦労が報われた。私は幸せ。ずっとこうしていたい。多分そんな風に氷川さんは思ってた。
「注意書きなんて結局、よっぽど運が悪い人に向けたものでしかないのよ。事故なんか滅多にないんだから。だって本当に危険なものならそもそも売ってないでしょ? 今はリモコンのボタンをセロテープで留めて、そのまま寝ちゃうのよ。朝起きるともう腰がね、腰がすっごい軽くて気持ちいいんだから」
いくらなんでも危ないからやめなさいよと母は言った。
「そんな使い方して、腰をやっちゃったら私たちも息子さんも寝覚めが悪いでしょ」とも言ったが、氷川さんは「はいはい」と笑って取り合わなかった。
それからしばらくして、有名人が何人か亡くなり、トイレットペーパーが売り切れになり、マスクが転売され、小花柄の布マスクがあちらこちらで販売されるようになり、和牛券が顰蹙を買い、学校給食業者や牛乳業者のヘルプミーが広がり、飲食店で「俺、コロナ」と言って逮捕されるバカが現れ、ハッピーバースデートゥーユーを歌いながら手を洗うよう推奨する動画が広まり、レインボーブリッジがライトアップされ、トイレットペーパーが通常通りに並び、マスクが簡単に手に入るようになり、税金で布マスクが2枚ぽっち届けられ、みんなが「コロナワクチン ファイザー モデルな どっち?」「ワクチン 副作用」「ワクチン 2回め 予約」で検索し始めた頃、母はぐったりした顔で帰宅した。
異常に落ち込んでいるので何が起きたのか聞いてみたのだが、母は「うーん。なんでもないー」とカウチでごろついて、はっきりと答えはしなかった。
「なんかあったって顔じゃん」と私が聞くとやはり「うーん」と曖昧な返事をしてから、スマホをいじり始めた。しばらく何かを操作し続けてから「ぐあー、もー!」と唸り、母は「もうだめだー」と言った。
「だから、なんなの? お茶? 紅茶?」と私が言うと、母はカウチに仰向けになったまま挙手をし「紅茶ー」と応えた。
2人分のお茶と少し前に父が買ってきたANAのクッキーをテーブルに置くと、母はやっと体を起こした。そしてクッキーをもしゃもしゃしながら「氷川さんさー。もう歩けないんだって」と言った。
私はやはり氷川さんが誰だったか忘れていたので、「誰だっけ?」と聞いた。
「お店の常連さん。前にほら、息子さんが店にきてお誕生日プレゼント選んだ人」と母が言って、ようやく私は氷川さんを思い出した。
母は「本当、バカで、やってらんない」と苛立ちを滲ませた。
「毎日やってたんだって。寝たままモミモミくん。バカ過ぎる。あんなにやめろって言ったのに。みんなで止めたのよ? 私も止めたし、周りもみんな、ちゃんと時間守って使えって言ったのに。ヘラヘラしちゃって、わかったわかったなんて言って。全然わかってなかったの。骨がね、ちょっとずつ、毎日ちょっとずつ、ずれちゃったんだって。腰の骨。腰よ! 大事なところでしょ? 骨折とか捻挫とか、一気にバキッ! っていっちゃったなら治しようがあるのよ。けど、毎日ちょっとずつってね、ダメなのよ。歪んじゃうんだから、腰の形そのものが。ずれちゃったんだって。治んないんだって。それでもう、立てないのよ」
私は「えー」と言った。知らない人の知らない不幸は、別にどうとも思わない。それより母が引き摺らないかどうかが大事だ。
「いや、まだわかんないんじゃない? じっくり時間をかけてリハビリすれば元にもどるでしょ?」実際、氷川さんがどうなろうが知ったことではなかったが、私は適当にポジティブなことを言う。
母は「無理無理!」と私に対してキレ気味に手を払う動作をする。
「お店のお客さんとか、知り合いの整体師に聞いたけど、もう無理だって。車椅子よ、車椅子」
私は「うわぁー、かわいそ」と声を上げる。
「最近全然お店に来ないから、心配になってLINEしたのよ。そしたら『動けないのよ』って。怪我でもしたのかと思ったら、急に泣き始めてさ。朝起きたら立てなくなっちゃったって。可哀想だけど、理由を聞いたらあれでしょ! もう呆れちゃって、呆れちゃって! 息子が気にするからって息子さんにも連絡してなくて。寝てたら治るからって病院にも行ってなくて。もう大変よ。私とお友達とで氷川さん家行って」母は言葉を切り、長くため息を吐く。
管理人に事情を説明してアパートの部屋の鍵を開けてもらうと、氷川さんは寝室の布団の中で動けないままでいた。氷川さんは大声で「入ってこないで! 大丈夫! こっちこないで!」と叫び、部屋に入ろうとする母たちに向かって「泥棒! 警察を呼ぶから!」と怒鳴り始めた。
母たちは足を止めなかった。部屋は異臭で満ちていて、氷川さんの布団は股の辺りが茶色く変色していた。
氷川さんは動けなくなってから数日間、ずっと布団から出られなかったのだ。誰かに自分のうんちを見られるのが恥ずかしくて、どうしてこんなことになったのか話すのも恥ずかしくて、いずれ全てが悪い夢であったかのように足が動かせるようになると信じて、何もしないでそこにいたのだ。
母たちは赤ちゃんのように泣いて「大丈夫だから、1人でできるから」と駄々をこねる氷川さんを風呂場に運んで体を洗い、病院に連れてゆき、株式会社ビッグスのホームページから電話番号を調べて息子さんに連絡をしたのだと言った。
母は「お店は丸一日閉じる羽目になったし、助けてやったのに怒鳴られるし、診察費も私が立て替えたしで散々よ」と愚痴り、クッキーを私の分までむしゃむしゃした。
それで、氷川さんの話はお終い。完結。終了。
私はその後氷川さんがどうなったのか知らない。母は氷川さんの話をしなくなったし、もう小花柄の何かを持ち帰ってくることもなくなった。一度、虎屋の羊羹とマレーシア産の豪華なチョコレートを持って帰ってきた。母は何も言わなかったが、あれは氷川さんの息子さんからの品だろう。私と父が「おいしーじゃん」と褒めると母はケッという顔をした。
とても嫌な話だ。息子思いの母親と、母親思いの息子と、良心的な人々が、ハッピーエンドを求めて行動し、バカみたいに嫌な結果になった。何も教訓がない。バカが注意書きを読まずにバカなことをしたとまとめられる話だ。
ジェラピケのもこもの部屋着やフリースを着てガスコンロの側に立ち、炎に包まれた人を笑える人なら笑えるんだろう。酔っ払って階段から落ち、首の骨を折って半身不随になった人を笑える人なら笑えるんだろう。室内で卓上コンロ用のガス缶に穴を開けて、静電気を起こして大爆発を発生させた人を笑える人なら、笑えるんだろう。
私にはそういったものを笑ったり、自業自得だと、バカだからだと切り捨てることはできない。私はきっとガソリンを入れ間違えるし、使用期限の過ぎた携帯の充電器をそのまま放置して爆発させるだろう。私はそちら側の人間だ。教訓にすらならず、こんなバカいるの? と笑われる側だ。
だから私は、知りもしない氷川さんの、自分にはなんの関係もないお婆さんの話を改変して広めるのだ。
「これが母のお店の常連客のお話なんだけどね。色々あったけど今はリハビリがうまくいって、なんとかなったらしいんですよ。本当によかったですよね。まだちょっと杖をついて歩いてるんだけど、もう半年ぐらい頑張れば元通り歩けるようになるんですって。息子さんも海外から戻ってきて、今は同居してるんですって。母やお店の人たちとも仲直りして、元気にやってますよ」。
ハッピーエンドだ。
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やっとバスがやってきた。
氷川さん話の最新の聞き手である女性が立ち上がり、降車口地点側に立つ。バスに乗るわけではなく、誰かを迎えにきただけのようだ。
私は乗り込み口の前に移動する。私の後に塾帰りの学生らしき男の子と、買い物帰りらしきの中年男性が並ぶ。バスのドアが開き、行き先を告げる。
バスの階段を登り、PASMOをピッとやった時、運転手がチッと舌打ちをした。驚いて運転手を見ると、彼の視線はバス後方に向けられていた。私に対しての舌打ちではなかったようだが、気分のいい音ではない。
「こちらで補助しますから、触らないでください」と運転手は言い、立ち上がってバス後方へと向かった。
バスの中の乗客はまだ誰も降りていない。1人の男が通路にしゃがみ込んでいたからだ。彼に通行を止められてちょっとした人だかりになっている。男は体格はいいが、背中も肩も丸いので実際より小さく見えた。彼は車椅子の車輪の周りをいじっていたようだった。運転手に向かって申し訳なさそうに「外せると思ったんですが」と言って立ち上がる。酷く憔悴しているが、私はあの男を知っている。
運転手はものの数秒で車椅子の車輪を固定していたフックのようなものを外し、テキパキとした動作で金属のスロープを降車口からバス停に向けて伸ばし、続いて車椅子の手押しハンドルを握った。手押しハンドルは小花柄のカバーがついている。運転手は車椅子正面の向きがバスの内側になるようにその場で回転する。
元気のない、土気色の肌をした老婆が見えた。申し訳なさそうに小さく頭を下げ続けている。乗客たちに、運転手に、息子に。私に。全てに。
ごめんなさい、よくわからなくて、大丈夫だと思って、今まで大丈夫だったから。
きっとそんな風に言っている。そう思う。赤ずきんチャチャの校長先生には少しも似ていなかった。
運転手がスロープを降り、車椅子をおろす。息子がその後に続く。
あの女性が運転手に向かって「ありがとうございますー、助かりますー」と大袈裟に感謝を述べる。顰めっ面をしていた運転手はそれで少しは気分を良くしたらしく、「いえいえ。またいつでも」と言って手早くスロープを片付け、小走りになって運転席へ戻る。息子が降り、他の乗客たちもバスから降りてゆく。
私は通路を移動し、降車口のすぐ後、バス停側の場所に座る。スマートフォンを見るふりをして、車椅子の老婆と息子とあの女性を見る。
女性は「先生はなんて言ってました?」と老婆に聞く。少しでも場を和ませようとして無理して明るくしている声だ。老婆がなんと答えたかは聞こえなかったが、息子が「ヤブだよ、あんなの」と吐き捨てるのは聞こえた。
ドアが閉まる直前、女性が私に気がついた。ドアが閉まる。女性の顔はよく見えないが口元が動くのは見えた。
「さっき、聞いた話なんだけど……」きっと、そこから始まる話をしてる。ハッピーエンドで終わる、希望に満ちたいいお話を。
母からLINEが入る。夕飯は今日もシチューでいいか? と聞いている。私がちいかわスタンプでいいねと返すと、エルサがレリゴーを返してくる。
「氷川さんにあったよ」とLINEを送ると、すぐに既読がつく。だが返事はない。
「元気そうだったよ。息子さんと多分お嫁さんも一緒だった」と続ける。
キラキラしたハンス王子のスタンプがくる。
「またあんたの得にしかならない作り話するんだから」
私は返信をしない。
肩を竦めるオラフのスタンプ。続いてベジータの高笑いスタンプ。
私は返信をしない。
バスが走り出す。私は後を向いてバス停を見る。
氷川さんが、氷川さんの息子が、お嫁さんがバスを見ている。私を見ている。表情はよく見えない。顔だけがこちらを向いている。
私は「お母さんが気にしてるだろうから、安心させたかったんだよ」とLINEする。即既読。なんだと!? と動揺するベジータスタンプ。
「人のせいにしないの」
「あんたはベジータだった頃から、何か怖いことがあるとすぐに話を作り変えて、広めて、嘘の話で安心しようとする」
「お母さんのお店が松戸にある程度の作り話ならいいけど、実在する人でそうゆうのはやめなさい。結局作り話なんだから、何も良くならないんだからね」
「酷いことなんだからね、わかんないんだろうけど」
私はもう一度外を見る。氷川さんたちはマッチ棒のように見える。でもまだ、私を見ている。
私の顔を覚えているだろうか? 街で会うことはあるだろうか? 私だと気がついた時、氷川さんは私に何か言うだろうか?
何か言うだろう。それは絶対に感謝の言葉ではない。
知ったことかよ。
氷川さんの話 千葉まりお @mario103
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