010 「それじゃ、しよっか?」


 その日の放課後、俺は何故か刹菜の家にお邪魔していた。俺が今居るのは彼女の部屋。

 どういう理論か、どういう法則か……俺は物凄く気になっていた。

 ――この部屋の至る所からいい匂いがする、ということについて。

 なんだろう、香水とは違うフルーツの香り。鼻腔をくすぐる……じゃなくって!


「ん?」


 対峙する刹菜が身動きした拍子に、俺は現実に引き戻された。

 そして彼女は眼前で唐突にブレザーを脱ぎ始める。官能的な手つきで脱ぎ終わり、


「それじゃ、しよっか?」


 などと訳の分からないことを言いながら、次にワイシャツの第一ボタンを開ける。

 しよっか? それは――セ……。


「まずいだろ。それは駄目だ……。冷静に考えろ……」


 俺はチキンなので、思わず後ずさり、中国で会得した太極拳を構える(嘘)。

 すると刹菜は分かりやすく笑いをこらえた顔で、


「勿論。数学を、ね?」

「ス、スウガク――? あ、ああ……まあ、だよな……俺は分かってたぞ。数学をな……」


 俺は恥で体が熱くあるのを感じながら、動揺を隠すように頭を掻く。いやだがしかしどう考えても、そういう言い方じゃなかったろ!とツッコミたいが、まあそれは我慢した。

 彼女ははち切れたようににったりと笑い、小首を傾げる。


「なーにー、もしかしてエッチな事考えたぁ?」

「いや別に考えてません。これっぽちも考えてません。あり得ません」

「リントって何かを誤魔化すとき敬語になるよね。じゃあ、やっぱり考えてたんだ?」

 

 嵌めやがったなこいつ。


「でもさ、自意識過剰なんじゃない? それは」


 そう言って繊細な人差し指を俺の胸に当て、鳩尾まで滑らせる。

 俺はその手を半ば強引に掴んで、


「それより……数学教えてほしいんだろ?」


 色々誤魔化すようにそう言い、近づくと、


「えっ。へ、へぇ……けっこう来るんだ……ふーん」

「何の話だ?」

「ううん……それより数Ⅱの虚数の範囲教えて。あれ分かんないんだよね。飯島先生の授業分かりづらいんだもん。なんか、今のうちに数Ⅲも教えておくとかワケワカメのこと言い出してさ。がうす、へいめん? とか言ってて……」

「虚数? そんなのマイナスのルートだ。以上終わり」

「ねぇテキトーじゃん! もっとちゃんと!」


 そう言って端正な顔つきに微笑を浮かべる刹菜……正直可愛い。

 なんだろう。心境の変化ってほどじゃないが、密室に二人は環境としてまずいな。それだけは確信できる。あと二日ここで暮らせば無条件でこの可愛い生き物に恋をしてしまいそうだ。なんつって。


「そう言えば鈴乃は?」


 俺は座り、数学Ⅱの教科書を開きながら尋ねた。


「剣道あるって。折角ならうちあがってけば良かったのに」


 その台詞に多少の違和感を覚えた。敵対というか毛嫌いしてる印象が少なからず存在したからだ。


「刹菜、鈴乃のこと嫌いじゃないのか?」

「ん、別に? 嫌いじゃないよ。まー好きでもないけどね。……ただ、同類って意味では、そうだね……宿敵だとは思うかな」


 そう言って彼女はブレザーをハンガーにかけ、丸机の前に座る。


「同類?」

「分かんないの? 鈍男にぶおくん」

「すまんがさっぱりだ」

「ほんっと鈍いよね。リントはかなり敏感なほうって思ってたけど。周りのことよく見てるし」


 確かに彼女が言うように俺は敏感なほうだ。それは事実だろう。説明は難しい。簡単に言えば俺は、「鈍い」風に振舞っているだけ。

 

「ぼうっとしてないで早く数学教えてよ」

「え、ああ……」

「それともぉ――エッチなことしちゃう?」

「しねーよ。馬鹿なこと言ってないで早くノート開け」

「ちぇー」


 そう漏らし、顔を背ける刹菜。


「ちぇ、じゃねーんだよ」


 

◇ ◇ ◇



 二時間後。刹菜も進学校の生徒。成績はそこそこいい。数学は苦手と言っていたが、の割に教えている感触、理解が早いし論理的な思考も完成している。しかし二時間集中して勉学に勤しむ性格でもなく、


「ねぇ……凛斗ってあのクラスの中だと誰が好き?」


 などと関係ない雑談をさっそく開始。


「敬」

「うわ即答。しかもリントってホモなわけ? ちょっとないわー」

「俺は性格を正確に知りもしない相手を好きになるほど暇じゃないんだ。つまりはそういうことだ」

「性格を正確にってダジャレ?」

「なわけないだろ、あほか」


 そう言いながら込み上げてくる笑いと共に笑い合った。

 ここでふと思ったことがあった。俺は女子と話すこと自体が苦手ではない。しかし女子と気が合う、もしくは仲良くなれそうだと思ったことは一度もない。むしろ嫌いだと思う人の方が何倍も多かった。

 けど、刹菜は少なくとも俺の嫌いな部類にはいない。

 

 なんだろう、その事実が物凄く怖かった。俺という生き物には。


「じゃあ女子の中でって条件付きで考えてよ」

「女子の中? まあ性格知ってる人を前提に考えたら、消去法で刹菜と鈴乃になるか?」


 瞬間、刹菜がジト目になる。


「へぇー、堂々と浮気宣言するんだー。へぇー」

「いや、そうは言ってないだろ」

「じゃあ……浮気しない? それともどっちか選んでくれる?」

「ん?」


 俺の瞼は思わずピクリと微動した。


「ね、リント、あたしはやだよ。どっちか決めてほしいからね。……我儘だし、何言ってんだって思うかもしんないけど。夜中に目が覚めて、ふと、リントが今も鈴乃とこっそり会ってるんじゃないかって。そう思う時がある」


 刹菜は意味不明にも接近してくる。円形の机に沿って徐々にこちらにじわじわ近づいてくる。


「あたしじゃ、駄目なの? あたしって魅力ない……?」


 俯き、残念そうな目元は横の髪で隠れた。


「……ごめん、忘れてリント。重い質問してごめん」

「いや、重いのはいいよ。重いってことはそれほど人を大事に思える証拠だ。そして人に期待できる証拠だ。俺には、できなことだからな……」


 俺はまた、彼女の頭を撫でた。柔らかい髪の感触、さらさらの髪の感触が手に伝わってくる。


「……?」


 潤んだ瞳と紅潮した頬、彼女は今にもキスし出しそうな表情だった。



◇ ◇ ◇



 帰り時間。七時を越え、辺りは暗闇に包まれている。

 玄関で刹菜に新妻のように送られ、そのまま外に出ると誰かの気配を感じた。

 夜風の中、オレは気にせずそのまま進み門柱を抜けたところで、その石造に寄りかかり腕組みしている黒髪ロングの女子の姿を見た。


「待ってたわ」


 まるで「遅い」と言いたげな眼差しを向けてくるその女子。


「随分と遅かったわね。既成事実でも作っていたのかしら」

「何の話だ。それより嘘だろ、ずっと待ってたのか? もう寒いんだから、そういうのはよしてくれ。こっちの気が引ける」

「別に、好きでしてるんだし問題ないでしょう? それに、すごくあなたに会いたかったの」


 そう言って何かを誤魔化すように帰り道を歩き出し、先頭を進んだ。

 俺はその背に思わず尋ねる。


「鈴乃、いきなりで悪いんだが質問してもいいか?」

「何かしら」

「お前は本当に俺の事が好きなのか?」

「え――」


 彼女はその足を止めた。


「それともあっち側の人間なのか?」


 聞くと、少しの間があった。それは彼女が言い訳を考えている最中だったのかもしれないし、もっと他の懸念材料があったのかもしれない。それは俺には分からない。

 だが俺が本当はどういう人間か、鈴乃だけは理解している気がした。


「……もっと面白い質問かと思ってたわ。申し訳ないけど、どちらの質問にも答えないわ。その意味を感じないもの」


 そうか、やはり知ってたんだな、と答えようとしたがそのセリフが喉を通過する寸前でそれを保留する。

 何故なら――。


 俺は数人の邪悪な気配を気取り、立ち止まった。

 そうして前を歩いていた鈴乃の左腕を強引に掴み、申し訳ないが少し強めに引き寄せた。


「はっ、え?? なにっ、なにかしら!」


 瞬きほどの時間、女子からしたら圧倒的な俺の腕力で引かれた鈴乃は、驚いた様子で咄嗟に振り向き、こちらの顔を伺ってきた。

 しかし程なくしてその心配顔は俺の胸に埋められることになった。俺が彼女を抱いたからだ。


「鈴乃……君はここから動くな」

「えっ、な、な、なんの話……」


 胸の中で何故か若干嬉しそうに喋る鈴乃をよそに、俺は固めの表情で、少しずつ周囲を観察していく。

 すると、


「この男子、一人潰せば金もらえんのか?」

「いかにも弱そう。勝ち確じゃん。あの嬢ちゃん随分気前いいのな」


 そう言って同い年くらいの高校生が多数、多勢に無勢とばかり現れ、俺達を包囲してくる。数は五人。


「あんたら、誰に雇われた?」


 演技する余裕もなくなり、俺は素の自分を出すしかなかった。低めのトーンで質問を投げると、


「そんなん言うわけないだろアホなんか?」

「悪いが、多数相手に手加減する余裕はない」

「あ? おま、何いきがってんだ陰キャ君がよ」


 俺が陰キャだと知ってるってことは、学校内の人間か。


「もう一度言う」


 ここが人気のない路地であることを念頭に、俺はネクタイを緩めていく。

 メガネ陰キャでもなく、また刹菜や鈴乃が知っている俺でもなく……どこまでも透明で、無機質な「自分」をさらけ出し、静かに告げた。


「多数相手に手加減はできない」

「はっ、おま、俺らがお前相手に負けるとでも思ってんのかァ? ウケるな」

「ああ。俺も笑いそうだ。この場の五人だけで俺に勝った気になってる、あんたらに」


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記憶喪失で目覚めたら、なぜかクラスの美少女二人が彼女になっていた件 蒼アオイ @aoiiiiii

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