天照様と私の誓約

絶華望(たちばなのぞむ)

2011年03月11日(神の存在証明)

 私は人生に絶望していた。


 大学卒業後の就職に失敗し夢だったゲームクリエイターになる事は叶うことが無かった。自分が得意な事で飯を食おうと思い。プログラマーをやってみたが、金は稼げたが使う暇はなく、毎日残業する日々に疲れてうつ病となった。


 作家になろうかと小説を書いて賞に応募してみたが、1次審査すら通らなかった。もう、自分の人生が好転することなどありえない状況になり、実家に戻ってどうするべきか悩んでいた。


 いっそ死んでしまいたいと思っていた時に東日本大震災が発生した。大きく揺れる部屋の中で考えていたのは、目の前の本棚が倒れてきて自分を潰して欲しいだった。だが、本棚は倒れてこなかった。神様は意地悪だ。こんな奴隷の様な人生を送らせて、私を見てあざ笑っているに違いない。


 そんな事を考えていた。だが、津波があり大勢が死に停電とガソリン不足になり、それでも私は生きていた。暇だったから本当に神様が居るのか真剣に考えた。


 この世界にはルールがある。そのルールを決めているモノがある。それは、4つの力だ。その力を生み出しているモノは何なのか?現時点では神としか形容しようがない。


 そして、その力は万物を支配している。つまり全能だ。

 支配しているという事は、意思があるのなら万物を知っている。つまり全知だ。


 全知全能の神は、この世界のルール法則だと言える。では、そのルール法則に意思はあるのか?


 無いという答えの場合、この世界に救いなどない。全てが偶然で、なんとなく世界が形作られたことになる。その場合、私に救いなど無くなる。弱肉強食が自然の法則だ。それが根幹にあるのなら、私は他の人間に比べて優秀ではない。ゆえに、奴隷の様にこき使われることが運命となってしまう。


 そんなのは嫌だ。認めない。だから、神に意思はある。その証拠は歴史にある。横暴な暴君は失脚する運命にあったし、名君の治世は長く続いていた。弱肉強食が世の定めなら、世界はもっと残酷で酷い有様になっているはずだ。奴隷制度は無くなっていないし、常に暴力と権力を欲望のままに使う存在が世界の王として君臨し続けるはずだ。


 だが、そうは無いって居ない。だから、神は存在し意思を持っている。そして、その本質は愛だ。人間が理解している不完全な愛ではない。本当の愛、全てを許し受け入れる深い深い愛情を持って世界を見守っている。


 なら、なんで悪人がはびこっているのか?


 悪人が存在しない世界を想像してみよう。神はこの世界を見ている。神の視点を理解するために、私も世界を創ってみた。星が在り、動植物が在り、人間が在る。そこから、悪人を排除した世界を想像してみた。酷くつまらない。平和だけが続く世界、だれも苦しまないし成長も進化もない。


 そうなると、悪役が欲しくなる。だから、神は悪人を創った。


 でも、考えて欲しい。愛を持った神が本当に残酷で取り返しのつかない死という概念がある世界に人間を誕生させ、本当に死を与えるだろうか?

 優しく愛情深い神なら、そんな事はさせない。もし、それをさせるのなら死を疑似体験とするはずだ。死んだあとも意識は続き、世界を観測できるようにしているはずなのだ。

 私が小説を書く時、死人を出したり拷問したり残酷なシーンを書けるのは、それがフィクションだからだ。そして、この世界がフィクションだとするのなら、私はドラマに出てくる俳優と同じである。それも完璧な俳優だ。自分の役柄を完全に演じる為に記憶を消去して、死んでも問題ない肉体に憑依し操っている魂という事になる。


 そうでなければ、優しい神ではない。


 とはいえ、それが真実だと知ってしまったら、死も苦しみも意味を失ってしまう。だから、我々は悪人が居て死が取り返しのつかない酷い事だと認識して今の世界で生きている。


 取り返しのつかない死があるからこそ、生きることは尊いし、取り返しがつかないからこそ、失った悲しみは深くなる。生き返りがある世界で物語を感動的にしようとすると死は悲しい出来事ではなくなる。


『どうせ生き返る』という感覚は悲しみを失わせてしまう。


 生き返りがある物語では、誰かが死んだとしても悲しい事だと思えなくなる。命が1つしかなく取り返しがつかないからこそ悲しいのだ。ゆえに、人類は死んだら終わりという設定だけは変更される事は無い。

 だから、この世界は残酷で美しい。そして、仮想現実の様なものになっている。魂は不滅で、肉体は滅びるが人生を体験した魂は残される。全ての記憶を引き継いで、人生を謳歌している。


 私はこの世界に神は居て、かつ仮想現実であるという結論に達した。だが、目的のない物語ほどつまらないものはない。この世界のテーマは何だろうか?私の人生の目的は何だろうか?人類が目指すべきエンディングは何だろうか?


 私自身の人生の目的は、すでに決めている。思い残す事のない最後を……。ああすれば良かったと思う事のない最後を迎えたい。十分に生きた。やるべきことは全てやった。もう人生においてやり残しは無い。生まれ変わったり過去に戻ったりしてやり直したいことは無い。笑って死ねる。満足して死ねる人生にしたい。


 成功することが目的ではない。それに焦点を当ててしまえば私はやり直さなければならない。今よりも有能で、今よりも勤勉で、今よりも恵まれた環境に生まれ変わる必要がある。

 だが、それはしたくない。もう一度成功するかどうか分からない人生を神の存在を忘れてやり直すのは辛すぎる。


 だから、今の私の人生で得られた能力、元からあった性格、それに合った努力、精一杯頑張ったと思えたら結果は気にしない。それが私の人生の目的だ。これなら、無理なく達成できる。


 では、この世界のテーマは何だろうか?愛か憎しみか平和か戦争か肯定か否定か喜劇か悲劇か、あるいはその全てか?たぶん、全てが正解なのだろうが、もっとも重視されているテーマがあるはずだ。

 そう考えた時、ある要素が多くの物語に組み込まれ、その要素を多くの人間が支持している事に気が付いた。それは成長だ。平凡だった人間が、努力の末に成長し大事を成す。みんな、そんな物語が好きだ。

 だが、最近は努力をせずに成功したいという物語も増えている。しかし、全能に近い主人公が居たとしても必ず最初は弱いが成長して活躍するキャラクターは出てくる。

 そう考えるとやはり成長こそがこの世界のメインテーマだと思う。その成長は、何を指すのだろうか?人格?身体能力?知能?知識?


 私の結論は人格だ。能力は生まれ持った身体に依存する。そして、それには限界があるし、ゴールが明確ではない上に頂点に立てるのはただ一人。知能も同様に遺伝的要素が大きくゴールが見えない。知識は遺伝的要素の影響は少ないがゴールは全知となる。それは神にしか達成できない。

 その点、人格は努力次第で誰でも達成が出来る。ゴールも明確だ。釈迦とキリストが示した境地がゴールだ。釈迦は、この世界で起こる現象全てを受け入れて、対立しない事をゴールとした。キリストは、この世界の全てを受け入れて愛することをゴールとした。


 どちらも同じだ。善と悪を区別せず受け入れる。この世界の全てを神を肯定すること、これが人格者のゴールだ。これは全人類が達成できる目標だし優劣を競う類のものではない。善と悪を生と死を獲得と喪失を善意と悪意を体験し、その全てを受け入れ許す。これが、この世界のテーマだと思った。


 では、人類が目指すべきエンディングは何だろうか?人格の向上、悟りが世界のテーマだとするのなら、それには意味があるはずだ。なぜ、人格者になる必要があるのか?


 この世界は100億年以上続いている。その間に、人類以外に知的生命体が、宇宙空間を自在に移動できる技術を確立しなかったのだろうか?その可能性は無いのか?人類は高々数万年で、月まで行けるようになった。


 宇宙の年齢を考えれば宇宙旅行出来る生命体が居ない方が不自然だ。だが、今の人類の文明の延長戦上に宇宙旅行はあり得るのか?

 答えは否だ。地球上ですら奪い合いを止めずに戦争を起こし、貧富の差を生み出し、今では人類の文明を破壊できるほどの兵器を有している。争いをやめない限り、自滅するのは明白だ。

 そう考えると、宇宙旅行を行うには争いをしない精神性が必須となる。争いが起これば復讐の連鎖で自滅する。だから、どんな状況下でも互いを思いやり尊重し争わない。閉鎖された空間では食料も限られるので、食欲をコントロールする必要がある。人口が増えすぎてはいけないので、性欲もコントロールしなければならない。

 また、不測の事態で飢饉が発生した場合、年長者は若者の為に自害する自己犠牲の精神も必要だ。若者を殺してでも長生きしたいと思う者が居ては世界は存続しない。


『欲望をコントロールできないと宇宙に出たとしても争いか食糧難で死滅する』


 つまり、宇宙人が存在しているとすれば、争いを好まず欲望をコントロールでき、自己犠牲の精神を持った平和主義者なのだ。文明の遅れた惑星に戦争を仕掛けて全てを奪う。そういう宇宙人は、他星にたどり着く前に自滅する。


 そう考えると、宇宙人が姿を現さない理由は明白だ。姿を見れば人類は、宇宙人も人類と同じ精神性しか持っていないと思い込み、侵略に来たと断定し攻撃を行うだろう。そんな野蛮な人類に姿を見せる事など在り得ないのだ。自殺するようなものである。

 宇宙人に出来る事は人類が欲望をコントロールできるようになるまで見守る事だけだ。釈迦もキリストも同じ真理に辿り着いていたのだろう。ニコラ・テスラ、アインシュタインも同じかもしれない。合理的に世界のルールを元に、世界の姿を想像していくと神の存在と宇宙旅行が出来る宇宙人の精神性と行動に関する答えは明白なのだ。


 では、創造神が私たち人類に用意しているエンディングは何か?私には二つの未来しか予想できなかった。


 1つは、自分だけが裕福で幸福で安全であればいいという思想を捨て、みんなが幸せで、安全に暮らせる世界になる事だ。この時、誰もが独占を辞め、財産の所有を放棄し、みんなで全てを共有する。それが出来た時、宇宙人は姿を現し現在の人類が持っている科学技術とは比べ物にならないほど発達した文明の仲間入りを許されるだろう。


 もう1つは、独占を辞めない人類が、互いに殺し合い破滅するエンディングだ。誰も生き残らないか、生き残ったとしても石器時代からやり直しとなるだろう。ちなみに、殺し合いで破滅せずに宇宙空間で長距離航行できる技術が開発された場合でも最終的には自滅することになる。宇宙の資源を食いつぶすだけだからだ。宇宙の環境と共存するという意識が無いかぎり、滅亡の運命からは逃れられない。


 そうなる前に終末が起こるかもしれない。神が居て全てをコントロールできるのなら、物語を盛り上げるために起こす可能性もある。


 さて、今の人類の状況は確実に終末に向かっている。いつ起こってもおかしくはない。それはいつになるのだろうか?時期を知る方法はあるのだろうか?預言者は居た。だが、ノストラダムスの予言は外れた。


 そもそも予言の多くには時期が明記されていない。なぜなのか?


 マルチエンディング、マルチイベントのゲームが答えだと思った。終末や大災害、歴史的事件にはトリガーがあり、条件が満たされないと発生しない。そして、その条件には多くの人間がかかわっている。全人類の意識を創造神が操っているのなら時期まで明確に予言できるだろう。

 だが、そうではない。私が小説を書こうとした時、最初に考えたストーリー通りに話を進めようと思ったが、自分の生み出したキャラクターが、自分の最初に考えた行動とは別の行動をとることがあった。


 俗にいう『キャラが勝手に動いた』という現象だ。


 これが、創造神の中でも起こっていると仮定すると、辻褄は合う。つまり我々人類は、創造神から操られているのではなく、与えられた性格と能力の許す範囲で自由が与えられている。


 だから、未来は変えられるし予言も外れるのだ。


 そう考えると世界は面白い。自分の行動によって結果が変えられるマルチエンディングストーリー。私は、そのプレイヤーになれる。これは私だけではない。全人類にその権限があるのだ。理解している者は、これを利用し成功している。理解していなければ脇役のままだ。私もあなたも主人公に成れる。


 だが、私は平凡な人間で才能は無い。絵も描けない作曲も演奏も演技も出来ない。多少数学が得意なだけで文才も無い。プログラミングは出来るが世界を変革するようなアイデアなどない。主人公に成れる要素は皆無だ。


 一発逆転の手は奇跡に頼る事しかない。さて、創造神(この世界のルール)は人格を持った神をこの世界に用意しなかったのだろうか?


 私は神の意志の元、この世界に生まれた。これは私だけではない。人類も宇宙人も星も動物も植物もだ。この世界に存在する全てが必要が有って存在している。無駄なものは何一つない。そして、私の意思は創造神が与えてくれたもの、それは創造神の分け御霊と言っても良い。善悪の判断に偏りはあるとしても創造神の一部が私の意思なのだ。

 一部であるという事は、創造神の意思や目的を完全ではないにしろ理解できるはずだ。創造神はこの世界を見ている。当然、見るのなら面白い方が良い。万能に近い神が居てはつまらなくなる。圧倒的な力で悪を滅する存在は、物語のエンディングで出てくる分には構わないが、不完全なものたちが足掻いている最中に出てきて全てを蹴散らしては面白くない。


 だから、神と呼ばれるような存在は、終末が極まるときまで物語への干渉を最低限に制限されているはずだ。つまり、平時において神と呼べるような力を持った存在は力を封印して存在しているか、そもそも物語に手出しできない状態になっているはず。


 そして、今の世界を見るに、神様は世界への干渉を殆ど禁止されている。


 だが、存在はしているし、ある条件下では奇跡を見せている。ファティマの奇跡だ。あの時は、無垢な子供に姿を見せ、10万人以上集まった時には奇跡としか言えないような現象を起こして見せた。

 この事実から条件を考察すると、純真無垢に神の存在を信じている者には姿を見せることは可能で、純真無垢とは言えない人間でも神の存在を信じている者が10万人集まれば世界を変えるような奇跡を示せる。

 さらにもう一つ条件が判明している事がある。この奇跡を見えなかったという者も少数ながら居たのだ。参加者の殆どは神を信じているか信じたいと思ていて奇跡を見たいと願っている人たちだと思われる。

 だが、その中には神なんぞ居ない。奇跡は起きない。それを確かめようと思って行った者も少数ながら居るはずだ。そういった者たちには奇跡は見えなかったと私は仮定した。


 神の奇跡を見るためには、少なくとも半分は信じている必要がある。全く信じていない者には神の奇跡は見えない。以上の事から、神は存在している。だが、世界に干渉するには制限があるという結論に至った。


 では、どんな神が居るのだろうか?


 ユダヤ教の聖書、キリスト教の旧約聖書には創造神と裁きの神が出てきている。同じ神として書かれているが私の分析では、創造神は世界を創った後で物語の進行を人々に任せて姿を消している。

 その後で出てきた神は創造神ではなく裁きの神だと認識ている。裁きの神は人を正しく導くために罰することを選んだ。だから、世界を滅ぼそうとも人を正しく導くためのルールを作り出した。


 だが、その方法では人は改心しなかった。


 だから、創造神はもう一柱別の神を作った。それはキリストが説いた愛、許しの神だ。許しの神は人の愚かさも醜さも残酷さも受け入れて許す事で人を改心させようとした。だが、それも上手く行っていない。だが、信者は増えている。


 私には神様の奇跡が必要だった。私に必要なのは裁きではない。裁きでは私は救われない。私は無能ゆえに苦しんでいる。私を苦しめた者たちを罰したとしても私は救われない。裕福な生活を送ることは出来ないのだ。


 だから、私は許しの神に救いを求めることにした。


 しかし、見えない存在との会話の方法が分からなかった。だが、想像は出来る。自分の中に完全なる神を作るのだ。その神は、全てを許す慈愛の神、私の全てを知り、私の心の醜さも美しさも能力も全て知っている。欲望は無く、私が愚かでも許し導いてくれる。そんな女神を作り出そうと思った。

 そして、その神が何と言うのか想像するのだ。私自身欲を捨て、冷静に自分の性格と能力を分析し、その女神ならなんと言ってくれるのか言葉を想像することにした。


 その言葉が本当の神の声に意思に近づくように私は無欲に残酷に冷静に自分を分析し、アドバイスを貰うことにした。欲と驕りを完全に捨てる事ができた時に、想像した言葉は本当の女神が言う言葉になると思ったからだ。


 私は、創造神の一部だ。そして、愛と裁きを善と悪を内包している。神の声を想像できるはずだ。もし、この考えが正しければ私は奇跡を見ることが出来るはずだ。だから、神が存在する証拠を見せてもらおうと考えた。

 これから、想像する女神との会話で奇跡を見せてもらう約束をする。女神が、私に奇跡を見せたくなるように誘導する。その結果、奇跡が見れたのなら、私は世界を変革する方法を手に入れる事になる。


 私は創造神の分け御霊で、この世界に干渉する意思を持っていることが確定するのだから……。

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天照様と私の誓約 絶華望(たちばなのぞむ) @nozomu_tatibana

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