刺繍糸の恋模様
南紀和沙
刺繍糸の恋模様
「今夜は騒がしいこと。宴がとても盛り上がっているのね」
年若いエミリエも工房の窓を見る。王宮の前庭があるあたりの空が明るく見える。
前庭のあたりでは、多くの
「無理もありません。カミル様がお帰りになったのですもの」
エミリエはそう言って、片付けを再開する。
「カミル様か……ずいぶん立派な将軍様におなりになったねぇ」
老女も片付けをしながら、宴会の主役について語り始める。
カミル――王国随一の将軍である。黒い鎧に黒い
「あの黒いマント! 黒地に黒い糸で刺繍をしたねぇ」
「はい。多少重くてもかまわないと、おっしゃっていましたね」
老女とエミリエは、王宮づきの
刺繍師とは、布に糸で飾り縫いを施す職人のことだ。布を選び、絵柄を選び、糸を選び、縫い方を選び、魔力をこめて刺繍をする。出来上がった刺繍布には、魔除けの効果がある。
「獣と花と魔除けの
エミリエが苦笑する。
カミル将軍の要望は、なかなか難しい仕事だった。黒布に黒い糸で魔除けを刺繍する――しかも目立つマントに仕立て上げる。エミリエたちは三ヶ月かけて、要望どおりの品を完成させた。
カミルはそのマントを着けて、辺境の
「さて、アタシはこれで終わり。エミリエは?」
「もう少しだけ作業していきます」
「わかった。あまり遅くならないようにね」
老女が先に工房を出ていく。エミリエはふう、とため息をついた。
「カミル様の刺繍……」
カミル将軍のマントは、エミリエが刺繍師になって初めての大仕事だった。ひとつひとつの模様に魔力をこめ、丁寧に刺繍をする。大変な作業だったが、よい経験だった。
エミリエは再度、工房から前庭のあるあたりを見上げる。わずかに笑う。
「エミリエ! いるか!?」
突然、バン! と工房の扉が開いた。
エミリエは飛び上がるほど驚いた。振り返ると、黒い鎧の男が工房内に入ってきていた。
「カ、カミル様!?」
「おお、いたいた。息災だったか、エミリエ」
カミル将軍その人であった。黒い髪、黒い瞳、黒い鎧――黒尽くめの姿は、王国一の将軍であることを示している。大柄な体で、遠慮もなく近づいてくる。
「カミル様、宴では……?」
「ああ、抜けてきた」
カミルはあっさりそう言うと、懐から包みを取り出した。白い布で、なにかを包んでいる。
「宴の席にあったものだが……これくらいしかなくてな」
カミルはエミリエの手に、包みを握らせる。
エミリエが包みを開けると、焼き菓子が数個入っていた。
「お菓子……」
「君が喜びそうなものだ」
カミルがニカッと笑う。まぶしい太陽に似た笑みだ。
エミリエはふと、何かに気づいた。カミルが黒いマントを身に着けていない。
「カミル様、マントは?」
「あー……」
エミリエの質問に、カミルは答えにくそうに視線を泳がせた。次の瞬間、カミルはパン! と両手を合わせる。
「すまん! やられた!! 敵の
「し、仕方のないことです。謝っていただく必要は……」
どうやらカミルは戦場で敵の魔法を受けたらしい。マントはそのときに損傷したのだろう。
エミリエは内心、残念に思った。三ヶ月かけた刺繍も、焼かれてしまえばそれまでだ。
「いや、焼けたのは四分の一といったところでな。エミリエの魔除けのおかげか、俺は無傷だったんだ」
カミルが言い訳を積み上げ、エミリエの表情をうかがっている。
エミリエは苦笑した。身にまとう品が損耗することくらい、職人であれば覚悟している。
「カミル様がご無事であれば、わたくしはかまいません」
「そうか……そう言ってくれると、助かる」
カミルがホッとしたような顔をする。大きなオオカミが、群れの中でしょんぼりしているような雰囲気があった。
「それで、な。エミリエ」
「マントの修復、または新調でしょうか? それなら新しい柄を……」
「いや、そうじゃない」
カミルが懐から、別の包みを取り出す。広げると、中に半分焼けた布切れが入っている。
「マントの表地と裏地の間から見つかったものだ」
「あ……」
赤い布切れに、赤い花の刺繍が施してあるのがかろうじて判る。エミリエが、マントを仕立てるときにこっそりと忍ばせたものだ。
「これは、君が入れておいてくれたのだろう?」
「……そ、そうです」
赤い花の刺繍――魔除けの意味を特にこめた、お守りだ。
一般的に、大きな品よりも小さな品の方が、魔力が濃くこめられる。エミリエはカミルの無事を祈り、小さなお守りをマントの中に忍ばせた。気づかれるものではない――はずだった。
「ありがとう」
カミルが誠意をこめて礼を言う。
エミリエは赤面した。秘密を暴かれた恥ずかしさがあった。
「よ、よかった……です」
モゴモゴと口ごもりながら、エミリエはそう伝えた。顔から火が出そうだ。
「カミル様がご無事であれば……それで」
「それで、な。エミリエ」
カミルが言う。
「次も、この刺繍を頼む」
「え……」
「マントの中に、入れておいてくれ」
カミルの頼みに、エミリエは目を丸くする。
カミルはそんなエミリエを見て、照れくさそうに笑う。
「君に祈ってもらうと、次もちゃんと帰れそうだ」
エミリエの手を、カミルは取る。大きなゴツゴツとした手が、エミリエの職人の手を握る。
「黒い刺繍のマントの中に、君の赤い刺繍を入れておいてくれ」
カミルの手はさらりと乾いていて、あたたかい。エミリエの少し荒れた手を、優しく包みこむ。
彼の心の内が伝わってくるようだ。エミリエはドキドキと心臓が高鳴った。全身が熱くなってくる。
「エミリエ、ダメか?」
「い、いえ……お引き受けいたします」
エミリエが答えると、カミルは満足げに何度かうなずいた。エミリエの手を離し、立ち上がる。
「そろそろ宴に戻る。邪魔をしたな」
「あ……カミル様!」
立ち去ろうとするカミルに、エミリエは声をかけた。勇気を振り絞る。
「お菓子……ありがとうございます。刺繍も、きちんと施します」
意志を伝える。職人としての言葉だけだったが、その内側にエミリエの想いもこめていた。
カミルがにっこりと嬉しそうに笑う。
「そうか、楽しみにしている」
カミルはそう言って、工房から出ていった。
エミリエは工房の椅子に座った。嵐が去ったような気分だ。だが満ち足りている。
菓子の包みから、焼き菓子をひとつつまむ。口に入れると、ほどけるような甘さが広がった。
「……お慕いしています」
エミリエの想い。刺繍に施す、密かな気持ち。
ひとつ笑って、エミリエは赤い刺繍糸を手に取った。次の品にこめる想いが、胸の中に膨らんでいた。
-了-
刺繍糸の恋模様 南紀和沙 @nanayoduki
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