惜しまれぬ夜を
ナナシマイ
*
快楽を燻すような紫煙が、夜を掠めていく。
陽が昇るまでの時間はたっぷりあるというのに、今宵の相手に情欲の妖精を最後まで愉しみ尽くすつもりはないらしい。もう必要な対価は得たとばかりにシャツに袖を通して煙草を手にする人間の魔術師が朝までにもう一度こちらに触れることはないのだと思えば、妖精は何度目かわからぬため息を吐きたくなる。
(……そう、この人にとって、私と身体を重ねることそのものは益にならないのだわ)
仮にも情欲の妖精なのだ。
艶やかでありながら透き通る紫色の羽も、宵闇を思わせる赤紫の瞳も、その蠱惑的な美しさをひと目見ようと金を積む男は大勢いる。
妖精はその中からその日の気分で相手を選び、さらに装飾品やら酒やらを要求する。そうして多くの対価を払って初めて、彼女と夜を過ごすことを許されるのだ。
それを、この人間は、「お前が俺を求めたんだろう?」と嗤う。
普通の人間であれば、たとえ触れることを許されたとしても、いざその時になれば恐れ多いと躊躇いを見せることすらあるというのに。
(でも、たしかに、この交わりに対価を払うのは私のほう)
純粋な人間であるはずだ。しかし多くの者に求められる情欲の妖精が、恐れをもって特別を許したただ一人の人間。
夜の魔術師という男は、それほどに異質な存在なのであった。
「香を焚かなくてよかったのか?」
ふう、と深く長く吐かれた息は、その煙の不思議な揺らぎと相まってひどく色めいて見えた。あちらを向いた青墨色の髪は人間らしく暗がりに紛れながらも、脚を組んでベッドの縁に腰掛ける姿は鋭利な夜空を思わせる。
しかし紡がれた言葉は思いのほか穏やかで、妖精は目を瞬いた。
「あら、睦言をくれるの? 珍しいわね」
「調整は終わったからな」
「そう……」
妖精が短く頷けば、淡く微笑む気配がした。
夜の魔術師は、情事のあと必ず煙草を吸い魔術を展開する。情欲の妖精から得た対価についてその場で必要な加工を行ったり、余分な要素を切り落としたりするためだ。
いつだったか、妖精は、その魔術の道を崩してやろうと火を点けた煙草を奪おうとしたことがある。しかし待っていたのは恐ろしい仕打ちで、情欲の妖精として――それ以前に女としての尊厳を踏み潰すようなあの夜の放置は、とうてい人間のすることではなかったとだけ言えた。
それ以来、煙草を吸う魔術師の邪魔をしたことはない。せめて人間の精神を快楽の方面へ崩す香を焚く程度だ。
おそらく彼は今、夜闇よりも暗い、磨いた黒檀のような瞳を酷薄に光らせているのだろう。その愉悦を見たいと思わないでもないが、妖精はそっと近づいてほどよく引き締まった背中へ頬を寄せるにとどめる。
しなやかな厚みの向こうから聞こえてくるのは、規則正しい生命の音。
濃密な夜を交わしたばかりとは思えない落ち着きっぷりを咎める代わりに、彼女は魔術師の過去の行いに対して文句を垂れるかたちで先の質問に答えることにした。
「だって、あなたが私の意思を壊してしまったじゃない」
「祝祭前にあんなものを寄越すんだから、とうとう情欲の妖精も気が触れたかと思ったぞ」
「まあ……!」
去年の祝祭期間、この残忍な魔術師にもとうとう心を傾ける相手ができたのだという噂を聞いた。ならばその噂をこちらに繋いでしまおうと画策した妖精が紡いだのは、暖炉宝石という、女性からの求婚相当にあたる品。それを夜の魔術師へ贈ろうとしたところ、あっさり断られ自身の手で破棄する羽目になったのだ。
(ころころと相手を変える人間と違って、私たちが本気で想う相手など生涯にふたりもいないのだということを知らない――なんてことは、彼に限ってないでしょうね)
配分がずるいのだ、と妖精は思う。
彼の身体を知り、男としての欲を吐き出させているという自負はあるのに、それは肉体的なかたちばかりの話で、夜の魔術師という人間の心のかたちはいっこうに見えてこない。その輪郭すら触れさせてくれない彼との繋がりを求めているのはこちらだと気づくのにそう時間はかからなかった。
執着を抱く手前で諦めさせたのでさえ計算のうちだというのであれば、やはりこの人間離れした残忍さが愛おしい。
加えて、どうやら本命がいるらしい夜の魔術師は、しかし本命の代わりにと情欲の妖精を抱くことはしない。そのような思考の持ち主であれば、妖精はとうにこの人間のもとを去っていただろう。
彼は彼の思考で妖精を選び、彼女との夜を過ごすことでしか得られない成果を欲している。だからこそ情欲の妖精は彼の誘いに応じ、たとえその欲が愛欲でないと知っていても満たされた。
(むしろ、そんな人間の欲を欲している)
思えば、とある酒場で初めて夜の魔術師を見たとき、彼は当時の情欲の妖精が懇意にしていた人間の
雪崩れるように肌を合わせたあの夜の恍惚は、忘れられない。
憤怒に任せ、喰らうつもりで明け渡した身体の主導権がこちらに戻ることはなく。くだらないものになど構わず、愉快な物語を紡いでみせろと刻みつけてくる行為に、妖精が無自覚に抱いていた穴は埋められてしまった。
「…………本当に、容赦のない人」
「は、今さら優しく扱ってほしいのか?」
「そうではないけれど」
「やけにしおらしいことだな」
「だってあなたが、……いいえ、なんでもないわ」
妖精の逡巡に、人間は片眉を上げてみせただけで、追求することはなかった。
そんなふうに己の領域の外にあるものを無関心に扱いつつも妖精の気質を理解しその欲を満たしてくれるのだから、やはり本気にならざるを得ないというものだ。
だとしても手に入れることはできないとわかっている男に、縋るような真似はしない。
それは情欲の妖精としての矜持が許さない。
「また――」
ついに帰り支度を始めてしまった人間に、そっと問いかける。
(どうせ私の前にしばらく現れるつもりはないのだから)
そう確信するだけのものを奪われた自覚はあった。ならば少しくらい上乗せしてみてもよいだろう。
「私、また、くだらないものに囲まれてしまうかも」
「…………ったく。それなりの経歴があるのでも集めとけ」
「んふふ、そういうのは得意よ?」
そうしたらまた。気が向いたらでもいい。
彼がきっと、愉しく紫煙を紡ぐから。
荒削りだった残忍さは潜むことも増えたが、より鋭く砥がれた刃であることを妖精は知っている。
人間味は増したのに、そこにあるのは人ならざる者のごとき酷薄な取捨の道だ。人間らしい強欲さで心を揺らしながら、己の望むものを手にするために享楽へ身を投じる夜の魔術師は、なんて恐ろしいのだろうと妖精は思う。
(けれど、だからこそ、愛しく想うことをとめられないのだわ)
几帳面にハンガーに掛けていたジャケットを羽織り、夜を惜しむことなく魔術師は闇の向こうへ去っていく。
そんな人間の男に、情欲の妖精は、彼の幸福を静かに願った。
惜しまれぬ夜を ナナシマイ @nanashimai
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