寄せ映す波間にて

ナナシマイ

p.?? あなたは知らないほうがよいでしょう

「……海へ、行くのかい?」

「ええ」

 ファッセロッタはどちらかというと冬の要素が強い街だ。それは外れにある深い森も例外ではなく、近頃は避暑地として人気を集めている地域でもある。しかしその奥に住まう森の魔女の家の周囲にまで燃えるような風が流れ込んでくるのが今年の夏であった。

 窓を通してもわかる草いきれは重なる木々を夢のように霞ませ、森はいっそう幻想的な雰囲気を醸す。

 この暑さは夏の明星黒竜が一時的に力を落としたことにより、期待していた夜空が見られないと荒ぶった夏に連なる妖精たちのせいだという。が、見かけの美しさはともかく、ひとたび外へ出たならばべっとりとまとわりつくであろう風は勘弁してほしいと、同じ白みでも雪や霧のそれを好む魔女はため息をつきたくなる。

(けれど、よい機会なのかもしれないのだもの)

 森という大きな要素を司る彼女は相応の力を持っている。それでもこのように苦手とする要素はあるもので、それを自覚し、対応策を練っておくことは重要だ。

 特に最近なにかと関わるようになった人間は、気を抜けば魔女をも引きずり下ろすような悪意を扱う魔術師である。実際冬の終わりには森の魔女が苦手とする海の要素が強い惑いの間へ落とされたこともあり、(そのときは事故のようなものであったが)かの魔術師が彼女を陥れるために用意した場所であることは明らかだった。

 少し前にはこの家にまで押しかけてきたし、そろそろ事を起こすのではないかと魔女は踏んでいる。

(彼と過ごす時間は楽しいけれど、わたくし自身が損なわれるのはまた別の話)

 ゆえに備えておくのだと、魔女は気合をいれるため、心配する家を前にふうっと息を吐いた。


       *


 さて、そうして森の魔女がやってきたのは、時期になると多くの観光客で賑わう海岸線の美しい海だ。

 照りつける陽射しは荒ぶる妖精たちのせいで強烈な熱さを誇っているが、か弱いはずの人間たちは楽しそうに水遊びに勤しんでいた。その中には人ではない者も混ざっていて、海としての要素はより強まる。

(ひどい人混みには慣れないけれど、正解だったわ。この濃さならすぐに集められそう)

 魔女のこっくりとした葡萄酒色の髪はうしろで一つに束ねても周囲から隔絶された鮮やかさを保ったままで、しかし泳いでしまえば似たような魚もいるだろうと魔女は若干楽観的に微笑む。

 遊泳用にまとったのは、夕立後の空から紡いだ、ぐっと薄いが撥水効果のある布地で作ったワンピース。肩下をぐるりと周る部分に寄せられたたっぷりのギャザーが動くたび揺れる。上から重ねたストールもいつもとは違う軽さでなびくのが楽しく、つまるところ、本日の彼女はわずかばかり浮かれていたのだ。

 そのため、事故が起こるのは必然だったといえよう。

 せめて他者の目が少ないところでと岩場を選んだ森の魔女は、自分が得意なのは木の根が突き出る森の道や雪道であることをすっかり忘れていた。

 あっと思った瞬間には岩に生えた藻に足を取られてしまう。不意に足場がなくなり、そのまま後ろへ重心が傾いていく。


 そして不幸なことに事故というのは重なるものである。

 魔女としての反射でかろうじて転倒の衝撃は防げたものの、飛び散る海の波にまで意識を向けることができなかった。

(いけない――)

 わあんと飛沫が反響するのに気づいたときにはもう遅く、辺りに海とは異なる水の要素が満ちる。

 それはどこまでも続く透明。

 心が洗われるような、神聖なほどに美しい透明。

 しかしそこにあるのはどうしようもないほどの悪意で、瞬時に森の要素を展開した魔女は髪と同じ色の瞳を鋭く光らせて周囲のようすを探る。

 わあん。わあん――

 不自然に空中を漂ったままの水飛沫がまた、透明度を増していく。

(……ああ、間に合わなかったのだわ)

 彼女が知る中でもっとも恐ろしい悪意。これまでは退けることができても次はないかもしれないとすら感じさせる、世界の底をゆく者。

 際限なく重ねられた鮮烈な闇はときとして光よりも眩くなるのだと、知ることになった相手。

 耳よりもずっと近いところで反響音が鳴っている。

 あとはもう、待つことしかできない。


「……は」

 しかし、響き続ける水飛沫に映し出された人物を見て、森の魔女はぽかんと口を開けた。

「え、と…………魔術師さん?」

 呆然としているのは向き合った相手も同じようで、しかし昼間でも夜の気配をまとうその魔術師は、はっと黒檀色の瞳を揺らし、それからこちらを検分するように細めた。

「おい、その格好はなんのつもりだ」

「可愛らしいでしょう? ずいぶん前、湖のある森に住んでいた頃作ったものなのですけれど、流行物にしなかったのでまだまだ着られるようです」

 ひらりと海水に揺らしてみせれば、雨上がりの赤みがかった夏空が溶けるよう。あらためて満足げなため息を溢した森の魔女に対して、夜の魔術師は呆れのため息を溢す。

「……と、そんな話をしている場合ではないのでした。魔術師さん、会ったばかりで申しわけないのですが、そちらからこの繋ぎを辿らずに切り落とすことは可能ですか?」

 魔女の瞳にあるただならぬ気配に、夜の魔術師は呆れたような表情をすっと引っ込めて剣呑な眼差しを見せる。

「お前、またおかしな場所に落ちたのか?」

「そういうわけでは――いえ、でも、そうですね。あなたは知らないほうがよいでしょう」

「おい」

「人間には手に余るのです。……魔術師さんなら、わかってくれますね?」

 そう首を傾げた魔女が見せるのは、人ならざる者の傲慢さ。

「…………ったく」

 長きを生きる魔女の言い聞かせるような、はたまた命令ともとれる言葉に、人間は従うしかない。

「俺が納得する対価を考えておけよ」

「……ふふ、わかりました」

「切るぞ」

 ふつりと夜の魔術師の姿が消える。それでも「辿らずに」と告げた意図を理解したうえで飛び地のようなかたちで繋ぎを置いていった人間に、魔女は不思議な温もりを思った。


「ふうん」

 ひたりと落とされた声に、森の魔女は緩みかけていた気を引き締める。

 悪意というのはたいてい背後からやってくるものだ。

 振り向きつつ少しだけ視線を下げれば、そこには予想していた通りの少年の姿があった。

 透き通るような水色混じりの銀髪は長めに切り揃えられ、その隙間からは蠢く闇の穴――と見紛うほどにおぞましい光を放つ瞳が覗く。きっちりとした服装はどこぞの王族かといった出で立ちであるが、乗せられた無垢な笑みがかえって少年の恐ろしさを際立たせていた。

 少年が立っているのは魔女と同じ海の中であるはずだが、どこか切り離されていて、違う場所から覗いているようにも見える。

「水鏡の精霊さん、お久しぶりですね」

「うんうんお久しぶりー。きみの落ち着きっぷりも相変わらずでなによりだよぉ」

 可愛らしい声、軽い口調。しかしそこには老成した精霊の深みがあり、古来より人間の望みに合わせて振るってきた悪意があった。

 それを隠しもしないということは、隠す必要もないということ。

 だからこそ油断してはならないのだと、森の魔女は実は緊張に震えそうになる胸を必死になだめる。

(この魔法の感じは、たぶん、わたくしに繋がりやすい者を炙り出すためのもの)

 水鏡の精霊は、もう夜の魔術師という人間の存在を認識してしまったのであろう。

 裏の世界に身を置き生きているあの人間であればそう簡単に損なわれることはないはずだ。それでも相手は大きな要素を崩して世界を揺らすことを愉しむ精霊で、どうやら久しぶりに森に手を出してみようと考えているらしい。

「でも、今は目をかけてる人間がいるみたいだねえ。そっかそっかー」

 やはり、と軽く目を伏せた森の魔女に、水鏡の精霊は空虚な笑みを輝かせた。

「だあいじょーぶ。心配しなくても、さっきのは壊さないよ? きみ、あんまりそういうので崩れないしさぁ。……でもさあ、いつもと違う遊びはできるよね?」

 楽しみにしててー、と無邪気な笑みで手を振りながら水鏡の魔法を解く少年姿の精霊。

 残された水飛沫がぱしゃぱしゃと海面へ落ちていく。


 詰めていた息を吐き出した魔女は、ふと、繋ぎを切る直前の魔術師の片耳にあったものを思い出す。

(あれは、ただの星だけではなかったわ。竜の要素かしら……?)

 最後に直接会ったときはなかった要素だ。ならば、最近になって加護を得たのかもしれない。

「星々は森の布団で眠り、海の夢を漂う――」

 歌うように諳んじるのはとても古い詩。そこに込められた物語をなぞるように。

 自身の物語が、その性質を帯びるように。

 強烈な陽は傾いていき、熱を持った海波が明星を探してざわめく星たちを抱く。

 森の魔女は、そんな星たちが落ち着きを取り戻して森の向こうへ消えるまで、ぷかぷかゆらゆらと海水に浮かんでいた。

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