ある一人の男が氷床で絶望していました。

 ところは白夜の氷床。

 大気中で粒になった氷が日差しを照り返してきらきら輝いている。


 肺をてつかせる冷気の中、男は真っ白な息を吐いた。


 限界だった。

 命を脅かすホワイトアウトに逃げ惑ううち、仲間も犬ぞりも見失ってしまった。


 なんとか生き延びはしたものの、男の前にはただひたすら晴れ渡った銀世界が広がっている。

 仲間や犬たちは生き延びただろうか。影も形も見えず、行き先も帰り道も分からない。

 冷え切った体は男の死が間近に迫っていることを示していた。


 動くのをやめれば死ぬ。その思いで動かす緩慢な足が固い塊に躓き、男は見事にばたりと倒れた。

 こんなところに雪塊か。

 のそのそと身を起こした男が見ると、それは平たい丸形の焼き物だった。

 土鍋である。

 南にある男の故郷ではしごく一般的な調理道具だ。この調理道具をそのまま名前として持つ料理さえある。


 なぜこんなところに鍋が?

 確かに鍋といえば冬の料理の代名詞だが。氷床こんなところで鍋パしようなんて輩がいるとも思えない。


 死ぬ間際の幻だろうか。

 そう思った男は無意識に鍋をなでた。


 釉薬のかかった土鍋は触り心地つるつるしていて、どんな仕掛けか蓋の小さな蒸気穴からしゅーしゅーと白い湯気が立ち上った。


 しかも驚いてそれを見上げれば、しゅーしゅーと人の形になっていく。

 真っ白な顔で、大きくて、故郷の古めかしい服を纏っている。


 なんというか、“奉行”とか呼びたくなる感じ。


 上から睥睨して、なんだか偉そうには言った。


「わたしは鍋の精」


 男は呆気にとられて湯気の魔人(鍋の精?)を見上げる。


「お主の願いをみっつ叶えよう」


「……へえ。お前が俺の願いを叶えてくれるって?」


 どうせ、あまりの寒さと極限の疲れで幻を見ているに違いなかった。

 転んだ拍子に寝てしまったなら、なるほど男は死の間際だろう。


「うむ。わたしは鍋の精。お主の願いをみっつ叶えよう。叶えられる願いは、水炊き・チゲ鍋・きりたんぽ鍋」


「チゲ鍋!!!」


 迷わず即答した。

 走馬灯にしては妙だが、どうせ死ぬなら暖かい心地で死にたい。


 そして、チゲ鍋が一番体が温まりそうだった。


「チゲ鍋だな」


 魔人がうむうむ頷く。「今回はチゲ鍋・チゲ鍋・チゲ鍋ルートか」などと意味不明なことを独りごちる。


「では。お主の願いを叶えよう」


 鍋の精がそう言った瞬間、男の目の前の鍋が真っ赤なチゲ鍋で満たされた。


「おおおおおおお!」


 思わず歓喜の叫びを上げる。

 顔に当たる湯気がやたらリアルで、食欲を刺激する匂いが鼻と目に刺さる。


「すごいな、この幻は!! あああっちいい!」


 思わず触れたらあつあつだった。

 痛みに男は我に返る。


 この鍋は……幻などではない! 本物だ。


 いったいなんの奇跡だろうか。氷床で遭難していた男の前に、あつあつのチゲ鍋が現れたのだ。

 このあつあつのチゲ鍋を食べ、体を温めて体力を回復すれば。

 男は仲間たちを探して見つけ出し、助かることができるだろう。


「おお、鍋の精とやらよ、感謝します」


 魔人に手を合わせ、男はさっそくチゲ鍋に手を伸ばした。

 手を伸ばしたところで止まった。


 ……このあつあつのチゲ鍋を……手づかみ……?


「うむ。困っておるらしいお主には、ふたつめとして別の願いを願うことができる」


 取り急ぎ湯たんぽ代わりにチゲ鍋を抱え、男はなんか言い出した魔人を見上げた。


「おお、さらなるお慈悲を賜れると?」


「うむ、いや。箸・スプーン・フォークだ」


 なるほどなるほど、そういう仕組みね、と男は思う。


「箸!」


 またも悩む必要は1ミリもなかった。


「うむ。箸だな」


 ふたつめの願いが即座に叶い、目の前に一膳の箸が現れる。


「さあ、遠慮せずに。チゲ鍋を食べてくれ」


 自信満々に鍋を勧めてくる鍋の精。

 勧められるまでもなく、男は箸を掴んでチゲ鍋へ手をつけた。


 冷え切った口の中に出汁と辛みの利いたあつあつの具がいっぱいに放り込まれる。

 まさに生き返る心地。

 男の頬に涙が流れ、流れるそばからつららになった。


「うむうむ。やはり、こうでないとな」


 魔人がなにやら嬉しそうに男を見下ろしている。


「鍋に文句を言うような主人では、願いを叶える甲斐がないというものだ」


「うまい、こんなうまいチゲ鍋は初めて食べた。食べた、が」


 夢中で鍋を口へ運んでいた男だったが、その顔がやや陰る。

 抱え込んだチゲ鍋が、銀世界の冷気にさらされ瞬く間に冷めていくのだ。


 急いで食べなければ。

 体を温めることができない。


 焦って食べようとする男を見た魔人が急に「いかん、いかん」と声をあげる。

 魔人は男からチゲ鍋を取り上げた。


「なにする!? 俺は急いで食べたいんだが!?」


「いかん! いかん! 冷めた鍋など、鍋ではない!!」


 よく分からないが、鍋の精というだけあって鍋にこだわりがあるらしい。


「どうしようもないだろ!? とにかく、一刻も早く食べさせてくれ」


「お主のような鍋を愛する者に、冷えた鍋など食わせるわけにはいかん」


 寒風が額のにじみ出た汗に吹き付けて、男はむしろ食べる前より寒い。

 ぐだぐだ言っていないで、少しでも温かいチゲ鍋を食べたかった。


「じゃあ、どうするんだ!?」


 冷える体を抱えて男が叫んだ。

 鍋の精は自信に満ちた顔で大きくひとつ頷いた。


「大丈夫だ。特例ではあるが、みっつめの願いとしてチゲ鍋をあつあつのまま楽しめる状況までお主を連れていこう」


「はあ?」


 意味が分からなかった。

 問い返す前に鍋の精が「いちにのさんで飛ぶぞ」と言う。


「はい、いちにのさん」


 その移動はあたかも景色がしゅるしゅるっと畳まれて、新たな景色が広げられるかのようだった。


 驚く男の回りの空気が、一瞬で冷気から灼けて熱したものに取り変わる。


 目をまたたいた男の前には一面砂の世界が広がっていた。


「さあ、ここなら存分に熱いチゲ鍋を楽しめるだろう」


 暴力的な日差しに曝されて、どっと汗が噴き出す。涙のつららも蒸発した。

 息が詰まるほどの灼熱の、眩しくぎらついた世界。ここは、どこなのだろう。


「心ゆくまであつあつを楽しむことだ」


 鍋の精は仕事をやりきった顔で満足げに男をみやる。


「では、わたしはみっつの願いを叶えた。さらばだ。よい鍋を」


 跡形もなく消えた。


 砂の大地に男はチゲ鍋と残された。

 仲間と合流する希望が、ついえた。


「……コンロ出せばよかっただけでは?」

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「わたしは鍋の精。お主の願いをみっつ叶えよう。わたしが叶えられる願いは水炊き・チゲ鍋・きりたんぽ鍋」 たかぱし かげる @takapashied

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