触手家族

麻根重次

第1話

「今日で丁度一か月か……」


 俺は独り言つと、岩に刻み込んだ無数の直線に新たな一本を付け加えた。ごり、ごり、ごり、と岩同士が擦れ合う耳障りな音が、打ち寄せる波音に紛れてかき消えるように虚しく響く。そうして刻み終えた三十本目の線を眺めながら、しばし座り込む。


 ちょっとした離島を訪れる筈だった俺の孤独で優雅な旅行は、あの日嵐によって一変した。

 この島が漂流者に優しい場所だったことは不幸中の幸いだったかもしれない。穏やかな気候と豊富な果物。潤沢とはいえないまでも、生活には困らないだけの真水。海岸で最初に気が付いた時など、島のあまりの美しさに、俺はとうに嵐の海で溺れ死に天国へと辿り着いたのだとすら思ったものだ。


 とはいえ、不安は毎日募るばかり。


 砂浜に大きく書いたSOSの文字は、今のところ誰にも発見されていないらしい。本当に俺は帰れるのだろうか。それともずっとこの島で孤独に暮らし、やがて誰にも看取られずに死んでいかねばならないのか。

 毎晩日暮れと共にヤシの葉で設えた寝床に潜り込みながら、三十路の男には似合わないような大粒の涙が零れるのだった。



 二か月が経ち、俺は妻を娶ることにした。

 一人で過ごすことの寂しさと孤独が、どうやら俺に妙な力を与えたらしい。ある夜、焼いた魚を齧りながらふと気が付くと、俺好みの女が焚火の向こうに座っていたのだ。

 かつての日常じゃ会話することすら叶わなかったような、整った顔と完璧なプロポーションの女が、俺に向けて微笑みかけている。その事実に俺は食いかけの魚を放り出し、我を忘れて女にむしゃぶりついた。


 情事の後、女はまた妖艶に微笑みながら、あなたと結婚したいわ、と俺に言った。願ってもない話だ。この孤独を埋めてくれるのなら、それが犬でも構わないと思っていたところだ。俺は二つ返事で了承し、それから俺たちは夫婦になった。

 誰も祝ってくれなくても、俺たちにはこの島がある。波が、風が、太陽が、ヤシの木が、小川が、俺たちの婚礼の見届け人だった。

 


 三か月が過ぎ、妻は男の子を出産した。

 そんなバカな、とか、早すぎる、とかいった驚きの感情は、最早俺の中には残っていなかった。孤独を埋めるには家族は多い方がいい。大きな声で元気に泣く息子を抱き上げながら、俺は父親になった喜びを素直に噛み締めた。


 医療機関も何もないこんな島ではあったが、幸いなことに息子はすくすくと順調に成長した。這えば立て立てば歩めの親心、とはよく言ったものだ。息子は、俺が歩いてほしいと思えば歩き始め、喋ってほしいと願えば突然政治家のような演説を始めた。しかし流石にこれでは可愛くないので、もう少し舌足らずな方がいいかな、と調整してみると、上手いこと四歳児くらいの喋り方に落ち着いた。


 俺たちは毎日賑やかに暮らした。俺が毎日海で魚を捕り、妻は果物を集めてくる。家に帰れば息子が可愛い声で、ぱぱ、まま、おたえり、と出迎えてくれる。

 ああ、これが幸せな家族ってやつか。

 かつて都会で暮らしていた頃には手に入らなかった温かな家庭を持って、俺は初めてこの島で暮らすのも悪くない、と思い始めた。



 四か月の後、妻が両親と同居したいわ、と言い出した。どうやら義父が若年性アルツハイマーらしい。義母がひとりで介護をするのにも限界があるから、というのが妻の言い分だった。

 三日三晩の話し合いの末に、俺はこの提案を不承不承ながら飲むことにした。そうして現れた義父は、なにやら虚ろな目と陰気な顔つきの、決して好きになれないタイプの男だった。好きになれない、という意味では義母も負けず劣らずだ。こちらはしもぶくれの、いつも周りを睨み付けているような、不健康そうに痩せた女だ。


 どうしてこんな両親からあんなに美しい妻が生まれたのか、不思議でならない。いや、そもそも逆だったか。妻が生まれたから、この両親が現れたのだ。なんだか混乱してきた。


 義母が連れてきた、酷く太ってふてぶてしい三毛猫が、俺の夕飯の魚を横取りし、勝ち誇ったようににゃーん、と鳴いた。その声は島中に響き渡るかのように、夕暮れの浜風に乗って流れて行った。



 五か月も経った頃には、俺の幸せだった家庭はすっかり色あせてしまっていた。

 毎日どこへともなくふらふらと姿を消してしまう義父を、その度に漁を中断して探しにいかなければならない。どうしてあっちこっちにいっちまうんだ、と妻に不平を溢したら、妻は少し馬鹿にしたような顔で、昔のことなら覚えてるから懐かしい場所に行っちゃうのよ、常識でしょ、などとのたまうのだが、そもそも義父にとってこの島は本当に懐かしい場所なのだろうか。


 そうかと思えば、義母は義母でいつも不満ばかりを口にしている。やれ魚が小さいだの、やれ枕が固いだの、仕舞には通販で注文した化粧品がなかなか届かない、と不貞腐れて妻と口論に発展する始末だった。流石に俺も閉口し、船に乗った宅配サービスの男を連れて来てやったらようやくその場は収まった。


 息子はすっかり反抗期になったのか、一日中家に籠って動画サイトばかり見ている。一度こっそり覗き見たら、水着の女が艶めかしい肢体をくねらせている画面がちらりと見えた。覗き見がばれて、息子からは見るなよ、とろすぞ!と脅しをかけられた。どうやら殺すぞ、と言いたいらしいが、どういうわけか発音がおかしいままだ。学校に行けないのが問題なのだろうか。


 なんだか色々なことが急速に面倒になっていた。俺の幸せな家庭はどこにいってしまったのだろう。そう言えば妻との夜の営みもすっかりなくなってしまった。俺はもはや、家族にとってはただのASM(オートマティック魚捕りマシーン)でしかないのかもしれない。



 六か月ほど過ぎたある日、事件は起きた。義母の飼っていた猫が死んだのだ。

 猫はヘソを上に向けて大の字に手足を広げ、あろうことか俺の枕の上でひっくり返っており、そしてその腹には何やらタコの脚のようなうねる触手が生えていた。どうやら死因はこの触手らしい。そりゃあこんな妙なタコに取りつかれたら絶望して死ぬのもわかるというものだ。しかし問題はその後で、猫の手の先に血文字で「つま」と書かれていたのを義母が発見したものだから、いよいよ家中がパニックになった。


 あんたがやったんでしょ!と妻に食って掛かる義母。


 その手を払いのけ、猫が字を書くわけないでしょ、と冷たくあしらう妻。


 みんなとろしてやる!たとぅごしろ!と叫び出す息子。


 虚空を見上げながら小便を垂れ流す義父。


 玄関から覗き込みながら、一生懸命妻に向かってウインクをする宅配サービスの男。


 俺は呆然とそんな家族を眺めながら、一心不乱に神に祈っていた。もし神がいるなら、この乱痴気騒ぎを鎮めてくれ。もうたくさんだ。俺は一人になりたいんだ。

 やがて騒ぎ疲れた家族は一人、また一人と眠りに落ちていった。俺もぐったりと床に入る。何故か妻の傍で妻と手を繋ぎながら寝ている宅配サービスの男を眺めながら、俺は家族というものの存在を改めて噛み締めていた。


 噛み締めるほどに痛みが走る、まるでアルミホイルみたいなものだな、家族ってのは。



 その次の夜、義父が死んだ。


 いつものように徘徊に出て、小川にはまり込んだらしい。夕暮れ時になってようやく見つけた時には、既に足の方が溶けている状態だった。

 ただ不思議なのは、溺死ではなさそうだということである。もしそうなら、これは病死なのか。それとも事故死なのか。まさか他殺ということもあるまい。俺は下半身が溶けて流れ出ている義父の死体を見ながらぼんやりと考えた。その胸の部分からはやっぱりタコの脚によく似た触手が生え出ている。そいつはまるで自分が義父を殺したのだと主張するかのようにうねうねと動いてみせた。

 義父にはこんな触手が生えていただろうか。これじゃあまるであの忌々しい猫のときとおんなじだ。


 義母は義父の姿を見て放心したように座り込み、妻は冷酷な笑みを浮かべていた。宅配便の男は妻の手をにやにやと撫でまわし、息子はグロテスクな動画の画面を見せながら、とれ!とれとおんなじ!と叫んだ。


 翌朝は義母が死んだ。いや、義母なのかもわからないが、とにかく妻と息子と宅配便の男は生きていたから、義母なのだろう。何しろその頭はすっかり触手に置き換わっており、綺麗に切り裂かれた腹部からはみ出た小腸が、触手と同期するかのようにしてうねうねとダンスを踊っていたのだ。


 流石の宅配便の男もこれには驚いたらしく、飛び上がって妻に抱き着いたら、今度は妻の頭が取れてしまった。まるでねじ込み式になっていたようにぐるぐると三回転した頭部は、ゆっくりと地面に落ち、妖艶な笑みを浮かべる口の中から触手が生えてくる。

 絶叫する宅配便の男は気絶するかのようにその場に倒れ込み、頭を岩に打ち付けて昏倒した。勿論その傷からは触手が生え始める。振り返って息子を見れば、息子は既に下半身が丸ごと触手に置き換わっていた。


 俺はそんな阿鼻叫喚の地獄絵図を見ながら、ゆっくりと布団に入った。なるほど、これが家族か。俺はなんだか妙に満ち足りた気分で眠りに落ちて行った。





「先生、215号室の患者さん、ここ数日かなり塞ぎ込んでいるようですけど。大丈夫でしょうか」

「うん、目が覚めると譫言のようにタコが、タコが、って。僕の顔見て言うんだよね。失礼しちゃうよなあ。まあ自傷の危険はなさそうだから、しばらくは様子見でいいよ」

「わかりました」

 看護師は少し笑うと、医者の禿頭にちらりと目線をやり、足早に持ち場へと戻っていった。


 引継ぎで聞いたところ、どうやら海釣りの最中に船から落ちて溺れた患者らしい。意識を取り戻してからというもの、何故かタコに執心のようだった。


 215号室の前を通りかかる。気になってふと覗き込むと、そこには両手両足がタコの脚に置き換わった男が、こちらを見ながらうねうねと踊っていた。

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