春ない季節(No.17)

ユザ

(1)

 朝の芸能ニュースに目が留まった。変哲もない芸能人の不倫騒動。その報道によって世間には何のメリットももたらされない。強いていえば、標的にされた芸能人のことが嫌いな視聴者にとっては、恰好の狩場を提供されたようなものなのかもしれない。小さな画面を血眼で覗き込み、入念に考えた罵詈雑言をネット掲示板に貼り付け、横暴な正義を振りかざしてターゲットの討伐をありありと目論む。彼らはおそらく彩りのないモノクロの世界を生きているに違いない、そう思っていた。しかし今回の不倫報道については、道草みちくさもしばらく目が離せなかった。食事中にもかかわらずスマホに手が伸び、検索バーに彼女の名前を打ち込んだ。スペースを空けると、そこにはすでにイメージを貶めるような言葉ばかりが並んでいた。

「ちょっとあなた。葉月はづきの目の前なんだから、食事中にスマホなんて触らないでよ」と妻の智代ともよは言った。毎月欠かさず丁寧な手入れを施している凛とした眉毛が少しだけ立ち上がり、眉間にはしわが寄った。唇は前に突き出している。そのままひとしきり夫を睨みつけたあと、彼女は隣の脚の高いベビーチェアに座る娘に目を移し、その小さな身体には見合わない大きくて不恰好な頭を優しく撫でた。

 娘の葉月は他の家庭の子に比べて夜泣きが少なく、落ち着きがあった。言葉も流暢に声にのせる。まだ二歳だ。想像以上に手のかからない子だった。しかし逆を言えば、幼児らしい活力を彼女からあまり感じられなかった。それだけに道草と智代はしばしば彼女の将来について心配になってしまうこともあったが、今のところは問題なく育ってくれている。大きな怪我や病気もない。

 彼女は白米よりもパンを好み、肉や魚よりも野菜を好んだ。健康志向なのは母親譲りなのかもしれない。学生の頃にはファッション誌のモデルも務めた経歴を持つ智代は、出産以来とくに食事に気を遣っていた。出産後、大きく膨れ上がっていた腹部はあれよあれよと萎んでいき、三ヶ月も経つと贅肉は一切見当たらなくなった。荒れていた肌や髪にも潤いが戻った。その一方で、道草はその間に謎に四キロも太っていた。それを幸せ太りだと主張すれば、智代はいつもため息を漏らして目を細めた。その幸せのために頑張ったのは主に私なんですけど、そう言われてしまえばぐうの音も出なかった。

 道草はスマホをテーブルの隅に伏せて置き、食事を再開した。テレビの左上に目をやり、時刻を確認する。八時までには家を出ないと仕事に間に合わない。まだ少しは余裕があった。視線を画面中央下に移し、そこに映っている不倫した芸能人の名前を何度も往復する。名前の最後には、以前まで所属していた女性アイドルグループの名前が括弧で括られていた。

 天童桜てんどうさくら──。

 道草はその昔、その女の子のことを全身全霊で推していた。もうずいぶんと前のことになる。とっくにその熱は冷めていたが、彼は何かに取り憑かれたように自然とそのニュースを目で追っていた。しかしその不倫報道はわずか数分のうちに流され、何事もなかったかのように天気予報へと切り替わった。とっさにスマホに手が伸びかけたが、今度こそ妻に怒鳴られてしまうような気がして、ひとまずはさっさと朝食を済ませることにした。

 食器を片付け、トイレを済まし、それから入念に歯を磨いた。その間も頭の中は彼女のことで一杯だった。「天童桜」と「不倫」という言葉がそのまますぐには結びつかなくて、その方程式を好き勝手にいじってみたりした。不倫が正当化されるためのそれっぽい背景や経緯を付け足し、華やかに映る彼女の芸能人生からは全く想像もできないような苦労や困難を差し引き、それでようやくイコールに辿りついたその方程式も、やはりどこかしっくりこなかった。

 あの子が不倫なんてするはずがない、道草はそう自分に言い聞かせながら、口に含んでいた食べかす混じりの白い泡を洗面器の中央に吐き出した。うがいをしながら不思議に思う。今となってはもはやアイドルでもない彼女のことを、すでにファンでもなくなってしまったおれはどうして擁護しようとしているのだろう。それはどこか地元の友達を全く関係のない人から小馬鹿にされているような感覚に似ていた。あいつはそんな奴じゃない。何も知らないくせにそんなこと言うな。

 考えれば考えるほど、怒りに似た感情が腹の底でぐつぐつと煮え返る。それが身勝手な思い込みだということは、この歳にもなれば十分に自覚していた。道草は天童桜に個人的な理想像を重ね合わせ、それが彼女のすべてだと勝手に期待していた。そこに想定外は存在しないし、エラーも起きない。起きたとしてもそれはあくまで想定内に属しているエラーであり、根底そのものを覆すような事態には至らない。現代を生きる日本人のほとんどが戦争や飢餓の心配をしていないのと理屈は変わらない。目に映らないものはハナから信じないし、たとえその事実が誰かの証言によって覆されたとしても認めようとしない。

 道草は不意にことを思い出した。彼は洗面所をあとにし、衝動に狩られるがまま二階の自室へ移動してクローゼットを開けた。服がずらりと並んでいる。夏服は左側、中間服が真ん中、冬服が右側。それほど数が多いわけではないが、一週間のうちに同じ服を職場へ着て行くことはなかった。また、一般的なサラリーマンと比べてスーツを着る回数は少ないが、大事な商談や会議に参加する日には着て行けるようにとダンヒルのスーツが二着かかっている。一着は入社直後に社長が入社祝いでわざわざ作ってくれたもので、もう一着は昨年の誕生日に突発的に買ったものだ。未だそれが自分の身の丈に合っているとは決して思わないが、いつか似合うように頑張ればいいじゃない、と妻は優しい言葉をかけてくれた。

 彼は着替えるよりも先に、クローゼットの奥に仕舞っていた大きな紙袋に手を伸ばした。その中には今となっては使わなくなったガラクタや思い出の品の数々が静かに眠っていた。小学生の頃に無理を言って親に買ってもらい、いつの日からか全く電源が入らなくなってしまったウォークマン。高校の誕生日に同級生からもらったものの、結局は一度も使ったことがないブルガリの香水。高校の修学旅行で韓国を訪れた時、その場のノリと勢いで購入した安物の帽子とサングラス。いまだに綺麗な状態は保っているが、社会人になったことをきっかけに新しいものを買ったため、一切使わなくなってしまったポーターの黒い折財布。当時はまだ恋人だった智代に就職祝いで買ってもらったAirPods(ちなみにこれに関してはいつどこで落としてしまったのか片方のイヤホンしかない)。紙袋の中にはその他にも色々と思い出が詰まっている。

 道草はその中からポーターの折財布を手に取った。思っていたよりもそれは分厚く、重みがあり、空でないことはすぐにわかった。微かな期待を胸に紙幣入れのポケットを開き、中身を確認する。しかし残念ながら諭吉や英世、あるいは一葉や沖縄の守礼門は入っていなかった。その代わり、印字が擦り切れたレシートが何枚か入っていた。他には大学時代に通っていたスーパーのポイントカードや、歯医者の診察券、美容室の名刺などが縦向きに重なって差し込まれていた。カードをめくるごとに思わず笑みがこぼれ、身体の中にじんわりと温かい何かが広がっていく。やがてを見つけてふっと安堵の息が漏れた。やっぱりあった。記憶は間違っていなかった。彼は映画の試写会のチケットを財布から抜き、他は元通りにして紙袋の中へ財布を戻した。

 チケットをベッドの上に置き、それからクローゼットの中から白のバンドカラーシャツとベージュのチノパンを手に取ってそれに着替えた。試写会のチケットをもう一度手に取り、それをいま使っているイルビゾンテの長財布の紙幣ポケットに仕舞う。何故こんなことを思い立ったのかについては自分でもよくわからなかったのだが、後ほど、誰にも邪魔されない場所でそのチケットをゆっくり眺めようと思った。天童桜が初めて主演を務めたその映画を彼はいまだ鮮明に覚えている。目を閉じるとまぶたの裏に当時の記憶が当時のまま映し出されるほどに。

 彼は使い慣れたセイコーの腕時計を左手首に巻き、ブリーフケースを手に提げて階段を軽快に駆け下りた。一度リビングに戻って時刻を確認する。あと十分ほどで家を出発しなければならない。テレビ画面に不倫報道は流れていなかった。

「今日は早く帰ってこれそうなの?」、わずか二歳と半年で器用に朝食を食べている葉月の隣で、智代は若干の期待を孕んだ純真な眼差しを彼に向けていた。

 近いうちに家族三人で外食したいな、と妻が言い出したのは先週の月曜日のことだった。ずっと家の中に引きこもっていると頭がおかしくなってしまいそうなの、と彼女は曇った面持ちで言った。先週は納期が迫っている案件があり、結局は残業続きで一度もその約束を果たせなかった道草は、「来週こそは必ず美味しいところに連れて行くから」と不貞腐れる彼女をなんとか鎮めていたことをふと思い出した。しかし気付けばそのも終わりに近づいていた。今だって、智代に言われなければ約束のことなんて思い出すことすらできなかった。

「ああ、もちろん覚えていたよ」と道草はとっさにおかしな回答をしてしまう。その返答がおかしいと気付いたのは声にした後のことだった。反射的に彼の防衛本能が働いたのか、その約束をないがしろにしていなかったことを必死にアピールしていた。

 しかし、たいていの場合でそういった不自然極まりないアピールはその真意を相手に勘づかれてしまう。智代は眉間にしわを寄せていた。またかよこいつ、と何かを察したような顔つきだった。

「忙しそうならまた今度でもいいわよ」、智代の声はさっきよりも少しだけ冷たかった。彼女はこちらから目線を外し、隣で黙々と食事を続ける娘の頭の上に手を置いた。「とりあえず何時に帰ってくるかだけ後から連絡しておいて。夕飯の準備もしないといけないから」

「大丈夫。今日は早く帰ってこれるから」

「……信じていいの?」、智代は道草を振り向かずに言った。

「今日はとくに仕事も溜まってないし、普通に定時で帰ってこれると思う。もしトモちゃんが行きたいところあるなら、午前中までに店のURLを送っといてくれよ。そしたら、あとでおれが予約しておくから。もし、行きたいところがなければこっちで勝手に予約しておくよ」

 彼女は小さく肯いた。その表情は見えなかったが、道草はその後ろ姿を見てなぜだか少しだけ嬉しくなった。

 いってきますと言うと、彼女はもう一度小さく肯き、「お仕事、頑張ってきてね」とリビングを後にする夫の背中を送り出した。


 穏やかな日差しが住宅街を照らしていた。目の前の道路をかご付きの自転車が通る。荷台にはチャイルドシートが括り付けられていた。水色の制服と黄色い帽子を被った少女が指を咥えながら母親の背中をじっと見つめている。その母親はというと額に汗を浮かべながら、立ち漕ぎで懸命にペダルを踏んでいた。グレーのスーツを身に纏い、かごにはリュックを積んでいる。道草は歯を食いしばるその彼女の表情にふと胸を打たれた。

 不意にその母親と目が合い、彼は頭を下げた。向こうもすれ違いざまにこちらに会釈をし、そのまま通り過ぎていく。いつもご苦労様です、と彼はその背中を心の中で労いながら見送った。いつかは智代もああやってペダルを漕いでいるのかもしれないなと想像しながら、無意識のうちにその役割を彼女に押し付けていたことに気付き、彼は誰に責められたわけでもないのにばつが悪くなった。彼女が職場復帰を果たしたあとはどうなってしまうのだろうと少しだけ先の未来を想像し、少しだけ憂鬱になって考えるのをやめた。いまの生活を維持していくだけでも手一杯なのだ。いま抱える必要のない問題を前もって抱えておく必要はない。そうなったらそうなった時に考えればいいじゃないか。それに彼の頭は複雑な思考を長期間取り置きしておけるほど便利な機能を備えていなかった。このままでいいのだろうか、そんな漠然とした不安は次の瞬間には消えていた。

 突然、後ろポケットでスマホが小刻みに震え始めた。彼は道の途中で立ち止まり、届いたメッセージを確認した。画面に目を落とすとそこには懐かしい名前が表示されていた。

『桜ちゃん、とうとう不倫しちまったな。笑』

 何年振りのやりとりだろうか。彼は大学のフットサルサークルの先輩で、天童桜が初主演を果たした例の映画の試写会のチケットをくれたオタ活仲間だった。

 連続でメッセージが届く。『これも何かの縁だ。今日の仕事終わりにでも飲みに行こうぜ。久々に話したいことがたくさん溜まってるんだよ』

 道草はしばらくそれについて考え抜いた末に、メッセージを返した。

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