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大事な話があります──。
定期的に更新しているブログにて、天童桜は唐突にそう切り出した。
初主演映画となった『きみ告』は予想以上の大ヒットを果たし、一躍有名人になった彼女はその後も引き続きドラマや映画に出演し、数々の印象に残るシーンを国民の前で披露した。知名度は急上昇し、それに伴って予想通り『シーズンバイシーズン』の他のメンバーたちも彼女のバーターとして数多くのバラエティ番組やドラマに出演するようになった。そして彼女たちはそれぞれに個性を発揮し、その偶発的に得たチャンスを見事に掴み取った。九月の改編期を機に冠番組も始まり、多くのCMに起用された。メジャーデビューを果たしたばかりの彼女たちは電波ジャックでもするかのように、瞬く間にテレビ業界を席巻したのだ。元々それだけの力を秘めていたのだろう。秋に発表したセカンドシグル『恋に焦がれて』は飛ぶように売れ、発売から三日でミリオンを達成した。サードシングルの『sweet kiss me』は発売初日にミリオンを達成し、ミュージックビデオはあっという間に一〇〇〇万回再生を記録した。その翌年に発表した四枚目のシングル『あなたがいなくても』は彼女たちにとっては初の失恋ソングで、その力強くも繊細な歌詞が女性層に刺さり、さらなるファン拡大へと繋がった。
いまや国民的アイドルへと上り詰めた彼女たちにとって、不可能なことは何もないように思えた。彼女たちが口にしたことの大半がその翌月には叶い、彼女たちの一挙手一投足に世間は転がされ、振り回された。そしてこの夏、日本武道館という彼女たちの夢の舞台で、メジャーデビュー一周年記念ライブが開催することが決定した。
そんな矢先の出来事だった。
大事な話があります。
わたくし天童桜は、今年七月七日に開催されます武道館ライブの活動をもってシーズンバイシーズンから卒業いたします。
中学三年生からアイドルを始め、最初は大きな戸惑いがありながらも、いろんな人に支えられて、いろんな感情を知って、いろんな経験を経て、生意気で世間知らずの子供だった私は少しずつ大人になっていったような気がします。
もちろんまだまだ成長できると思っているし、もっとこれから成長しなければいけないとも思ってます。それはある種、焦りなのかもしれません。
昨年の夏、私は初めて映画という未だ経験したことのない環境に身を投じました。それは自分が想像していたよりもはるかに難しいことでした。毎日が失敗ばかりで、でも周りは知っている人も少なかったから誰にも頼ることができなくて(今になって考えてみると私が単純に人見知りしていただけだったんだけど……)、とにかくかなり大変だったような思い出があります。
それでも、私は確実にその世界に魅せられてしまいました。
上映試写会が行われた日、私は出来上がった作品を観て思わず号泣してしまったのです。こんな美しい世界の中に自分が立っている。その事実があまりに感動的で、信じられなくて、これまでにないほど心の高揚を感じました。
もっとこの世界にいたい──。
正直に言うと、そう強く思ってしまったのです。
今回の私の決断は、もしかすると多くの人を裏切ってしまうことになるのかもしれません。一緒にこれまで頑張ってきたメンバーのみんな、いつも近くで応援してくださったファンの皆様、支えてくださったスタッフの方々……。
今、このブログを書いている最中も、私の頭の中にはたくさんの人の顔が次々に浮かび上がってきます。
本当にこの決断は間違っていないのか。近い将来この決断を後悔しないだろうか。今すぐにこの文章を全部デリートすれば何事もなかったことになるのではないか。そんなことばかり考えながらこのブログを書いています。
私はこのグループを大好きです。ここは手放してしまうにはもったいないくらいに愛おしくて、楽しくて、安らいで、たくさん泣いて、たくさん笑って、たくさん叫んだ、私にとってかけがえのない場所です。
そんな場所からわざわざ離れる必要はないじゃないか。アイドルをやりながら演技の勉強をすればいいじゃないか。そんな疑問を抱かれる方もいるでしょう。おそらくは、これを読んでいるほとんどの方がそのような感想を抱かれるのではないかと思います。
しかし、私はこれからも何か問題が生じれば安易に戻れるような安全地帯を確保しておくことに強い違和感がありました。そしてそれは、メンバーのみんなやファンの方々に対しても不誠実なことのようにも感じたのです。
今まで本気でアイドルをやってきたからこそ、心の底からこのグループを愛しているからこそ、生半可な気持ちでアイドルをするのはやめようと思いました。見ている景色が違う以上、それのせいでみんなの足を引っ張りたくない。
この発表をするにあたり、幾度となくメンバーのみんなと話し合いを重ね、最終的に私の決断を尊重してくれた彼女たちには本当に感謝しています。それと同時に本当にごめんなさい。これからはシーズンバイシーズンのいちファンとして、みんなのことを全力で応援していきたいと思います。
そして願わくば、この私の挑戦がいずれは多くの人に勇気を与えるきっかけになればいいのに、と密かに期待しています。挑戦することはかっこいいことなんだ、ってたくさんの人に思ってもらえるように、私自身もこれからより一層気を引き締めて精進していきたいと思っています。
だから待っててください。この決断を残念に思ってしまう方も、そして非難される方も、またいつか必ず応援したくなるような天童桜になって皆さんの前に戻ってきます。
最後になりますが、こんな身勝手な私のためにこれまでたくさんの愛情を注いでくださって本当にありがとうございました。結成からこの三年間、皆さんの理想のアイドルになれたかどうかはわからないけど、皆さんがいつも全力で応援してくれたおかげで、アイドルを幸せな思い出として心に刻むことができました。
初めての武道館。目標だった武道館。そんな最高の舞台で、最後に皆さんの顔をこの目に焼き付けられる私は本当に幸せ者だと思います。
今後は新しい道を歩んでいくことになりますが、皆さんにはまたこれまでとは違う形で恩返しができればと思ってますので、楽しみに待っていてくださいね。
以上、天童桜でした。
また、今回の卒業に伴うシングル曲の発表はありません。
そのブログをバイトの休憩中に読んだ道草は、しばらく開いた口が塞がらないままただ呆然としていた。やがて休憩が終わったことを告げにやってきた店長がそんな彼の表情を見て、てっきり恋人にフラれたものだと勘違いしてしまうほど彼の顔は生気を失い、やつれていたらしい。いくら声をかけられても反応のなかった道草は、肩を激しく揺すられてようやく意識を取り戻した。
「大丈夫か?」
顎髭を蓄えた丸顔の店長は心配そうな目で道草の顔を覗き込んでいた。彼は話がわかる人で、周りのスタッフからも好かれていた。急なシフト変更にだって快く対応してくれる。そんな彼のことをみんなは親しみを込めて「やっさん」と呼んでいた。
「ああ、やっさん。すみません、すぐに戻りますから」と道草は言い、足早に休憩室を出て行った。そしていつもと変わらない通常業務が再開した。
呼び出しベルが鳴り、注文を聞き、ハンディーに打ち込む。
呼び出しベルが鳴り、注文を聞き、ハンディーに打ち込む。
呼び出しベルが鳴り、注文を聞き、ハンディーに打ち込む。その繰り返し。
たまにレジ対応をお願いされ、会計を済ませて店を出て行く客に深々と頭を下げる。空いたテーブルの食器を片付け、ドリンクバーのグラスを補充する。また呼び出しベルが鳴り、注文を聞き、ハンディーに打ち込む。出来上がった料理をテーブルまで運び、注文した料理が出揃っているかの確認を行う。伝票をテーブルに残し、次の呼び出しベルが鳴るまで待機する。
平日昼のファミレスはそれほど混んでいなかった。東京といえど、どこかしこも人で溢れかえっているわけではないらしい。比較的閑散としていたこの室内だけを切り取ってみると、いったい誰がこの場所を東京だと思うだろう。そんなことを考えていると、いつの間にか退勤の時刻がすぐそこまで迫っていた。
まだ現実味を帯びていなかった。まったく想像がつかなかった。天童桜が卒業してしまうことも、武道館ライブで四人体制のシーズンバイシーズンが見納めになってしまうことも、推しのいないシーズンバイシーズンの未来も。
そこには不思議と裏切られたという感情はなかった。その代わりに、大きな何かがストンと身体から抜け落ちてしまったような感覚があり、空っぽになってしまった後の身体の中で彼は必死にその何かを探し回っていた。その様子をもう一人の彼が見下ろし、もう手遅れだよと声をかける。でもその声はあえなく無視された。
そんなはずはない。ありえない。彼はそう小声で唱えながら、ついさっき落としたばかりの何かを探し回っていた。もうすでに見つかるはずないとわかっているのに。
店長は相変わらずそんな道草のことを気にかけ、休憩室のテーブルに甘いお菓子と缶コーヒーを用意してくれていたようだが、彼は退勤時刻を迎えるとそれに気付かないままそそくさと家に帰ってしまった。帰り道に店長から連絡を受け、お菓子と缶コーヒーのことを知った。消費期限今日までなのに、と店長は冗談ぽい声で嘆いていた。
まだ外が明るいうちに家に着いた道草は、ありもので簡単な肉野菜炒めを作った。昨夜炊いた冷凍ご飯をレンジで温め、電気ポットでお湯を沸かし、インスタントの味噌汁をお椀に作った。
食事中にテレビを点けると、夕方のニュースが天童桜の電撃卒業発表を大々的に取り上げていた。道草はテレビを消し、スマホの音楽アプリでシーズンバイシーズンの曲をランダムに流した。部屋の中をゆっくりと見回し、一周し終えると今度はさらに速度を落としてもう一度見回した。壁中がシーズンバイシーズンの(主に天童桜の)グッズで埋め尽くされている。ショッピングモールでもらったメンバー全員の直筆サインが入ったオリジナルTシャツやピンク色の名前入りタオル、生誕祭イベントの時に販売されていた限定タペストリー、巨大なポスター、カレンダー、ライブに行った際には必ず取ってもらった大量のツーショットチェキ、その他諸々──。
不思議と涙が溢れ出た。空っぽだと思っていた身体の中には、まだ込み上げるものが残っていた。頭の中にはこれまでの遍歴を辿るように天童桜の顔がいくつも並んだ。まだ少女らしいあどけなさを残していた彼女の笑顔は、道草がライブ会場に足を運ぶたびに大人びていった。ダンスや歌もみるみるうちに上達していった。演技だって目を瞠るものがあった。彼女の映っているシーンは異様とも言えるほどに観ている人を惹きつけた。それは嘘でも贔屓目でもなく、世間がそう認めていた。事実、彼女は今年の春に行われた日本アカデミー賞授賞式で新人俳優賞に選ばれた。きっと女優としても上手くやっていける。道草はそう強く確信していた。でも彼が追いかけていたのは、女優・天童桜ではない。舞台上で飛び跳ね、駆け回り、大声で叫んでいたアイドル・天童桜だった。その小柄な身体からは想像ができないほどパワフルな歌声が好きで、その端正な容姿を持ち合わせていながら泥臭く懸命に汗をかく、上品とは程遠い彼女が好きだった。かつては彼の胸を強く波打った数々の思い出が、いまになって胸を強く締め付ける。あの光景を見られるのは、きっとあと一度きり。そんなの聞いてないよ。道草は誰に言うでもなくそんな独り言を呟いた。息が詰まり、嗚咽交じりの声が漏れた。涙は一向に止まらなかった。
部屋の隅々までシーズンバイシーズンの曲が響き渡る。スマホからは四枚目のシングル曲『あなたがいなくても』が流れていた。それは奇しくも天童桜にとって卒業シングルになってしまった。もしかすると、その曲が発表された今年の一月にはすでに天童桜の卒業は決まっていたのかもしれない。そう思って聞き返してみると、それはあまりに不自然なほど状況と歌詞がリンクした。おそらくそれは卒業する彼女の気持ちを歌っていたのだろう。そこには過去を切り捨ててでも前へ進もうとする彼女の強い覚悟が表れているような気がした。
四人の歌声が道草の汚い噎び泣きを漏れなく包み隠す。
あなたがいなくたって私はどこまでも歩いていける。
もう振り返らない。
たとえ後ろに輝く景色が広がっていても。
ありがとう。そしてさよなら。
もう二度と振り返らない。
たとえそれが狂おしいほど愛おしくても。
大丈夫。みてよほら。
世界はこんなにも私のことを歓迎しているんだから。
スマホの着信音が鳴って道草は目を覚ました。どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。涙は止まっていたが、大きく欠伸をするとまたすぐに瞳は潤んだ。窓の外は暗闇に包まれていた。時計の針は夜の九時を回っている。
「もしもし」、道草が応答すると耳元で酔っ払った女性の声が聞こえた。すぐにそれが母の声だとわかった。
「もしもし〜。道草あんたすぐ電話出なさいよ、まったくもう〜。こっちは忙しい間を縫って電話してやってるんだからあ」、電話口に彼女は上機嫌にそう言った。こちらにもアルコール臭が伝わってくるほど、その呂律は回っていなかった。
「別に電話してほしいって頼んだ覚えはないんだけど」
「なによお、相変わらずつれないわねえ。そんなんだからモテないのよ〜」
道草は向こうにも聞こえるようにわざと大きくため息をついた。「で、用件はなに?」
「もお、あなたの母親は用件がないと電話もしちゃいけないの? どうせ大学生なんて暇を持て余してるんでしょうに」
「あいにくこっちは勉強で忙しいんだ。男にヘラついて酒だけ注いでればお金を稼げるような大人とは違うんだよ」
しばらく沈黙が流れた。重たくて鈍い沈黙だった。道草はさすがに今のは言いすぎだったと反省した。電話口でカランと氷が軽やかに転がる音がする。仕事中なのか、それとも家の中で独り寂しく飲んでいるのか。どちらにせよ、母が好きでもないお酒に呑まれていることに違いはなかった。彼女は酔っ払うとやけに感傷的になる傾向にあった。父が亡くなったことをきっかけに、それは以前よりも目立つようになった。道草が大学生になる少し前のことだ。専業主婦だった母は息子の学費を払うためにスナックで働くようになった。
電話口でズズッと鼻を啜ったような音がした。そのあとに軽やかなハハッという笑い声が聞こえる。道草はその直前に聞こえた何かを地面に引き摺ったような音がやけに気にかかった。だが、それから間もなく母は彼に尋ねた。
「調子はどう? 今度こそ進級はできそうなの?」
「……まあ、今度こそ大丈夫だよ」と道草は言った。
「そっか。あんたは小さい頃からやればできる子だったからね。余計な心配だったかもしれないね」、母は穏やかな声でそう言った。
去年行われた期末試験を息子が映画の試写会ですっぽかしていたことなんて彼女は知らない。道草もそれを正直に言えるはずがなかった。毎日寝る間も惜しんで好きでもない(むしろ苦手な)酒を飲み、彼の学費を一円でも滞納しないように懸命に働いているのだ。その上、父の生前から銀行に預けていた定期預金を解約し、毎月の仕送りだってもらっている。そのおかげで奨学金だって借りずに済んでいた。たとえ何があっても母には頭が上がらなかった。それでも彼が彼女に対して素直になれなかったのは、自分のせいで苦手な酒を飲んでまで彼女に働かせてしまっているという現実を受け入れたくなかったからなのかもしれない。あるいは、応援しているアイドルのためとはいえ、後先考えず母に負担をかけてしまうような選択肢を平気で選べてしまう自分への苛立ちからくるものだったのかもしれない。そしてそんな明らかに親不孝な息子のことを、何があっても怒らない母に道草は無性に腹が立った。
「もういい加減そういうとこで働くのはやめろよっ」
つい大声が出てしまった。
「どうしたのよ急に」と母は言った。道草の言葉の真剣さがいまいち伝わりきれていないのか、彼女はいまだ悠長な口調を引き摺っていた。
「別に急なんかじゃないよ」と道草は吐き捨てるように言った。自然と舌打ちをしてしまう。いつから俺はこんなにも苛立っていたのだろうか、それは自分でもわかっていなかった。「これは本気で言ってるんだ。俺の学費を稼ぐためだからって母さんが嫌なことをする必要はない。奨学金だって借りようと思えば借りられるし、俺だってこっちでバイトしてるんだ。母さんが頑張らなくたって俺は自分の力で生きていける」
少しの沈黙が流れた後に母は言った。「そうは言ったってあなたはまだ学生でしょう。背負う必要のない苦労を自ら背負う必要はないのよ」
「だからって母さんが背負う必要はないじゃないか」
「背負うわよ。だってあなたの親だもの。それくらい背負わせてよ」
「……うざいんだよ、そういうの」
えっ、と母の戸惑うような声がやけにはっきりと鼓膜に張り付いた。それでも構わず道草は言い放った。
「はっきり言って迷惑なんだよ、そういうの。親だから、子供のためだから、ってそれっぽい理由つけて自分を犠牲にすればいいと思ってる。そんなのただ遠回しに『お前のせいで苦労してる』って言われてるみたいなもんだよ。どうして俺が感じる必要のない罪悪感を抱かなきゃいけないんだよ」、道草はまたしても胸の中で煮えたぎるような熱いものを感じていた。すぐそこを掘れば枯渇したはずの水分が再び湧き上がってくることは目に見えている。彼はどこからかスコップを持ち出し、それだけは掘り当てないようにと穴を掘った。そしてその中から掘り当てた大きくて尖った石を母に向かって投げつけるように言葉を続けた。苛立ちはそれを加速させた。知らぬ間に語気が強くなっていく。
「俺が母さんに何かしたか? ただ父さんが勝手にいなくなっただけだろう? 俺だって被害者なんだよ。母さんばっかり被害者面すんなよ。本当は心の中で思ってるんだろう? 『どうして私がこんなことしないといけないの?』って、『こんなはずじゃなかったのに』って。じゃあそんなのやらなくていいよ。勝手にやるなよそんなこと。いつ俺が頼んだ? いつ俺が『俺のために犠牲になってください』って頭を下げた? ふざけんなよ。俺のことを勝手に何かをあきらめる理由にするな。勝手に母さんの重荷にするな。他にやりたいことがあるなら勝手にやってくれ。俺のことはもうほっといてくれ」
母はしばらく何も言わなかった。その張り詰めた沈黙が煩わしかった。でもそれ以上は言葉が出てこなかった。泣きじゃくる道草の声だけが部屋に響いた。
どうして俺はこんなに涙もろくなってしまったのだろう。その答えはわかりそうでわからなかった。何が悲しくて、何が寂しくて、何が癪に障って、何が嫌だったのだろう。何を答えてもそれが不正解であることに疑いはなかった。そこにこの状況を一網打尽にできるような解決策はなくて、間に立ってこの空気を和らげてくれるような人もいなかった。だってもう、父はいないのだから。
「好きでやってるのよ」、母の声はやけに落ち着いていた。「あなたが幸せに生きてくれさえすれば、私はそれだけで十分。最後まであなたを守ってあげられなかったお父さんの分まで、私が守ってあげたいの」
道草は何も言わなかった。むしろ悔しくて言葉が出てこなかった。また今日もはぐらかされてしまったのだと心底がっかりした。ここまで最低な息子のことを許してしまう母のことを彼は心のどこかで軽蔑していた。そんなことをする資格なんてないことはわかっている。しかし、親になるとは果たしてそういうことなのか。それとも、大人になればみんなこうなってしまうのか。それならば大人になんてものにはなりたくない。他人から窮屈を強いられて生きなければならないなら、天童桜のように自由にわがままに生きていきたいと思った。たとえそれで誰かを裏切ってしまうことになったとしても、本心を押し殺してそれをなかったものにするよりは幾らかまともな生き方に思えた。
彼は結局無言のまま通話を切った。
それ以降、スマホの着信音が鳴ることはなかった。
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