(5)

 自宅に着いた頃には夜の十時を回っていた。智代は葉月の寝かしつけを九時過ぎには終え、リビングでホットミルクを飲みながら録画したドラマを観ていた。そして帰ってきた道草のことを見向きもせず、「お土産は?」と手を差し出した。

 彼は水風船のようにパンパンに膨らんだビニール袋をテーブルの上に置いた。こんなこともあろうかと、帰り道に立ち寄ったコンビニで大量のスナック菓子とスイーツを買い込んでいたのだ。もちろんそれには今朝約束をドタキャンしてしまったことへの償いを込めていたが、その実、彼も小腹が空いていた。とはいえそんなことは口が裂けても言えない。彼は何も言わずに彼女の隣に腰を下ろした。そして着替えもせずに都南先輩と交わした会話について一通り喋った。その会場が新橋の立派なホテルの最上階にある高級レストランだったことは省いて。

「それであなたはどうするつもりなの?」と智代は尋ねた。「久しぶりに再会した旧友に『起業しよう』って誘われて、その場で答えを出せるほどあなたは潔くない。例によってその回答も待ってもらうことにしたんでしょう?」

 道草は小さく肯いた。

「起業するしないに関わらず、必ずあなたはまず最初に私の許可を得ようとする。それくらいには共同生活する上での常識やルールを持ち合わせているし、断るにしたってある程度時間をおいて冷静な判断のもと返答しようとする。結婚して五年も経てばあなたがそういう人だってことくらいは知ってるわ。ただ、あなたがそのお誘いに対して、どんな返答をしようと考えているのかについては、私の知るところじゃない。それはあなた自身で決めないといけない」

「ちなみに、智代だったらどうする?」と道草は尋ねた。

 しかし彼女はそれに何の反応も寄越さなかった。いくら自分の夫が悩んでいようが、貴重な休憩時間を邪魔されたくはないらしい。テレビをじっと眺めていた彼女はおもむろにテーブルの上のビニール袋に手を伸ばし、中身を漁り始めた。そしてその中から好物のエクレアを見つけ出し、封を開けた。隣からほんのりとチョコレートの香りが漂ってきた。

「あんまっ」

 感想を漏らしながら幸せそうに食べるその横顔を道草がしばらく見つめていると、彼女は途中で「何?」と怪訝そうな表情を浮かべて振り向いた。彼はそれに首を振り、自分もビニール袋の中に手を伸ばした。プリンを取り出して封を開ける。

「あんまっ」

 智代は隣で小さくふっと笑った。「真似しないでよ」

「ほんとに甘いんだよ。食べてみる?」、道草はそう言って彼女用に一口サイズのプリンをスプーンで掬った。彼女はドラマを観たままそれを受け入れる。道草はつい「はい、あーん」と声に出していた。

「私たちって、そういう系だったっけ?」と智代は言った。味の感想は言ってくれなかった。

「いいんじゃない? たまにはこういったのも。家族の時間はできるだけ大事にしないと」

「今しがた家族の予定をドタキャンした人間の台詞とは思えないわね」

「…………」

「冗談よ」と彼女は笑った。

 それから二人はしばらく無言のままドラマを観続けた。毎週水曜日の深夜帯に放送されているドロドロの不倫ドラマだった。夫婦二人が並んで観るものではないと思ったが、内容はそれなりに面白かった。出演している俳優陣も知っている名前が多く、その時間帯のドラマにしてはかなりハイレベルな演技合戦が繰り広げられ、見応えがあった。

 とはいえ終始ドラマに見入っていた智代とは違い、道草の頭の片隅には常に都南先輩の顔が浮かんでいた。画面上で不倫関係にある男女が濃厚なキスをしている時も、不倫現場を目撃した本妻がヒステリックに叫んでいる時も、画面右上のワイプから覗かれているみたいに、一緒に起業しないかと誘った彼のまっすぐな視線にあてられていた。自信に満ち溢れたその表情がどこからくるものなのかはわからなかったが、それでも彼なら本当に成功させてしまいそうだと予感させた。

 ドラマを一話分観終えたあと、機械的に次の話を再生する智代をよそに、道草はひとりで風呂場に向かった。アルコールは若干残っていたものの、あまり眠気はなかった。基本的に飲酒後の入浴は控えているが、いまはしばらく一人きりの時間を要した。彼は頭と身体を丁寧に洗い流し、湯船に浸かってひとしきりそれについて考えた。自然と深くて長いため息が漏れてしまう。それが何に対する吐息だったのかは自分でもわからなかったが、胸の中で立ち込めるもやのような不明な何かをすべて吐き出しさえすれば、自ずとこれから進むべき道筋が見えてくるような気がした。

 しかし、それをするにはあまりに息が続かなかった。すべてを吐き出し終えるよりも先に肺の方が音をあげた。酸素の枯渇した肺はドアを開放するように大きく膨らみ、せっかく吐き出した空気をもう一度体内へ迎え入れる。それは先程体内から放出したものに比べて幾らか湿り気を含んでいたように思えた。彼はまた振り出しの位置に戻される。その後も何度か同じようなことを繰り返し、毎回同じように襟首を後ろから掴まれ、スタート位置までの強制送還を強いられた。靄は一向に晴れなかった。そのうち浴室の蒸し暑さに身体が耐えられなくなり、風呂をあがった。いつの間にか頭はぼうっとしていた。

 道草はドライヤーで手早く髪を乾かし、パンツ一丁でリビングへ戻った。智代はドラマを垂れ流しにしたままソファーの上で寝落ちしていた。冷蔵庫の前でコップ一杯の麦茶を飲み干し、目を覚ます気配のない彼女の身体を優しく揺すった。あと少しで日を跨いでしまうことを教えると、彼女は寝ぼけ眼を指でこすりながら起き上がり、「おやすみ」と言って千鳥足で寝室へ向かった。彼はその華奢な背中を見送ったのち、誰もいなくなったソファーに深く身を埋め、垂れ流しになっていた不倫ドラマをしばらく何も考えずに眺めていた。相変わらず不倫関係にある男女が互いの身体を弄りあって楽しんでいる。しかし、それは先程までとは異なる組み合わせだった。道草が風呂に入っている間に何かしら話の進展があったに違いない。抜け落ちていた空白を出来合いの推理で埋めようと試みるが、彼にはそんな豊かな想像力は備わっていなかった。そもそも不倫なんてものはしたことがない。それはどこか現実味のない空想の産物だと思っていた。しかし現実として浮気や不倫は珍しくない。そんなことを考えていると不意に天童桜の顔が脳裏に過ぎった。

 彼女は一体どういう経緯で不倫をしてしまったのだろう。考えても無駄であることは理解していたが、いまさらそんなことがどうしようもなく気になった。もとより新しい刺激を求めて飛び回っていた彼女は、その行き先でどんな景色を見て、どんな音や匂いを感じ取って、不倫するに至ったのだろう。あるいは、何もかもを手に入れてしまった彼女にとっては、それすらも単なる新しい刺激のひとつに過ぎなかったのかもしれない。考えたくはないが、ありえない話ではなかった。

 いまになって思えば、結果として六年前に彼女が下した判断は何ひとつ間違っていなかった。アイドルを辞めてからというもの、天童桜は飛ぶ鳥を落とす勢いで瞬く間に女優として名を上げた。毎年数多くの権威ある国内の映画賞にノミネートされ、彼女が二十歳の年には日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した。そしてその活躍は国内だけにとどまらず、徐々に活動の場を韓国や欧州にも広げていくと、昨年はついにハリウッド映画への出演も果たした。セリフの少ないちょい役ではなく、いきなり三番手に抜擢されるほど彼女の演技力は世界的に買われ始めていた。

 いまや天童桜のことを国民的女優として紹介しないメディアはない。むしろ、つい数年前まで彼女がシーズンバイシーズンのメンバーとして歌って踊っていたという事実を忘れている人の方が多いのではないだろうか。いつのまにか、元アイドルという肩書きは色濃いペンで上から塗り潰されてしまったのかもしれない。元アイドルオタクとしてはそんな過去などなかったかのように扱われているみたいで、どこかもどかしくて少しだけ寂しかった。

 他のメンバーはそんな天童桜のことを、そして彼女の不倫のことを一体どう思っているのだろう。一時は芸能界を席巻していた彼女たちも、いまやすっかりメディアから姿を消していた。とりわけ天童桜の抜けた穴は想像以上に大きかったらしい。春のない季節なんてつまらない。誰かが言ったわけではない。それでも多くのファンはその意見に同意でもするかのように、あっという間に彼女たちの前から姿を消した。あれからヒット曲はひとつも出ていない。個々人で目立った活躍をしているメンバーもいなかった。まるでそれが過去の流行病だったかのように、時が経つにつれて世間は彼女たちに関心を持たなくなってしまった。そして道草も例によってそのうちの一人に該当した。彼女たちを裏切ってしまうことへの罪悪感がないわけではなかったが、天童桜の卒業を機に気持ちが冷めてしまったのだからどうしようもないことだった。

 そんなことを考えていると、彼は自然とテレビにリモコンを向け、チャンネルをドラマからユーチューブに切り替えていた。そして検索バーの中に『シーズンバイシーズン』と入力し、今更になって罪滅ぼしをするかのように画面下に並んでいたいくつかの関連動画を適当に漁っていた。再生回数の多い動画はどれも全盛期に投稿されたものばかりで、そのサムネイルには必ず天童桜の姿が映っていた。近年リリースされた曲のミュージックビデオについては、そのほとんどが一万回程度と伸び悩んでいた。

 道草はその中から直近のライブ映像を見つけて再生した。映像には計六曲が収録されており、そのほとんどが知らない楽曲だった。ステージ上に立つ三人はすっかり大人びた様子で、アイドルというよりはどちらかというとアーティストといった雰囲気すら漂っている。二十代後半ともなれば、アイドルとしての旬はとうに過ぎてしまった印象は否めなかった。おそらく彼女たちは天童桜が卒業して以降、様々な試行錯誤を繰り返したのだろう。彼の知っているシーズンバイシーズンはそこには居なかった。

 それでも気付けばあっという間に映像は終わってしまった。ハッとした彼はもう一度同じ動画を再生する。そしてまたしても動画があっという間に終わりを迎えると、再びライブ映像を巻き戻した。途中からは耳コピした覚えたての歌詞を軽く口ずさみながら片足でリズムを刻んでいた。そして膝の上に肘をつき、自然と身体は前のめりになっていた。

 道草はすっかり彼女たちから目が離せなくなっていた。それは懐かしさからくるものでもなければ、彼女たちの歌う姿に今更魅了されていたわけでもなかった。しかしそこには確実に言葉では言い表せないほど不思議な引力が働いており、それは心臓を強く鷲掴みにされたような乱暴な痛みを伴いながらも、彼はそれをどこかで心地いいとさえ思ってしまう感覚すらあった。最初は何がそうさせているのかも明確にはわからなかった。それでも何度もライブ映像を見返しているうちに、その違和感にも似た不明な何かが徐々に輪郭を帯び始めた。それは唯一、そのセトリの中で道草が知っている楽曲の曲中だった。


 あなたがいなくたって私はどこまでも歩いていける。

 もう振り返らない。

 たとえ後ろに輝く景色が広がっていても。

 ありがとう。そしてさよなら。

 もう二度と振り返らない。

 たとえそれが狂おしいほど愛おしくても──。


 途中でちらと映し出された観客席の中に、道草は不意に知っている顔を二人ほど見つけた。すぐさま彼は映像を止めて目を凝らす。画面端に映っていた黒縁眼鏡の青木くんと小太りで汗っかきな岩尾くんは、当時と何ら変わらない満面の笑みをその顔に浮かべ、懸命にペンライトを振り回していた。

 彼ら二人の姿を見つけた途端に道草の中で何かが腑に落ちたような気がした。きっと彼女たちはそんな目の前にある笑顔を一つでも多く守り抜こうとしていたのかもしれない。どんなに時代が流れても、どんなにファンが離れていこうとも、彼女たちは目の前のファンを喜ばせるために全力で踊り、歌い続けていたのかもしれない。不思議と歌の聞こえ方が違った。

 かつてはそこに卒業していく天童桜の心境が込められているものだと考察していたが、その歌詞にはおそらく残された三人の──シーズンバイシーズンというグループをこれからも守り抜かんとする──強い決意が密かに含まれていたのかもしれない。道草はその歌詞に強く心を揺さぶられた。


 大丈夫。みてよほら。

 世界はこんなにも私のことを歓迎しているんだから。


 ステージ上でその曲を歌う彼女たちの声は力強く、まっすぐな瞳で目の前を見据えていた。そこにかつての輝かしい光景が広がっていなくとも、その瞬間の彼女たちは間違いなく誰よりも自分たちの居場所に誇りを持ち、全力で楽しんでいた。そしてアイドルを全うするということに喜びを感じていた。

 道草はそんな彼女たちの姿を見て、それを素直に格好いいと思えた。そして同時に母の顔がふと頭の片隅に浮かんだ。彼は衝動的に電話を鳴らしていた。

「いま何時だと思ってるんだよ」と電話に出た都南先輩の声を聞き、道草は電話口でしかめ面を浮かべる彼の表情を容易に想像することができた。時刻はすでに二十六時を回っていた。

「こんな遅くまで起きてたんですね」

「お前に言われたかねえよ」と先輩は言った。

「さっきはご馳走様でした。めちゃくちゃ美味しかったです」、道草はそう言って早速本題を切り出した。「それで、先輩に誘っていただいた起業の件なんですけど……」

 そのあとに少しの沈黙が流れた。電話口で都南先輩は次の言葉を待っていた。

「断らせてもらおうと思ってます」

「なんで」とすぐに先輩の声が返ってくる。その眉間にはさっきよりも深くしわが刻み込まれているに違いない。「どうしてだよ」と彼は続けて言った。

「俺、案外いまの生活気に入ってるんですよね」

「それは無理にそう思い込もうとしてるだけじゃないのか?」

「そんなことはありません」と道草は言った。「たとえそれが他の人からすればすごく窮屈でつまらなさそうな毎日に見えても、俺にとっていまの生活は何にも代えがたい大切なものなんです。妻と娘が笑っていればそれでいいって、心の底からそう思えるんです」

「でもさ」と不貞腐れたような声で都南先輩は言った。「さっきはそんなこと一言も口にしてなかったじゃんかよー」

「ついさっきそのことに気付かせてもらえたんですよ」

 道草はそう言ってテレビに目をやった。春の来ない季節を生きる三人のアイドルがそこには立っていた。以前とは違ってファンも減り、ひそひそとライブを開催している彼女たちの姿を先輩が見たら一体何と言うだろう。またあの当時と同じように沼に浸かってくれるだろうか。道草はそんな不安を抱えながら恐る恐る彼に尋ねた。

「また今度ライブ行ってみませんか?」

「ライブって誰の?」

「シーズンバイシーズンですよ」

「へえ、まだやってたんだ」と都南先輩は言った。おそらくそこには悪気などなかった。それでも道草はその言葉に少しだけムキになった。

「絶対に一度見に行った方がいいですって。いまの彼女たち、めちゃくちゃかっこいいですから」

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春ない季節(No.17) ユザ @yuza____desu

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