(3)
待ち合わせたのは、新橋駅近くの立派なホテルの前だった。
道草は地下鉄を二本乗り継ぎ、十九時を回った頃に親しみのないサラリーマンの街に降り立った。どことなく空気が冷たいのは、通りゆく彼らが殺伐とした雰囲気を醸し出していたからかもしれない。彼らは日々の競争に疲れ果て、正気を失った表情を顔に貼り付けているようだった。底の磨り減った革靴を履き、角の傷んだブリーフケースを手に提げて、スマホの画面に目を落としながら何かに追われているように早歩きをしていた。その瞳の奥はひとつも面白そうじゃない。生産性や効率という絶対的な秤に耐え切れなくなってるのか、彼らの背中は同じように丸くなり、首は不自然なほど前に倒れていた。
道草はズボンのポケットから財布を出し、そこから七年前の試写会のチケットを手に取った。しばらくその紙切れに目を落とし、当時のことを頭に思い浮かべる。あの頃は周りの景色すべてが輝いて見え、刺激的で、生きることに一つも迷いを抱いていなかった。チケットを元に戻し、それから顔を上げる。そしてもう一度目の前の光景を目に映した。世界が変わってしまったのか、それとも彼の世界の見え方が変わってしまったのか。どちらにせよ、まったく違うものが映って見える。やがて彼は声をかけられ、後ろを振り返った。
それは懐かしくも、若干の違和感を覚える明るい声だった。昔からこんなに溌剌としていただろうか。久しぶりに会うせいか、その声色にはどこか外行きの補正が施されているように思えた。
都南先輩は光沢のある紺色のストライプスーツに身を包み、先の尖った革靴を履いていた。どちらも高級感漂う代物で、革靴には汚れの一つも見当たらず、日頃から入念に磨き上げられていることが窺えた。そして六本木の街に自然に溶け込む彼の健康的に痩せた体躯を、細めのスーツがより綺麗に整えている。彼は道草に向かって手を挙げ、おそらくはホワイトニング済みの真っ白な歯をかすかにのぞかせた。小脇に抱える黒いレザーのクラッチバッグには、さりげなくルイ・ヴィトンのモノグラムが刻まれていた。
「久しぶりですね。もう何年ぶりになりますか?」、道草は自然と肩に力が入っていた。緊張していたのかもしれない。あるいは、自分とは明らかに異なる種類の人間へと変貌を遂げていた都南先輩の姿を目の当たりにして、彼は勝手にひとりで劣等感を覚えていたのかもしれない。
「四、五年ぶりとかになるんじゃないかな」と答える都南先輩の口調からは、緊張など微塵も感じられなかった。
「そういえば夜飯って、どこの店で食べる予定なんですか?」と道草は何気なく尋ねた。
「え、ここだけど」と都南先輩は当たり前のように言って真上に指をさす。道草はその指先に誘われるように上を向いた。
「最上階に超絶うまい鉄板焼きの店があるんだ。まあ安心してくれ、ちゃんと予約も取ってあるから」
道草はしばらく言葉を失った。「まじですか?」
彼はそう言って自身の身なりを確認した。今朝から着ている白のバンドカラーシャツとベージュのチノパンはどちらもユニクロで買ったもので、左手首に巻いたセイコーの腕時計と、紳士服店で買ったブリーフケースはどちらも売れ残っていたセール品だった。加えて今日一日働いた分の汗と日差しをどっぷり吸収している。背後を通った人に鼻を摘まれるかもしれない。だいたい、高級なホテルの最上階で食事をする準備なんてこれっぽっちもしていないのだ。ダンヒルのスーツにでも着替えてくればよかったと今になって後悔するが、そんなことを考えてももう遅い。自宅は大宮にあるのだ。往復するだけでも一時間以上はかかる。
ふと頭の中に智代の顔が浮かんだ。今朝約束したはずの外食は、またしても道草の勝手な都合によって果たされなかった。彼は家族よりも旧友を優先した。外食なんていつでも行ける、そう思った。家に残された彼女は今ごろ、いつものように葉月に夜ご飯を食べさせているに違いない。そしてそれが終われば彼女は娘を風呂に入れ、寝かしつけ、束の間の休憩に入るのだろう。主婦の一日はサラリーマンよりも長い。それを知っていながら、彼は旧友を優先した。
しかし、まさかこれから道草が高級ホテルの最上階で食事をしようとしているだなんて彼女は知る由もないだろう。自分でも予想だにしなかったのだ。日頃から贅沢を嫌う彼女がそれを知れば、何と言うだろうか。今更ながらに、彼は家族を優先しなかったことへの罪悪感に苛まれた。
でもとにかく今は、そんなことを考えていても仕方ない。こういう時、複雑な思考を保管できない道草の頭のつくりは都合がよかった。彼は服装のことや妻のことは一旦忘れ、ビルに入った。
エレベーターを乗り継いで最上階まで上り、二人は東京の街を一望できる鉄板焼き店を訪れた。端正な顔立ちをしたウエイトレスが出迎え、その案内に従って二人はカウンター席に腰を下ろした。目の前には広い鉄板が用意されており、向かいには屈強そうな髭面のシェフが無表情で待ち構えていた。
店に入った直後から上手く酸素を肺の中に取り込めなくなっていたのは、もちろん純粋にこの店の標高が高いせいではなく、予想通り、自分だけがあまりにも場違いな存在であることをひしひしと痛感していたからに他ならない。周囲を軽く見回しただけでも、まるでこの空間ごと高級ブティックにすり替わっているかのように、庶民では全く手が出せない高価なブランド品を身に纏う客人たちを大勢見つけた。道草は自然と背もたれから身体を起こし、背筋を伸ばした。
「そんなに緊張しなくてもいいって」と都南先輩は戸惑う後輩を面白がるように言った。彼はそれが普通だと言わんばかりに、早々とこの空間に馴染んでいた。「それよりお前は何飲むよ」
彼はそう言って二つ折りのメニュー表に手を伸ばした。すぐ後ろで息を潜めるように立っていたウエイトレスを呼びつけ、コース料理を注文する。それから赤ワインを頼み、手に持っていたメニュー表を道草に渡した。
どうやらこの店はコース料理のみ提供を行っているらしい。彼が先んじて注文したコース料理の値段はあえて見ないことにしたが、最も低価格なものでゆうに一万円を超えていた。また、メニュー表の右ページには、追加オプションメニューとドリンクがやけに高級感漂う明朝体で記載されていた。道草は烏龍茶が一杯八〇〇円もすることに驚きながらも、唯一妥当な値段に思えたサッポロ黒ラベルの生ビールをウエイトレスに頼んだ。
「いやいや、ステーキにはやっぱり赤ワイン一択でしょ」
揶揄うようなその言葉で、道草は脇の下に嫌な汗をかいた。だが、今更注文を変更するのは見栄えが悪いような気がして、軽くお辞儀をしてその場を立ち去ろうとするウェイトレスをそのまま見送った。それなら事前に言っておいてくれよ、と彼は思った。
しばらくの間、沈黙が流れた。それは二人の再会までに費やした長い年月を感じさせる重たい沈黙だった。
都南先輩は温かいおしぼりで手を拭きながら唐突に口を開いた。「それにしてもやばいよな、桜ちゃん。このご時世、元アイドルの不倫なんて一発で退場モンだろ」、その声には若干の嘲笑と軽蔑が入り混じっていた。
道草はその口調に少しだけムッとした。短く息を吐き、気持ちを静めてから落ち着いた声で言う。「何か事情があったんじゃないですか?」
「どんな事情があるにせよ不倫は不倫だろ。芸能界は現実社会よりも厳しいもんだ。法で裁けなくとも、コンプライアンスによって裁かれてしまう。しばらくは彼女もおとなしく謹慎するだろうな」
道草はしばらく何も言わなかった。とはいえその意見を否定したいわけでもなかった。むしろそれは正論だとも思った。しかし、まだそれだけでは納得できなかった。単純に事実を事実だと認めたくなかっただけなのかもしれない。今朝の残り火はいまだ消えていなかった。
やがてウエイトレスが軽やかな足取りでドリンクを持ってきた。都南先輩の控えめな号令を合図に、二人は気を取り直して互いのグラスを軽くぶつけ合った。それから歪な形の皿に載った前菜が目の前に運ばれ、ウエイトレスが料理に使われている食材を丁寧に説明し始めた。先輩はその間にいくつか質問を挟みながら、その説明に深く肯いたり、表情豊かに感嘆したりして会話を楽しんでいた。ウエイトレスが立ち去った後、会話に全くついていけなかった道草が「慣れてますね」と彼に耳打ちをすると、彼はご満悦な表情を浮かべて「別にそんなことないよ」と軽く首を振った。
「いつもこんなところで飯食うんですか?」
「まあ、週一くらいは」と都南先輩は得意げに答えた。
食事が進むにつれて、道草の緊張は徐々にほぐれていった。アルコールのおかげもあっただろう。彼はビールを飲み干したあと、都南先輩におすすめされた赤ワインを二杯もらった。程よく酔いが回ってきた頃に、彼らは美味しい料理に舌鼓を打ちながら大学時代の話をした。活アワビのステーキ、福岡県糸島市で採れた無添加野菜を使用したサラダと焼き野菜、神戸牛のフィレステーキ、新潟県産コシヒカリ、赤出汁。どれもこれまで食べたことのない高級な味がした。
話題は自然と『シーズンバイシーズン』の話に移り、天童桜が初主演を務めた映画『きみ告』の試写会を一緒に見に行った思い出を語らい、昔のように盛り上がった。
「いま考えたらありえないよな。いくら天童桜を生で見れるからって、普通はテスト休んで留年なんかしないよ」、食後の柚子シャーベットを食べながら、都南先輩は笑いながらそう言った。
「ほんとですよね」と言って道草は肯く。「沼にハマるって怖いですよ」
都南先輩はスプーンでシャーベットの山を無作為に崩し、それからスプーンでシャーベットの欠片を掬った。彼はしばらくそれを見つめていた。「同感だよ。あの頃は一度握手するためだけに何千円もの金を迷わずつぎ込んで、Tシャツとかタオルとかポスターとか、ロクに実生活では役に立たないグッズに何万、何十万って課金してさ。いまなら馬鹿だったなって思う」
道草はもう一度深く肯いた。そして尋ねる。「でも、楽しかったですよね」
都南先輩はふっと小さく笑みをこぼした。「いま考えてみると、あれくらい夢中になれるものって貴重だったのかもしれないな」
「まあたしかに」と道草も笑った。
「最近、あの頃のことをよく思い出すんだよなあ」、都南先輩はそう言ってスプーンに載った液状化したシャーベットを舐めた。「やっぱり夢中になれるものが一つでもあった方が毎日が新鮮で、刺激的で、めちゃくちゃ楽しかったなって」
彼は隣の道草の反応を窺うように少しだけ横を向き、またすぐに前を向いた。「お前もそう思うだろう?」と、そう問いただされているような気がして、道草はなんとなく顔色をひとつも変えないように努めた。中途半端な沈黙が流れ、先輩はその沈黙を持て余すようにスプーンの先を宙で軽く振り回し、しばらくしてそれをデザート皿に伏せて置いた。
「俺はさ、社会人になってつくづく思うんだよ」と彼は言った。「俺たちは大人になるにつれてあの頃の情熱や活力を失っている。毎日の仕事に追われて、上司に急かされて、取引先の好き勝手な要望に振り回されながら、それでもより自分の責務を果たそうと身を粉にして会社のために働いている。規律に縛られ、常識に押さえつけられ、数多くの責任に首を絞められている。そしてそのうち、とりあえずはその日を楽に切り抜けられればいい、誰からも怒られずに何のストレスもない毎日を送ることができればそれでいい、ある程度の給料をもらってある程度の生活ができればそれでいい、そうやっていつの間にか少しずつ、少しずつ、自分自身を無理やり納得させながら、ぬるま湯に浸かっているかのように火照った身体を徐々に冷ましてるんだ。現状維持は衰退。あの福沢諭吉だってそう言っているんだから間違いない。俺たちは気付かないうちに幸せになれるはずの未来をドブ川に捨てているのかもしれない。そう思わないか?」
道草はなにも言わなかった。その反応が気に食わなかったのか、彼は若干眉をひそめた顔を後輩に向けた。その目はやがて道草の左手薬指に落ち着いた。
「こんなことを言って悪いが、俺にはお前のように若いうちから結婚するメリットが全く理解できない。そんなことをすれば生活がもっと縛られるだけだろう。女の子とただご飯に行くだけでも咎められるし、休日は身体を休ませておきたいのに家族サービスをしなければならない。稼いだお金だって自由には使えない。人は守るべきものが増えればそれだけ窮屈になってしまう。融通が利かなくなる。選択肢が狭くなる。そんなのもったいないじゃないか」、彼は道草の顔を覗き込み、たたみかけるように続けた。「何の変哲もない平凡な毎日ほどつまらないものはないと俺は思う。いまも言葉にこそしていないが、お前だって本当は現状に飽き飽きしているんじゃないのか? あの頃みたいに刺激的な毎日を過ごしたいと思ってるんじゃないのか? そうだろう?」
彼が執拗に同意を求める時は決まってその直後に本題を切り出した。道草はいまだにその癖を覚えていた。事前にその声のトーンや真剣な眼差しを細かく想像することができる。少しの沈黙を見送った後に彼は言った。
「お前に大事な話があるんだ──」
その声質や表情はやはり、昔とほとんど変わっていなかった。
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