(2)

 時は遡ること七年前──。


「ファンたるもの、推しの晴れ舞台は直接見届けてあげたい。違うか?」と都南哲郎となんてつろうは言った。

 道草は肯いた。「当たり前じゃないですか」

「大事な話があるんだ」と彼は切り出した。「ここに試写会のチケットが一枚余ってるんだが……」、学食の肉うどんを先に食べ終わっていた彼は隣の椅子の背に提げていた手提げからおもむろにチケットを二枚取り出し、目の前でニヤリとした表情を浮かべた。

 彼はフットサルサークル『サンライズ』に所属している一つ歳上の大学四年生だった。学部内で優秀な成績を収めている上に、運動神経も抜群に良い。昨年にいたっては、チームが所属している大学フットサルリーグにて、年間を通したリーグ得点王にも選ばれた。当然、チームメイトの信頼は厚く、フットサルのルールもロクに知らないマネージャーからの人気だってある。それでなくとも、大学構内を歩く彼の周りにはいつも誰かが並んで歩いていた。

 正当な学力を評価されたわけではなく、高校在学時の授業態度が良かったおかげで運良く推薦入試で滑り込み入学を果たした道草とはあまりに性能が違った。彼は公式戦でスターティングメンバーに選ばれたこともなければ、勉強もギリギリ単位を落とさない程度にしかできなかった。友達と呼べる同級生もほとんどいない。

 そんな一見共通項のない二人が同じ空間で食事をしているだけでも周囲はざわついた。とはいえそれは主に先輩の知り合いに限られた。もう一度言うが、道草には友達がほとんどいない。

 しかしながら、ある時点から二人は自然と行動を共にするようになった。スラムダンクで桜木花道と流川楓が最後にハイタッチを交わしたように、交わるはずもなかった二人の何かがカチッと音を立てて重なった瞬間、彼らは互いのことを隅々まで理解し合った。未だ誰にも打ち明けたことのない、都南先輩の胸の奥底で眠っている思想や価値観さえも手に取るように分かる気がした。たとえそのきっかけが『好きなアイドルユニットが同じ』という小さな共通項だったとしても、それが当時はまだメジャーデビューを果たす気配すらなかった小さな事務所発の無名アイドルだったということに大きな意味を持った。すでにある程度の知名度を持つアイドルを好きになるのとはわけが違う。どういう経緯であれ、誰も知らないような終着点に同時期にたどり着き、同じように好意を抱いた彼とは根本的なところで馬が合うと道草は確信していた。もちろん向こうがそれをどう捉えているのかはわからない。ただ少なくとも、道草のことを好意的に思っているようには感じていた。

「え、もしかしてその試写会って桜ちゃん主演の『きみ告』ですか?」、道草はソースカツ丼を食べていた手を止めた。

 都南先輩はその顔に笑みを浮かべたまま深々と肯いた。

 二週間後に公開を控えていた映画──『きみに告白されたあの日から(通称:きみ告)』は、四人組アイドルユニット『シーズンバイシーズン』のメンバーである天童桜が初めて主演を務める青春映画だった。監督や出演キャストはそれほど豪華ではなかったものの、すでに全国公開が決まっている大規模な映画の主演に、つい先日メジャーデビューが決まったばかりの無名アイドルをオーディションもなしに大抜擢するのは異例ともいえた。ある朝の情報番組では、注目の新作映画としても取り上げられていた。偶然その番組をリアルタイムで視聴していた道草は慌ててその番組を録画し、一分にも満たないその予告映像をあとから何回も見返した。

 天童桜は間違いなくこの映画をきっかけに国民的スターになる、彼はそう確信していた。それは想像に容易いことだった。スクリーンに映し出される彼女の透明感のある肌に観客は引き寄せられ、瞳の奥に潜むその儚さと脆さに彼らは心をぐっと掴まれる。触れるだけで割れてしまいそうな彼女の繊細な笑みを一度でも目の当たりにすれば、きっと誰もがその笑顔を守ってあげたいと思うだろう。演技に関して未知数なところはあるものの、それほど心配はしていない。器用で要領が良いことは、すでにファンの間でも知られていることだった。それに彼女はまだ高校二年生の育ち盛りの女の子だ。女優としての伸び代は計り知れない。

 限りなく近い将来、天童桜というダイヤの原石は世間に見つかってしまうだろう。道草はいずれその瞬間が訪れることを、いちアイドルオタクとして喜ばしく思いつつも、いち個人としては複雑な心境を抱えたまま待ち構えていた。器が小さいと言われてしまえば反論はできない。それでも彼はこれから増えるであろう新しいファンを、両手を広げて迎え入れることはできなかった。

 仮に今回の映画によって天童桜の名が世間に知れ渡ってしまえば、事務所としてもこれを機に、彼女だけではなく他のメンバー(海華、楓、雪乃)たちもセット売りのような形でメディアへ進出させていくことを考えているに違いない。真面目で素直な彼女たちは、それぞれに与えられた仕事を全力でこなしていくだろう。媒体によっては大きな爪痕を残すことだってあるかもしれない。そのうち『シーズンバイシーズン』というアイドルが世間に浸透し、これまで小さなライブハウスでのみ開催されてきたライブの規模が段階的に大きくなっていくかもしれない。いずれは全国ツアーだって夢じゃない。「いつか武道館に立ちたい」とは、彼女たちが常々口にしていたグループとしての最大の目標でもあった。それも案外、易々と近い将来に叶ってしまうのかもしれない。

 しかしそうなってしまえば必然的に、これまでは当たり前のように確保できていたライブ会場の最前列のポジションも、いつの間にか知らない誰かに奪われてしまう。そいつはきっと彼女たちの苦労なんて何ひとつ知らずにペンライトを振り回し、彼女たちはそれに全力で応えてしまうのだろう。彼女たちの目にはいつしか自分の姿が映らなくなってしまうかもしれない。

 毎週末に行われていた握手会や撮影会はどうだろう。テレビ出演をはじめとしたメディア関連の仕事が増加すれば、スケジュール的にもそれどころではなくなってしまう。そうなればファンと触れ合う機会は徐々に減っていき、彼女たちは一般人では手の届かない芸能人としての階段を一つずつ上っていくに違いない。それでも彼女たちはきっとその瞬間を待ち望んでいるし、ファンとしてはその遠のいていく背中を大きな拍手で送り出してあげなければならない。

 しかし、そんな未来を想像してしまうたびに、道草は心臓を針で刺されたような痛みに見舞われた。彼女たちがこのまま売れなければいいのに、そんなことを不意に考えてしまう自分が嫌で嫌で仕方がなかった。

 彼が初めて『シーズンバイシーズン』と出会ったのは大学に入学したばかりのゴールデンウィークのことだった。彼はその日、お洒落に目覚めようと決心して人生で初めて受け取ったバイト代を握りしめ、家の近くのショッピングモールに訪れていた。

 一階のエスカレーターの前を通りかかった時、お世辞にも上手いとは言えない歌声が耳に飛び込んできた。彼女たちはヒーローショーの前座として特設ステージの上で歌っていた。

 ステージの前に並べられたパイプ椅子の観客席を見渡してみると、そこは明らかにヒーローを目当てに訪れたであろう親子連れのお客さんで埋め尽くされていた。その証拠に、誰一人として彼女たちのパフォーマンスを見ていなかった。その上、サビの直前で突然大きな声で泣き出す幼児やサビ中に勝手にステージに上って走り回る少年たちが、彼女たちのパフォーマンスを容赦なく邪魔していた。毎週末に地下のライブハウスで開催されているという定期ライブの告知や、「このあと入口近くで自作のグッズ販売を行うので是非いらしてくださいね」というアナウンスも、おそらくはその場にいた道草以外の誰の耳にも届いていなかった。

 その後、ほどなくして始まったヒーローショーに会場が割れんばかりに湧き、その空気を邪魔しないようにと忍び足で会場を去っていく彼女たちの後ろを、道草はほとんど無意識のうちに追いかけていた。

 ショッピングモールの入口付近に長机とパイプ椅子を並べ、簡易的な販売スペースを設置した彼女たちは、用意した椅子に座ることもなく、さっそく通り行く人たちに声をかけ始めた。しかし誰一人として立ち止まる者はいなかった。

 遠くからその様子を眺めていた道草は思い切ってピンク色の衣装を着ていた天童桜に声をかけ、握手を求めた。それからメンバー全員分のグッズをすべて購入した。それは生まれて初めての衝動買いだった。注文を受けた彼女は目を大きく見開き、唖然としていた。その様子を隣で見ていた他のメンバーも同様に驚いていた。

 道草は総額一万円以上を購入した特典として、会計時にメンバー全員のサインが入ったオリジナルTシャツをもらった。胸の真ん中にはグループのロゴが入っていた。

「シーズンバイシーズン──四季折々っていう意味なんです。だから私たちの名前にはそれぞれ季節に関係する言葉が使われているんです」、商品の受け渡す時に愛想のいい笑みでそう説明してくれたのはリーダーで最年長の海華だった。

 とはいえまだ彼女も当時は十七歳で、隣町の女子校に通っている高校三年生だった。夏を担当しているというだけあってか、肌は他のメンバーに比べて焼けていた。運動は全般的に得意らしい。イメージカラーは青。

 高校一年生の楓はアニメを観ることが趣味らしく、おすすめのアニメを何本か教えてもらった。イメージカラーは黄色。

 楓と同じ学校に通う高校二年生の雪乃は手芸が得意で、偶然持ってきていたという手作りのトートバッグをくれた。猫の刺繍が施されており、とても男性向けとは思えなかったが、道草はそれをありがたく頂戴した。購入したグッズはもれなくそのバッグの中に仕舞った。イメージカラーは白。

 腹を割り当てられた桜は四人の中で最も物静かな女の子だった。小柄で髪が短く、その見た目には少女のあどけなさが残っていた。当時はまだ十五歳。中学三年生だった。

 ライブ中、道草は強い引力に引っ張られているように、そんな最年少の彼女から目が離せなかった。四人の中で特別ダンスが上手いわけではない。歌だって彼女より上手に歌える女の子を探そうと思えばいくらでも見つかる。それにもかかわらず、彼はその小さな身体からは想像ができないほど力強いダンスと、年齢に見合わない艶っぽい歌声に、いつの間にか魅了されていた。絹が波打つように滑らかな手先の動きに思わず息を呑み、時折見せる怪しげな笑みに心を射抜かれる。彼女はまだ中学生ながら、すでに自分の魅せ方というものを熟知しているように思えた。その才能はもはや、子供や大人という概念すらも壊すことができるのかもしれない。ステージ上で踊る彼女がいまだに義務教育を受けているだなんて到底思えなかった。

 その日を境に道草は毎週開催されている定期ライブに参戦するようになった。特典でもらったサイン入りTシャツは、記念として額縁に入れて部屋の壁に飾っているため、新たに追加購入したグッズTシャツ十着を順番に着回した。頭にはピンク色のハチマキを巻き、首には桜の応援タオルを掛け、両手にはピンク色のペンライトを装備した。そしてライブ後には欠かさず撮影会に参加し、メンバー全員とチェキを撮った。推しメンである桜とは必ず三回撮った。

 貯金はすぐに底をついた。可能な限り大学の講義を休み、その分アルバイトのシフトを増やしてもらい、できるだけ生活を切り詰めた。週末に行われるフットサルサークルの練習試合を無断で休むことも増えた。やがて同級生たちからは冷めた目を向けられるようになった。道草はそれでも構わず彼女たちのライブを優先した。自分の両足がすでに沼に浸かっていることなんて、とっくに気が付いていた。

 彼女たちはいつも楽曲の中でこんな歌詞を歌った。代表曲である『Y.O.L.O. 〜私たちの青春〜』のサビでの一節だ。

 ──後先なんて考えないで。イマを全力で駆け抜けろ。

 そんな真っ直ぐで力強い歌詞を体現するかのように、イマを全力で駆け抜けている天童桜を、『シーズンバイシーズン』の彼女たちを、道草は心の底から応援していた。彼女たちの歌やダンスが日に日に上達していくその成長過程を目の当たりにできることが何よりの喜びで、全力でアイドルをまっとうするその姿には毎回胸を打たれた。

 そして何度も通っているうちに仲間ができた。黒縁眼鏡の青木くんと、小太りで汗っかきな岩尾くん。彼らとはライブ会場でよく一緒になり、ライブ後はよく三人でファミレスに入って余韻に浸った。あの場面が良かったとか、あそこのダンスが上達してたとか、新しい髪型似合ってたよねとか、それぞれの感想を思う存分語り合った。

 とはいえ彼らの素性はよく知らなかった。年が近いことはわかっていたが、何故か互いにそれ以上奥へは踏み入ろうとしなかった。どこに住んでいて、どこの大学に通っているのかも知らなければ、連絡先も知らない。当然、ライブの日以外にどこかで待ち合わせして遊ぶようなこともなかった。あくまで彼らのことはライブ会場でよく会う同志という認識で接していた。

 そんなある時、ライブ会場で都南先輩の姿を発見した。最初はその光景が信じられなかったが、桃色のタオルを首に巻いて桃色のペンライトを楽しげに振り回している彼の姿を見ているうちに、彼も自分と同類なのだと思うようになった。ライブ後に声をかけるべきか迷っていると、彼の方から声をかけてくれた。ライブとはいえ観客は多くても二十人ほどしかいない小規模なものだったからか、彼もすぐに道草のことを見つけていたらしい。それからは自然と彼と一緒にライブ会場へ足を運ぶことが多くなった。

 他の同志たちと違って彼は同じ大学で同じサークルの先輩だったこともあり、互いの連絡先を知っているのはもちろんのこと、ライブ以外の日も一緒に遊んだりした。その経緯を知らない大学の同級生や他の先輩たちはそれを不思議がっていたが、都南先輩はそんなこと気にしなくていいと言ってくれた。「お前と一緒に居る時間は結構楽しいんだよ」、彼が恥ずかしげもなくそう言ったあの日から道草は先輩のことを唯一の友達だと思うようになった。


「知り合いに制作会社に勤めてる人がいてさ、特別に招待券を二枚だけもらうことができたんだよ」、都南先輩は得意げな顔をしてそう言った。

 彼はすでに大手家電メーカー会社や外資系のIT企業他、複数の企業から内定をもらっていた。おそらくその制作会社の知り合いとやらも、就活期間中に知り合った先輩社員のことなのだろうと道草は勝手に予想していた。基本的に人見知りをせず、社交的で話の上手い彼は、短期間のうちに人の心を掌握することに長けていた。

「来週の火曜日なんだけど、どうだ?」

 道草は頭の中でスケジュール表を開く。「ちなみに何時からですか?」

「夕方の四時ごろだったかな」と都南先輩は言った。

 しばらく沈黙が流れる。しかめ面で宙のある一点を見つめる道草を見て、都南先輩は何かを察したように尋ねた。「もしかして期末試験と被ってるのか?」

 道草は短く息を漏らして肩をすくめた。「しかも必修なんですよ」

「じゃあ、やめとくか」、都南先輩はテーブルの上に置かれたチケットに手を伸ばし、それを手提げの中に戻そうとする。だが、その途中にボソッと悪魔の囁きが聞こえてきた。「まあ、こんなチャンスもう二度とないと思うけどな」

 反射的に手が伸びていた。道草は腰を浮かし、都南先輩の腕をとっさに掴む。

「ちょっと待ってください」

 たしかにこんなチャンスはもう二度と訪れないかもしれない。必修科目を落としてしまえば留年が確定する。それは十分に理解しているが、天童桜の初めての大きな晴れ舞台に立ち会えるチャンスをみすみす逃してしまえば、きっとこの先、一生後悔してしまうことは目に見えていた。

 道草の頭の中で天秤が上下に揺れ動く。子供がはしゃいでシーソーに乗って遊んでいるみたいに激しく、そしてとめどなく。ちょっと待ってください。そのあとに言葉が続かないのは、母の顔が不意に浮かんでしまったからだ。彼の育った家庭は決して裕福ではなかった。

 道草は掴んでいた腕から手を離し、沈むように座り込んだ。都南先輩は困惑の表情を浮かべ、目の前で葛藤している後輩を不思議そうに見つめていた。さっきの言葉は冗談半分で口にしただけのかもしれないと、道草はその時になってようやく気がついた。しかし背に腹はかえられない。大切なものを守るためには多少の犠牲もやむを得なかった。彼はいま、一つの大きな岐路に立たされている気がした。この選択次第では、この先に待ち構えていた運命が大きく変わってしまうのかもしれない。覚悟を決め、何かに取り憑かれたように無心で器に残っていたソースカツ丼を一気に口の中へかきこんだ。その光景がやけを起こしているように見えたのだろう。都南先輩はさらに眉間にしわを寄せ、「おい、まじで大丈夫か?」と心配し始めた。

「行きます。行かせてくださいっ」

 道草の大きな声は食堂内に響いた。空になった器を勢いよくテーブルの上に叩きつけると、何人かの学生が同時に彼に視線を寄せた。都南先輩はしばらく口を開けたまま言葉を失っていた。

「おれ、桜ちゃんの活躍を見届けるためだったら喜んで留年しますよっ」

 どこからともなく、くすくすという小さな声が聞こえてくる。早とちりした木枯らしに木の葉が小刻みに揺らされているような声だった。きっと彼らは突然奇行に走るおかしな学生を笑い者にしているのだろう。その学生がたった今どれほど大きな覚悟を決めていたのかなんて、彼らの知ったところではなかった。

「沼にハマった人間は後先のことなんて考えないんだな」と都南先輩は言った。そして図ったように彼はニヤリと笑った。

 間髪入れずに道草は答えた。頭の中ではこれまで何万回と聴いた小気味よいアップテンポのメロディーが流れていた。

「後先なんて考えなくていいんですよ。イマを全力で駆け抜けてこそ本物のファンなんですから」

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