あなたの世界
この世界にはルールがある。俺はそれに
歩道橋の手すりに座る黒猫がいる。
街灯がアスファルトを照らす。
しかし、猫が本当にみているのは自身の取り返しがつかない記憶だった。惨劇が彼の
千の
鎧の自律人形。動かなくなった
瞳。血液に
俺が選んだ。だからアイツは俺が殺したようなものだ。
彼は何度も自分に投げかけた呪いの言葉を繰り返して下を
クラクション。猫はバンパーに衝突する。
物理法則はこの世界のルールであり、猫も軽自動車もそれに
これでいい。俺はもうたくさんだ。
猫は動かなくなった
空が
その中で猫が目を覚ます。身体は理由もなく治っていた。
ただ
血液が体毛と混ざり
エンジンの音。街路樹のざわめき。通行人の声。変わらない日常。
それは黒猫にとって絶望だった。死を選んでも逃れられない自分自身の役目への。
※
少女のとともに歩く黒猫がいる。
時間は正午前になっていた。キミカの握るプラカップには水滴が集まり、時々灼熱の太陽に焼かれた路面に落ちる。
「暑いね~クロ。日傘がなかったらわたし、死んでたかも」
クロは
「はい、クロにもあげる」
「いらねえよ」
「これからお世話になるからね」
「だからいらねえって。俺とお前は友達じゃない」
「えー」
キミカは口を
「はがきは誰に出したんだ」とクロ
「
「アイツが返事を描くとは思わないな」
「わたしから書くことに意味があるんだよ。仲良くなりたいなっていう印だから」
くすくすと笑い声が聞える。すれ違った補習帰りの女子高生が会話が聞こえる。
なにあれー。可愛くない?
純白のワンピースを着た少女とその隣を歩くはがきを咥えた黒猫。一人と一匹は通行人の注目の的だった。
母親に手を引かれる幼い子供はクロを指さし、黒猫の郵便屋さんだと無邪気に言っている。クロは自分が笑われていることに気づくと声を上げる。
「おい!」
しかしキミカはじゃーんと言わんばかりにクロへ向けて両手を拡げた大げさな仕草を作る。住宅街の角地に二階建ての家が建っていた。
小さいながらも庭があり、そこには桜の木が植えられていた。それがキミカの住む家だった。
「着いたよ! 入って」
クロは今日二回目のため息をついて渋々キミカの後ろについていく。
家の中には誰もいなかった。玄関から見えるカウンターキッチンにある冷蔵庫には大きなホワイトボードが
キミカはクロを
「男の子を部屋に上げるのって初めてかも」とキミカ。
「俺は猫だぞ」クロはうなって抗議する。
「関係ないよ。あっクロ、えっちなこと考えたでしょ」
「考えねえよ!」
扉を開けて少女は自分の部屋へ入る。黒猫はクッションの上に置かれる。
「飲み物を持ってくるから待っててね」
クロは辺りを見回す。六畳の小さな部屋にベットと机が置かれている。
窓の隣に付けられたコルクボードには絵ハガキやポストカードがピン留めされている。
水彩で描かれた風景や白と青が印象的な金の輪をつけた天使が夜空を飛ぶイラストなど様々だ。
ベットには可愛らしいぬいぐるみが枕元に二つ並んでいる。他の年ごろの少女と変わらないだろうその部屋にクロは居心地の悪さを感じた。
耳が聞えないとしても、少女は自分の人生を愛していた。そして彼女を取り巻く世界はどこにでもある幸せな家庭。それがクロの胸をより締めつけた。
「はい、クロにはお水」
「話があるんでしょ」と一息ついてキミカ。
彼女がわくわくしていることがクロにも伝わる。猫は尾を揺らしながら話しはじめる。
「いいか、魔法少女になっても、何も願いは叶ったりしない。お前の耳が聞える訳ではない」
「でもクロとは、話せるよ」
「それは魔法少女として必要なだけだ」
彼は無から猫の姿として生み出された。ぱちぱちと氷の割れる音が聞える。
「魔法少女と使い魔は魔獣を
「そして時として魔法少女は死ぬ」
自分の存在が定まらない雨ざらしの黒猫に差し出される手、微笑み。
お腹すいてない?
少女はクロが選んだ最初の魔法少女だった。そして彼の名づけ親だった。
室外機の中で回転するファン。その不快な振動音が部屋へ微かに響く。
「俺の最初のパートナーは死んだ。魔獣に殺された」
言葉が引き金となり壊れた
「戦闘に慣れた頃、がらんどうの鎧が現れた」
公共の火葬場。コンクリートで作られた煙突から白いけむりが空へ伸びている。
「俺とアイツは単独で向かった。思えば、油断してたかもしれない」
俺へ笑みを向けた少女のすべては煙と骨になった。ツツジが生い茂る生垣の横にある無機質なエントランスの自動扉が開かれる。
「ふとした拍子にアイツは転んだ、鎧はその隙を見逃さなかった」
「馬乗りになってからはすべては一瞬だった。鎧はアイツの喉元に剣を突き刺した」
「
喪服姿の人間が出てくる。少女の親族と何人かのクラスメイト。アイツが親友だと言っていた奴は泣いていた。
「動かなくなったアイツの身体へ鎧は何度も何度も剣を突き立てた」
親族の会話が聞える。エンバーミングでしたっけ。あの遺体を綺麗するやつ。大変だったらしいよ。だって体中、傷だらけだったからねえ。女の子なのに可愛そうにね。
「仲間が来るまで俺は見ていることしか出来なかった」
猫は
湧き出つづける感情が身体を支配して自分ではどうしようもなくなっていた。それでもクロはキミカに向けて言葉を
「お前が今まで生きた世界には本当の痛みや苦しみがないんだ。だから――」
「話してくれてありがとう、クロ」
キミカはクロを抱きしめる。
「分かるよ。わたしが世界に守られていることは」
「どうしても
「パパはね、最近わたしに触らないんだ。前までは肩を叩いて呼んでいたのに、今はわたしの前に来て気づくのを待っていてくれる」
「わたしが年ごろになったから、パパは気にしているんだと思う。わたしは別に気にしないのにね」
「だけどそれはきっと、パパがよく考えて選んだはずだからわたしは受け入れるの」
「わたしはそんな優しいパパが好き」
猫を抱く少女の腕の力が強くなる。美しく満ち足りた彼女の世界を愛するかのように。
「
「でもそれは言葉にしてはいけない。表に出してはいけない」
「だって、耳の聞えない子は話せないから。事実は変わらない。差別されること、区別されることは当たり前だったはずだから、文句は言えないよ」
「だからね、クロ」
キミカはクロを見る。
「誰かを救える魔法少女になって、わたしは初めて世界と対等になれる気がするの」
「例え、自分が死んだとしてもか」
「その時は耳が聞えないのに魔法少女になった自分を恨むよ」
「お前は選べなかったはずだ」
「クロには何も責任はないよ。わたしの耳が聞えないその理由を探すように」
「自然現象に過ぎないんでしょう? わたしもクロも」
「強いんだな、お前は」
「よく言われます」
「なんで敬語になるんだ」
「褒められるのが、恥ずかしくてー」
えへへと照れ笑いを浮かべながらキミカは頭をかく。居たたまれない気持ちになったクロはもぞもぞと脚を動かし、少女の胸から脱出する。
「クロにお願いがあるんだよね」と再びクッションに座った猫へキミカ。
「何だ」とぶっきらぼうに黒猫。
「あいさつの練習に付き合ってほしいんだ」
「こんにちはとか、ありがとうございますとか簡単な言葉をクロがわたしの声を聞いて少しずつ修正していくの」
「そうすれば、日常生活で便利だしね。魔法少女である内にマスターしたいんだ」
「……死ぬつもりはないんだな」
「そうだよ、わたしは死ぬときまで死なないよ」胸を張ってキミカ。
「なんだそれ」小さく笑うクロ。
木漏れ日が窓から射しキミカとクロがいる部屋を柔らかく照らす。
耳の聞こえない魔法少女と使い魔の黒猫との奇妙な発声練習。それは二人にとって揺るぎなく残酷である世界に対抗する小さな意思表示だった。
――こんにちは。
――ほんひちわ。
「変だな」
「ひどい! 笑ったでしょ」
「口が開いてないんだ。人間の真似をするから見ろ」口を大きく開けてクロ。
「……ヘンなカオ」じーっとその様子を眺めてからキミカ。
「お前なあ」
「ごめんねクロ、もう一度」
――ありがとう、キミカ。
――あいあとお、ひいか。
「クロ、今なんて言った?」きょとんとする少女。
「何でもない」そっぽを向く黒猫。
魔獣が現れれば、少女は命を天秤にかけた嵐の中に飛び立っていく。世界の根底にある冷たいルールからは誰も逃げられない。
ただ、今だけは彼女と彼女を取り巻く暖かい日常という風景の中でたゆたっていたいと黒猫は思った。
問い詰めるキミカを無視してクロは小さい伸びをした。
黄色、水彩。手に触れるのは かにミサイル @kanatawashi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます