あなたの世界

この世界にはルールがある。俺はそれにしたがうだけだ。


歩道橋の手すりに座る黒猫がいる。


街灯がアスファルトを照らす。時折ときおり通る乗用車のテールランプが赤い残像を作る。深夜の幹線道路を、人の営みを猫は眺めている。


しかし、猫が本当にみているのは自身の取り返しがつかない記憶だった。惨劇が彼の頭蓋ずがいの中でフラッシュバックする。


千のつるぎ。夕暮れ。体液。死の匂い。泣かないでクロ。


はだの下の黄色いあぶら。蝉の声。切先きっさきかられる赤いしずく。苦しまないでクロ。


鎧の自律人形。動かなくなった四肢ししが何度もつるぎもてあそばれてゆらゆらと揺れている。


瞳。血液にれて赤いまくがはった瞳。まばたきをしなくなった瞳。俺を見ている瞳。



俺が選んだ。だからアイツは俺が殺したようなものだ。


彼は何度も自分に投げかけた呪いの言葉を繰り返して下をあおぎ見る。ちょうど、軽自動車がこちらへ向かって来る。猫は身体からだを空中に投げ出す。


クラクション。猫はバンパーに衝突する。


物理法則はこの世界のルールであり、猫も軽自動車もそれにしたがう。小さなへこみが出来た軽自動車は速度を緩めず、彼の元から離れていく。猫は吹き飛ばされ、その内臓は衝撃で破裂する。腹から血液をこぼす。


これでいい。俺はもうたくさんだ。


猫は動かなくなった後脚うしろあしを引きずりながら、縁石えんせきのそばまで身体を運ぶ。彼はありふれた野良猫の死を選んだ。それでも猫には、後悔はなかった。痛みよりも、役目から降りられる安心感が勝っていた。自分の血液の暖かさにおぼれながら、黒猫は息を引き取る。


空がしらんでいき、朝日が昇る。世界が太陽によっていろどられ、今日が始まっていく。


その中で猫が目を覚ます。身体は理由もなく治っていた。

ただひたいの傷だけは残っていた。それは世界から与えられた呪いのしるしだった。


血液が体毛と混ざりかわき、凝固ぎょうこしていた。猫はアスファルトに固着した身体を無理矢理引きはがしながら、立ち上がる。そして自分の置かれた環境を理解する。


エンジンの音。街路樹のざわめき。通行人の声。変わらない日常。


それは黒猫にとって絶望だった。死を選んでも逃れられない自分自身の役目への。



少女のとともに歩く黒猫がいる。


時間は正午前になっていた。キミカの握るプラカップには水滴が集まり、時々灼熱の太陽に焼かれた路面に落ちる。


「暑いね~クロ。日傘がなかったらわたし、死んでたかも」


クロは幼気いたいけな少女にすべてを話せずにいた。そんな彼の思いを知らないキミカは突然思い出したかのように足を止め、ポシェットを探る。


「はい、クロにもあげる」


かがんだ彼女はプラカップを地面に置き、両手でクロの前に、はがきを差し出す。


「いらねえよ」

「これからお世話になるからね」


向日葵ひまわりと青空がプリントされた既製品の絵はがき。そこには彼女の手書きの文字とデフォルメされた目つき悪い黒猫がボールペンで描かれている。


「だからいらねえって。俺とお前は友達じゃない」

「えー」


キミカは口をとがらせて不満をあらわにしたが、クロも意固地いこじになって受け取らない。しかし結局は根負けして、猫はため息をついた後、はがきをくわえて歩き出す。


「はがきは誰に出したんだ」とクロ

兎屋うさぎやさんだよ」とキミカは答える


「アイツが返事を描くとは思わないな」

「わたしから書くことに意味があるんだよ。仲良くなりたいなっていう印だから」


くすくすと笑い声が聞える。すれ違った補習帰りの女子高生が会話が聞こえる。


なにあれー。可愛くない?


純白のワンピースを着た少女とその隣を歩くはがきを咥えた黒猫。一人と一匹は通行人の注目の的だった。


母親に手を引かれる幼い子供はクロを指さし、黒猫の郵便屋さんだと無邪気に言っている。クロは自分が笑われていることに気づくと声を上げる。


「おい!」


しかしキミカはじゃーんと言わんばかりにクロへ向けて両手を拡げた大げさな仕草を作る。住宅街の角地に二階建ての家が建っていた。


小さいながらも庭があり、そこには桜の木が植えられていた。それがキミカの住む家だった。


「着いたよ! 入って」


クロは今日二回目のため息をついて渋々キミカの後ろについていく。


家の中には誰もいなかった。玄関から見えるカウンターキッチンにある冷蔵庫には大きなホワイトボードがかかげられていた。書かれているのは取るに足らない買い出しのメモや家族の予定。


キミカはクロをかかえて階段を昇っていく。


「男の子を部屋に上げるのって初めてかも」とキミカ。

「俺は猫だぞ」クロはうなって抗議する。


「関係ないよ。あっクロ、えっちなこと考えたでしょ」

「考えねえよ!」


扉を開けて少女は自分の部屋へ入る。黒猫はクッションの上に置かれる。


「飲み物を持ってくるから待っててね」


クロは辺りを見回す。六畳の小さな部屋にベットと机が置かれている。


窓の隣に付けられたコルクボードには絵ハガキやポストカードがピン留めされている。


水彩で描かれた風景や白と青が印象的な金の輪をつけた天使が夜空を飛ぶイラストなど様々だ。


ベットには可愛らしいぬいぐるみが枕元に二つ並んでいる。他の年ごろの少女と変わらないだろうその部屋にクロは居心地の悪さを感じた。


耳が聞えないとしても、少女は自分の人生を愛していた。そして彼女を取り巻く世界はどこにでもある幸せな家庭。それがクロの胸をより締めつけた。


ぼんに飲み物を乗せたキミカが部屋に戻ってくる。ペパーミントの香りがクロの鼻にも届く。ガラスコップに注がれた泡立つサイダー。


「はい、クロにはお水」小鉢こばちに入ったミネラルウォーターが猫の前に置かれる。


「話があるんでしょ」と一息ついてキミカ。


彼女がわくわくしていることがクロにも伝わる。猫は尾を揺らしながら話しはじめる。


「いいか、魔法少女になっても、何も願いは叶ったりしない。お前の耳が聞える訳ではない」

「でもクロとは、話せるよ」

「それは魔法少女として必要なだけだ」


彼は無から猫の姿として生み出された。ぱちぱちと氷の割れる音が聞える。


「魔法少女と使い魔は魔獣をほふるために生み出された自然現象に過ぎない。おとぎ話はここにはない」とクロは言い切る。


「そして時として魔法少女は死ぬ」


自分の存在が定まらない雨ざらしの黒猫に差し出される手、微笑み。


お腹すいてない?


少女はクロが選んだ最初の魔法少女だった。そして彼の名づけ親だった。


室外機の中で回転するファン。その不快な振動音が部屋へ微かに響く。


「俺の最初のパートナーは死んだ。魔獣に殺された」

言葉が引き金となり壊れた蓄音機ちくおんきのように決まったシーンがリピートされる。


「戦闘に慣れた頃、がらんどうの鎧が現れた」


公共の火葬場。コンクリートで作られた煙突から白いけむりが空へ伸びている。


「俺とアイツは単独で向かった。思えば、油断してたかもしれない」


俺へ笑みを向けた少女のすべては煙と骨になった。ツツジが生い茂る生垣の横にある無機質なエントランスの自動扉が開かれる。


「ふとした拍子にアイツは転んだ、鎧はその隙を見逃さなかった」


「馬乗りになってからはすべては一瞬だった。鎧はアイツの喉元に剣を突き刺した」


あふれる血を両手で必死に押さえながらアイツは俺を見た。俺は鎧に飛び掛かった。だが無駄だったんだ。俺はただの黒猫だ。」


喪服姿の人間が出てくる。少女の親族と何人かのクラスメイト。アイツが親友だと言っていた奴は泣いていた。


「動かなくなったアイツの身体へ鎧は何度も何度も剣を突き立てた」


親族の会話が聞える。エンバーミングでしたっけ。あの遺体を綺麗するやつ。大変だったらしいよ。だって体中、傷だらけだったからねえ。女の子なのに可愛そうにね。


「仲間が来るまで俺は見ていることしか出来なかった」


猫は前脚まえあしが震えていることに気づく。四肢は痺れ、嗚咽おえつは止まらない。


湧き出つづける感情が身体を支配して自分ではどうしようもなくなっていた。それでもクロはキミカに向けて言葉をつむぐ。


「お前が今まで生きた世界には本当の痛みや苦しみがないんだ。だから――」

「話してくれてありがとう、クロ」


キミカはクロを抱きしめる。


「分かるよ。わたしが世界に守られていることは」


「どうしてもへだたりを感じていたの。パパもママもだって、耳の聞こえないわたしに向けて努力してコミュニケーションするの」


「パパはね、最近わたしに触らないんだ。前までは肩を叩いて呼んでいたのに、今はわたしの前に来て気づくのを待っていてくれる」


「わたしが年ごろになったから、パパは気にしているんだと思う。わたしは別に気にしないのにね」


「だけどそれはきっと、パパがよく考えて選んだはずだからわたしは受け入れるの」


「わたしはそんな優しいパパが好き」


猫を抱く少女の腕の力が強くなる。美しく満ち足りた彼女の世界を愛するかのように。


こまやかな気遣きづかいにつつまれて、わたしは生きている。でもそれが時にはとっても息苦しい。わたしはずっと世界から返しきれない恩を受け取ってきてるの」


「でもそれは言葉にしてはいけない。表に出してはいけない」


「だって、耳の聞えない子は話せないから。事実は変わらない。差別されること、区別されることは当たり前だったはずだから、文句は言えないよ」


「だからね、クロ」


キミカはクロを見る。


「誰かを救える魔法少女になって、わたしは初めて世界と対等になれる気がするの」


「例え、自分が死んだとしてもか」


「その時は耳が聞えないのに魔法少女になった自分を恨むよ」

「お前は選べなかったはずだ」


「クロには何も責任はないよ。わたしの耳が聞えないその理由を探すように」

「自然現象に過ぎないんでしょう? わたしもクロも」


「強いんだな、お前は」

「よく言われます」


「なんで敬語になるんだ」

「褒められるのが、恥ずかしくてー」


えへへと照れ笑いを浮かべながらキミカは頭をかく。居たたまれない気持ちになったクロはもぞもぞと脚を動かし、少女の胸から脱出する。


「クロにお願いがあるんだよね」と再びクッションに座った猫へキミカ。

「何だ」とぶっきらぼうに黒猫。


「あいさつの練習に付き合ってほしいんだ」

「こんにちはとか、ありがとうございますとか簡単な言葉をクロがわたしの声を聞いて少しずつ修正していくの」

「そうすれば、日常生活で便利だしね。魔法少女である内にマスターしたいんだ」


「……死ぬつもりはないんだな」

「そうだよ、わたしは死ぬときまで死なないよ」胸を張ってキミカ。

「なんだそれ」小さく笑うクロ。


木漏れ日が窓から射しキミカとクロがいる部屋を柔らかく照らす。

耳の聞こえない魔法少女と使い魔の黒猫との奇妙な発声練習。それは二人にとって揺るぎなく残酷である世界に対抗する小さな意思表示だった。


――こんにちは。

――ほんひちわ。


「変だな」

「ひどい! 笑ったでしょ」


「口が開いてないんだ。人間の真似をするから見ろ」口を大きく開けてクロ。

「……ヘンなカオ」じーっとその様子を眺めてからキミカ。


「お前なあ」

「ごめんねクロ、もう一度」


――ありがとう、キミカ。

――あいあとお、ひいか。


「クロ、今なんて言った?」きょとんとする少女。

「何でもない」そっぽを向く黒猫。


そむけた猫の眼にうつる世界はそれでも変わらなかった。


魔獣が現れれば、少女は命を天秤にかけた嵐の中に飛び立っていく。世界の根底にある冷たいルールからは誰も逃げられない。


ただ、今だけは彼女と彼女を取り巻く暖かい日常という風景の中でたゆたっていたいと黒猫は思った。


問い詰めるキミカを無視してクロは小さい伸びをした。

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黄色、水彩。手に触れるのは かにミサイル @kanatawashi

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