第10話 狭霧と暁
「どういうつもりだ、月の宮」
二人きりになると、月の神巫が握っていた手を鬱陶しそうに払って、日の神巫は顔をしかめた。あら、と麗しい唇が残念そうな声を紡ぐ。
「御津地から天の巫女は出さないと決めたのではなかったのか」
「えぇ、もちろんそのつもりだったわ、日の宮」
邪気のない笑顔でふわりと月の神巫が笑う。
「それより貴方、知っていて? 暁がとても熱心に選儀を見ていたわ」
「知っている。アイツ今にも射殺しそうな目で俺を見ていたぞ。思わず剣を抜きそうになった」
「まぁ怖い」
全部知っていたろうに、月の神巫はさもおかしそうにコロコロ笑う。
「それで? まさかお気に入りの子供が気の毒であの巫女を通したのではないだろう?」
「えぇ。私の愛しい日の宮の檻をそんな理由で壊すものですか」
「では何故?」
問うと、ふっと月の双眸が細められた。下弦の月のように緩やかなカーブを描いた口元はそのままに、その声音が不意に凍てついたように温度を失くす。
「だってあの子、龍を降ろしたのですもの──」
◇◆◇
──彼女が的を射た瞬間、沸き上がったのは望外の喜びだった。
早足で龍穴を囲う森の中を進んでいると、後ろから騒々しく暁を追いかける足音が聞こえてきた。
「待って! 待ってったら!」
聞き慣れた声。男性と違って女性は声変わりがないから、彼女の声は今も昔も聞いていたものとほとんど変わりはなかった。
きっと儀式が終わり、挨拶もそこそこに奥殿を飛び出してきたのだろう。木々の合間を縫って飛ぶように走ってきた少女が、去ろうとしていた暁の青い衣の裾を強い力で引いた。
「暁!」
「…………」
立ち止まった暁に安心してか、狭霧は背後で荒い息を整えていた。その間、暁は黙ったままだった。まるで去られるのを怖がるように裾を握る力が強くなったのが分かって、その事に胸の奥が締め付けられた。
(敬語を忘れている)
尊称もだ。
それくらい必死で自分を追ってきた事が分かって、嬉しさと申し訳なさで心臓が潰れそうになる。
儀式を、見ていた。
今日の儀式は内々の物だったが、元々龍宮内の警備を担うのは龍士だ。龍士を纏める立場であり、天の氏族でもある暁は立ち入り禁止とされる儀礼の場に入っても咎められる事はない。
そして彼女が、不可能に等しい二つの的を射抜くのを見た。
二人の神巫が御津地の巫女を通すはずがなかった。実際それはあまりに悪辣な儀式だった。
狭霧がどれだけ傷ついたとしても、仕方がない事だと納得していた。彼女は郷へ帰る。それで良いのだと。
だけど──。
きっとどこかで期待をしていた。
狭霧はいつだって白夜にとって奇跡みたいな毎日を運んできた人だったから。
だから不可能と思われたことを彼女がやり遂げた時、驚きよりも、何よりも喜びが先に立った。喜んでしまった自分を、許せなかった。
「……あ! ごめんなさい!」
己の無礼な振る舞いに気付いたのだろう。ハッとして狭霧が握った衣の裾を離した。そしてこちらを伺うように見上げてくる。
「その、暁様が、ご覧になられてるのが見えて……。いえ実際には見えたわけじゃ無いんですけれど……」
そんな風に顔色を窺わないでほしい。
自分勝手にそんな事を思う。
どうか昔みたいに、手放しで、喜んで。
それ見たことかと笑って、嬉しそうに笑顔を、向けて──。
「……暁でいい」
気付けば言葉は勝手に出ていた。
「敬語もいらない。二人の時は、それでいい」
背を向けたまま、早口で告げる。
「昔のままで、いい」
元々君に、敬語なんて使ってほしくなかった。
『白夜』として君と過ごした日々は『暁』にとっての奇跡だったのだ。
二度と手に入らない、夢のような時間だった。
だからもう一度、一目会えただけでも、これ以上ないくらいの幸運だ。それ以上を望んではいけない。そう思っていた。
(だけど君はきっと──)
そんなの知ったことか、と言うのだろう。
狭霧はあの約束を夢にしようとしなかった。奇跡だと尊ぶこともしなかった。自分の力で『白夜』に会いにきて、自分を覚えてもいないフリをする『暁』のそばにいることを自らの力で勝ち取った。
(それならばもう、何に抗えというんだ……)
ゆっくりと振り返ると、狭霧が信じられないように目を見開いて暁を見ていた。
どれだけ時が経っても。
彼女は昔のまま。
その瞳の色は、自由を描く空の色だった。
「……っ」
その手を、たまらずに引き寄せる。
抵抗はなかった。今までの事を思えばあまりに簡単に、少女の身体は暁の腕におさまった。記憶よりずっと少女の身体は小さくて一瞬困惑する。いや、当たり前だ。自分の背はこの五年で随分伸びたのだから。
抵抗もなくすっぽりと収まった狭霧の背中に手を回して、閉じ込めた。
狭霧が息を呑んだのが分かった。
だけどそんな事もうどうでもいい。絞り出すように暁は呟いた。
「……危ないことを、しないで欲しいんだ……」
◇◆◇
息を呑んだ。
抱きしめられた瞬間、嘘みたいに鼓動が跳ねたから。
ただでさえ必死で追いかけて捕まえたのに、今までが嘘みたいにいきなり呼び捨てで良いとか敬語はいらないとか、暁が言うから。
昔のままでいい、と言うから。
背中に回った腕の力が強いことに混乱する。
昔だってふざけて抱きついたり、白夜が寂しい時は抱きしめたりしていたから慣れていたはずだった。だけどあの時は狭霧が本気になれば、いつでも逃れる事ができた。
それなのに。
抵抗しなくても今は自分の力ではどうにもできない事が分かる。
昔と全然勝手が違う。
こんなの聞いていない、と頭が沸騰しそうになって──。
「……危ないことを、しないで欲しいんだ……」
そんな時、絞り出すように暁が漏らした言葉に、狭霧は我に返った。
暁の手が震えている事に気付く。それはいつか狭霧が馬から落ちた時、帰り道に自分の手を握っていた少年の手を思い出させた。
(傷つけた……?)
途端に不安が押し寄せた。
どうしよう、と今度は別の混乱で頭が真っ白になる。
悔しい事にあの頃から自分はちっとも成長していないのだ。
あの時も今も、この子がどうしてこんなに傷ついているのか、狭霧にはちっとも分からないままだ。
何か言おうとして、『それは私のせいではないわ』と反論してしまう。
「そもそも選儀が危ない事だなんて誰も思わないじゃない。きちんと的を射抜いたのに斬られそうになるだなんて。誰だってそんなこと思わないわよ」
そんなことが言いたい訳じゃないのに、狭霧の口からは言い訳みたいな言葉しか出てこなかった。
昔はどうやって仲直りしたんだっけ、と思い出そうとしても思考がまとまらない。
(だって昔はちゃんと顔が見えたもの)
顔が見えたから、何を考えているか少しくらいは分かった。だけど今は暁が離してくれないから、どんな表情をしているかも分からない。
ギュッと目をつぶる。
「はなして……」
抗議するつもりで言った言葉は、酷くか弱い声になった。
「……っ!」
だけど弾かれたように暁は狭霧の身体を引き離した。そんな慌てなくても良いのに、勢いよく離されて慌てたように『ごめん』と暁が言う。
その様子に狭霧の方が驚いた。
「そんなに必死に謝らなくても良いけれど……」
何だか狭霧の方もバツが悪くなってしまう。
「……」
「……」
沈黙が降りて、どうしたらいいかますます分からなくなってしまう。白夜と一緒にいて沈黙が苦になった事なんてなかった。いや、そもそも一緒にいた時は狭霧がずっと話していたから沈黙になること自体がなかったのだけれど。
やがて戸惑ったように、ポツリと暁が呟いた。
「……どうして、こんなところまで来たんだ」
沈黙が気まずいからって、流石にあんまりな言葉だった。
「どうしてって……」
狭霧の声が震える。
暁も自身の失言を悟ったのかハッとする。だけどもう遅かった。
(どうしても何もない。そんな事決まっているじゃない)
あの夜にだってきちんと告げたはずだ。
燻っていた感情が爆発した。顔を上げてキッと目の前の青年を睨みつける。
「そんなの、貴方に会いに来たに決まっているでしょう!」
狭霧にとっては当たり前の返事だったのに、暁は度肝を抜かれたようにポカンとしている。その事に余計に腹が立った。
「急にいなくなるから! 何も言わずにいなくなるから会いに来たの!」
どれだけ悲しんだと思っているんだ。
悲しむどころか、名を口にする事すら次第に出来なくなった。恨み言すらぶち撒けられずに、ただ五年間ひたすら修行に打ち込んできた。
「その為だけに巫女になったの! 大嫌いな修行だって頑張ったわ。さっきだって怖くて震えそうだったけれど、頑張ったのよ!」
「こわ、かったのか……?」
「当たり前でしょう!」
あの人間離れした二人の神巫を相手に、物怖じせずにいられる人間なんていない。その上今にも首を落とされそうだったのだ。
「その、君は少しも動じていなかったから……」
「強がったに決まってるでしょう! 貴方私をその辺の大木か何かだと思ってるの⁉︎」
狭霧が食いつくと、まさか、と暁が必死で否定する。
一度決壊するともうダメだった。ぐっと込み上げたものが飲み下せない。への字に口を結んだまま、緊張が解けたように涙がポロポロとこぼれ落ちた。
その事に暁がギョッとしたのが分かる。
「狭霧……」
「……選儀、通ったわ」
「知ってる」
「私、頑張ったのよ」
「うん」
「とっても、頑張ったの」
涙を拭いもせずに、挑むように目の前の青年をキッと見上げる。
「貴方のそばに、いられるの」
少なくともこれから二年は、狭霧は彼の近くにいることを許される。
許されたのだ。
「……うん」
暁が遠慮がちに衣の袖で狭霧の目元を拭う。
そっと、暁の手が狭霧の手を握った。昔と違って、その手はすっぽりと狭霧の手を握り込んでしまう。
「ごめん……。本当に、ごめん」
怒らせるつもりじゃなかったんだ、と暁が溢す。
「だけど分からなくて。どうして、そこまでして君は……」
「そんなの決まってるでしょう」
理由はたくさんある。だけど根っこは一つだけだ。
「ずっとそばにいる、って約束したからよ」
その約束のためだけに、狭霧はここにいる。
はじめからずっと、一人きりだと悲しむ白夜を一人にさせないために。
その為に、狭霧はここにいるのだ。
暁は驚いて狭霧を見つめていた。
けれど、その表情が、不意に緩む。
「……君は本当に考えなしだ」
昔狭霧を許してくれたように、柔らかく、笑う。
「……嬉しくない?」
その声音が優しい事に安堵して、狭霧は恐る恐る尋ねた。
実のところ今になって不安になっていたのだ。今の暁にとって狭霧は邪魔なのではないかと。天の巫女の資格を勝ち取って今更だけれど、彼が望まないならそばにいても意味がない。
「いや、嬉しい」
だけど杞憂だった。
嬉しそうに笑って、暁はコツリと狭霧の額に自分の額をつけた。
「君が会いにきてくれてどんなに嬉しいか、言い表せる言葉がない。ここにいてくれて嬉しい。二度と会わないと思っていたのに……。情けないけれど、本当に嬉しいんだ」
狭霧、と暁の声が名を呼ぶ。
「僕はもう白夜ではないよ。ただの白夜ではいられない。暁には負うものがたくさんあるし、あの時にはもう戻れないんだ。それでも君は──」
「良いわ」
即答した。
貴方が嫌ではないのなら、そんなの問題じゃない。
「貴方が暁でも白夜でも私はどちらでも良いの。一緒にいると言ったのだから。ずっとそばにいる、って言ったのだから」
「……君は、本当に」
そっと暁の右手が、狭霧の頬を撫でる。
ようやく白夜に会えた気がした。暁の目が優しい事が嬉しくて、それはまるで昔に戻ったかのようで。
「そばにいるわ」
狭霧も晴れやかな気持ちで笑う。
「だって私たち、家族ですもの!」
勢い込んで言った言葉に、急に暁がピタリと動きを止めた。狭霧の手を包んでいた暁の手が強張る気配がする。
「…………」
「…………」
凍りついたように沈黙が落ちた。
「…………え?」
「え?」
間の抜けた声を出した暁をキョトンとして見つめ返す。
一体何だと言うのだ。
何でそんな意外な顔をしているのだ。
(もしかして五年も会わなかったから家族ではないと思われたと思ったのかしら? それとも本当の家族がここにいるから?)
そんな訳がないのに、と狭霧はムッとする。
「あのね、暁。私は貴方が暁だろうと白夜だろうとどちらでもいいの。一緒に過ごした日々がなくなる訳ではないのだし。今は貴方に血のつながった家族がいるのも分かっているけれど、私たちも確かに家族だった訳でしょう? 五年の空白なんて別に問題じゃないわ」
「……そう言う意味じゃない」
「じゃあどう言う意味なのよ」
「いや……確かに君は巫女だから……。でも……今までのは……え、もしかして今までの言葉全部……本当に……?」
「暁?」
本当にどうしたと言うのだろう。頭痛を訴えるように暁が空いた手で眉間を押さえている。
そこでハッと気付いた。今の狭霧は任期付きなのだ。
「大丈夫よ。今回もどうにかなったのだし、次もどうにかなるわ」
「……次?」
「二年の任期が心配なのでしょう。でも実力を認められれば、そのまま留まる事は出来るし平気よ。きっと何とかしてみせ……」
「二年でいい」
勢いよく遮られた。
「二年で十分だ」
「何よそれ!」
せっかく人がずっと一緒にいられる方法を考えていると言うのに、何て失礼なのだろう。
「何でそんなこと言うの! そんな風に育てた覚えはないわ!」
「僕を育ててくれたのは君ではなく父様と母様だよ。それから狭霧。念の為言っておくけれど、その態度は二人きりの時だけにするように」
「さっきまで泣きそうだったくせに何でいきなりそんな冷たくなるのよ!」
そろそろ仕事に戻らないと、と暁が飄々と口にする。その淡白な対応にムカムカしてしまう。そういえば昔からこの幼なじみは少しも動じない事で有名だった。彼が感情を出すのはいつだって狭霧の前だけだ。
ふっと白夜が笑った。
「また会いに行く。近い内に」
(もう……)
ズルいんだから、と思う。
そうやって彼が嬉しそうに微笑むのは自分にだけだと分かっているから、すぐに溜飲が下がってしまう。
スルリと握られていた手が離れたことが、心細く感じて戸惑った。子供じゃあるまいし、と恥ずかしくなる。
下を向いた狭霧の頭に、不意にポン、と暁が手を乗せた。
「言い忘れていた。選儀、おめでとう」
悔しいことに、暁にそう言われると嬉しかった。現金だと分かって、うん、と笑うと、暁もかすかに笑って今度こそ背を向けた。
その背中は、木々に紛れてすぐに見えなくなった。
(……通ったんだわ)
改めて、そう思う。
ようやく手に届く場所に来たことを実感する。
追い出されなくて済む。この後も狭霧は都に、龍宮に留まることが出来るのだ。
(よし!)
暁はああ言ったけれど、出来る限りずっとそばにいられるように頑張ろう。
その時遠くから神官が狭霧を呼ぶ声が聞こえてきた。そう言えば、この後住む場所の移動や仕事について話があると言われていた気がする。ちょっと用事が、と言って駆け出した狭霧を探していたのだろう。
声を上げて、狭霧も暁の消えた方向とは逆方向に走り出した。
(──約束したもの)
- - -
『大丈夫。狭霧がずっと、一緒にいてあげる』
何度も髪を梳きながらそう繰り返す。
幼い白夜はそれでも不安そうに口を開く。
『でももし、それでも一緒にいられなくなったら?』
キョトンとする。
そんなの決まっている。
大丈夫、と力強く狭霧は答えた。
『その時は国中探して、狭霧が白夜を見つけてあげるから!』
これはそう言う約束。
貴方が寂しくないために。
貴方が一人きりにならないために。
ずっと、一緒にいてあげる──。
天ツ水の巫女 yukiha @wintertale
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