第9話 選巫の儀
選巫の儀は祝いの儀と同様、奥殿で行われた。
前回と違うのは、今回儀式を受けるのは狭霧一人だけで、また本来閉ざされているはずの戸が全て取り払われていた事だろう。
奥殿は内々の儀礼で使われることが多く、本殿ほどではないにしろ広さがある。縁と内部の間を仕切る全ての戸が取り払われているため、まるで龍穴を囲う森の中に招き入れられるようだった。
(何故戸を開け放したのかしら?)
不審に思うが、問うて答えが返ってくるものでもあるまい。
白い儀礼衣を身につけて、神官に誘われるがままに奥殿に上がる階段を登ると、同じく儀礼衣を纏った神官が幾人か立ち並んでいる。
手前に立つ神儀官の顔に浮かぶ渋面を見て、自分が原因ではあるが狭霧は申し訳なくなった。
(十年前から行われていなかった儀式をするのだもの。余計な仕事を増やしたようなものだわ)
せめてもの申し訳なさを示すように、立ち止まって深く礼をする。
儀式の間に足を踏み入れると、狭霧の正面、龍穴のある方向を背にして日の神巫と月の神巫が寄り添うように立っていた。
木漏れ日がチラチラと二人の金糸と銀糸の髪の上で揺れている。二人が立ち並ぶ姿は人ならざる美しさがあった。
ゆっくりと歩み寄ると、二人の前で狭霧は足を折る。そのまま膝をつくと、二人の神巫に向かって深く拝礼した。
日の神巫が一歩、前へ出る。
「この儀は汝の巫女たる資質を問う儀である」
朗々とした声だった。
「龍の巫女たる汝を、天の氏族たる我らが天に仕えるに能うかを見定める儀である。主は今代の神巫である日の宮と月の宮が務めよう」
「其の名を」
歌うように月の神巫が日の神巫のあとを次いで尋ねる。
「上御津地の狭霧でございます」
「表を上げよ」
言われるがままに顔を上げる。厳しい目をした日の神巫とは正反対に、月の神巫はたおやかな笑みを浮かべて狭霧を見ている。
(何をするのだろう……)
今回の儀式に臨むにあたって、実を言うと郷の大巫女様に過去の選儀の内容は聞いていた。元々は龍神に奉納する舞や祝詞、問答など教えてもらったものは一通りこなせるようになっている。
だが今回案内された奥殿は見事に、何も手掛かりになるようなものがない。ヒントとなりそうなのはそれこそ全ての戸が取り払われている事くらいだろうか。だがそれにいったい何の意味があると言うのだろう。
狭霧の視線の意図を察したのだろう。ふっと日の神巫は頬を緩めると『ここに』と神官を呼んだ。
そうして数人の神官が恭しく手に持ってきたものを見て、狭霧は目を見開いた。
(弓──?)
「そう驚くこともあるまい。巫女とて邪気を払う時には矢を打つこともある」
日の神巫は笑って、神官の一人が白布に載せて差し出した透き通った玉を片手でつまむと狭霧の目の前に掲げてみせる。ちょうど子どもの握り拳くらいの大きさの玉だ。
龍が残した物が宝玉であったことから、御玉は天ツ水の神事で大なり小なり一番重用されている神具だ。もちろん普段使われている物は、この二人の神巫が守る宝玉の足元にも及ぶべくもないが。
「この御玉は龍宮に寄る邪気を宮内に入れず吸わせるために、龍宮の外壁に配置してあるものでな。魔除けの御玉はその性質ゆえ、定期的に浄化が必要になる。これは間も無く浄化が必要な物だ」
日の神巫の視線が先ほど狭霧が視線を向けていた台の方を指す。釣られてそちらを向くと、台の上にはいつの間にか、三つの台座と二つの御玉が置かれていた。
「今からあそこに御玉を並べる。其方には弓と破魔の矢を一本やろう」
「……!」
意図を察して、弾かれたように日の神巫の方を見ると、日の神巫は楽しそうに笑う。
「その通りだ。其方にはこの殿の端から、向こうの端にある三つの御玉の内より、邪気を
「……なっ」
思わず声が溢れる。
奥殿は本殿と比べると狭いが、それでも十分な広さがある。日の神巫が言う端から端の距離は、確かに矢を射るには非常識な距離ではない。
普通の巫女であれば矢など射たこともないだろうから無茶だが、幸い狭霧は例外だ。勝算はある。
問題は的だ。
的は日の神巫の手の中に収まるほどの御玉であり、撃ち砕けと言われてもそれ程の威力がたかが一本の矢にあるものか。
加えて、邪気のまとった玉を当てろと言うことは的がどれであるか狭霧に教えるつもりなどないということだろう。
「……どうやって当てた玉を判断するおつもりですか」
見事射抜いたとして、それはハズレだ、などと言われてしまえばたまったものではない。そう思って口にすると、月の神巫がスルリと懐から一つの玉を持ち出した。
日の神巫が持つ小さな御玉とは比べ物にならない、繊細な細工の台座にのせられた美しい宝玉だった。
(月の御玉……?)
天へ昇った龍が残したという宝玉の片割れ。そんな二つとない宝を何食わぬ顔で持ち出した月の神巫が可憐な唇を開く。
「月の御玉は陰の力を巡らせるもの。その御玉に邪気があれば暴いてしまうの」
月の神巫の手元に日の神巫が小さな御玉をかざした。途端に小さな玉の色が変化した。透き通った透明から、禍々しい紫へと。
日の神巫がもう一つ懐から御玉を取り出した。そちらをかざしてみるが、何も起こらない。
「お分かりになって?」
これはもう、頷くしかなかった。
ここで意を唱えよう物なら、神巫が、強いては天の氏族の持つ神器の正当性を問うことになってしまう。流石にそれが得策ではないことは狭霧にも分かる。
「其方に渡した矢は破魔の矢だ。其方に我らが仕える龍の巫女たる資格があるのであれば、必ずや的を射抜くだろう」
そう言って、日の神巫は薄く笑った。
◇◆◇
儀式の準備は、速やかに行われた。
狭霧の纏う儀礼衣は弓を射るには重かったが、文句を言える立場ではないだろう。
手渡された弓と矢は見たところ何か細工がしてあるでもない。逆に言うと、渡された矢が破魔の矢だと言われたとて狭霧には何も感じられない、と言う事でもあった。
(だからといって、これがインチキだなどと言うことは出来ないわ)
選巫の儀は二人の神巫により判断を下されるものだ。その内容も、今代の神巫が決める。今までは昔からの慣例を外れる事はなかったが、今代の神巫は御津地の巫女から天の巫女を出す気がないらしい。
(初めから、私を通す気はないのね)
きっとこの儀式自体が茶番なのだ、と薄々気付いていた。何せこの儀式には幾つもの
まず、儀式の内容に普通の巫女には引けない弓を選んだこと。
矢は破魔の矢で、資格さえあれば必ず矢が導くはずだなどと言われてしまえば、巫女は頷かざるを得ない。否定することは己に神に仕える資格がないと言うようなものだから。
二つ目、弓を引けたとして的が小さい。ただ引けるだけではあのような小さな的を射ることは難しい。その上、打ち破れと来た。破魔の矢として渡された矢はただの矢だ。ヒビを入れるのがせいぜいだろう。
三つ目、邪気のこもった玉など神具もなしに見抜ける訳がない。奇跡が起きて、矢が勝手に飛んでいく事などないのだ。
(……諦めろ、と言う事なのかしら)
ここに来て、弱気が狭霧の中に首をもたげていた。大丈夫だ、とあれだけ偉そうにあの子に言っておいて、結局このざまだ。
狭霧を見る神官達の目は皆白い。日の神巫と月の神巫だけがどこか面白そうなのは、馬鹿にしているからだろうか。
急に足元が頼りなくなった心地がした。
ここにいて、自分が一人であることを実感する。
(だけど……)
諦めたくなかった。
(だって貴方、今でもずっと一人ぼっちみたいな顔をしてるのだもの)
再会した白夜が満ち足りていたのなら、狭霧は怒りながらも諦められただろう。きっと帰り道たくさん風早に当たってしまったかもしれないけれど、今の状況を受け入れて弓を引けたかもしれない。
だけどそうじゃなかった。
あの子は今でも布団の中で怯えていたあの子のまま、ここにいる。隠すのがとても上手になっただけで。
奥歯を噛みしめる。
ギュッと左手に持った弓を握りしめた。遠くに映る三つの玉はどれも同じに見えて、狭霧には違いが分からない。
だけどやはり、諦めることは出来なくて。
(──お願い)
縋るように、狭霧はぎゅっと目を閉じた。
(お願いよ、神様──)
────
その時、不意に周囲の空気が変わった。違和感を感じて、狭霧は目を開ける。見えるのは変わり映えのしない板張りの床だ。だけど──。
────
────
声は聞こえなかった。
ただその気配は狭霧にとって慣れ親しんだものだった。幼い頃から共にあった声。あの声と同じ気配が、今狭霧の周囲に下りていた。
いや、幼い頃感じたよりもずっと鮮明で、鮮やかな色を付けたように身体にすっと流れ込む。
それは清らかで流れるような水の気配だった。
生き生きとした生命を吹き込む空の息吹だった。
────
「どうした、上御津地の巫女。怖気付いたか」
日の神巫の試すような声が耳に届く。だけど狭霧はそれに答えなかった。否、狭霧の耳にはその声は聞こえていなかったのだ。
ただ、見えない何かに導かれるように右手が矢を手にする。ゆっくりと床を踏みしめ、右手を弦にかける。
視界が役に立たないことを悟って目を閉じた。閉じた視界の彼方で、紫の炎がチラチラと揺らめている。
ぽつ、ぽつ。
(──二つ)
儀式を悪辣だと思っていたが、もう一つ隠し玉があったらしい。邪気をまとった御玉は一つと日の神巫は言ったが、それも嘘だ。もし奇跡が起きて狭霧が御玉を射ても、まだ一つ邪気の纏った御玉は残っているのだから。
息を吸う。
取り込んだ空気が身体を清めていくようだ。それ自体が生命をもった息吹のように身体中を巡り、指の先端まで清浄な気で満たしていく。
────
────
大丈夫。
応えて、身の内に宿った流れに身を委ねる。ゆっくりとした動作で弓を打ち起こし、前後に引き分けていく。力強く。余分なものはなく、全ての動作が自然だった。
巡る流れが収束するその瞬間、そうある事が当たり前であるように、狭霧は矢を放った。吸い込まれるように矢が一直線に飛んだ。
直後、何かが砕けるような鋭い音が高く堂に響いた。
「──っは」
詰めていた息を吐き出した途端、ドッと疲れが押し寄せた。視界が戻ってくる。締め切った戸を一気に開いたように、周囲の音が怒涛に耳に流れ込んできた。
場が騒然としていた。
「どう言うことだ。玉が二つ割れたぞ!」
「当たったのは右の物だけだ。だが左端の玉も同時に割れたのだ!」
「そんなはずがない! 何か細工がしてあったに違いない…!」
ハッ、ハッ、と自分の物とは思えない粗い呼気の音がする。カラン、と音を立てて弓が落ちた。力が抜けたのだ。
視界がガクリと揺れて、気付けば狭霧はその場に膝をついていた。
「……二つ、とも?」
掠れた声で呟く。言葉通り、狭霧の視界から見える遠くの台座には真ん中にぽつりと御玉が残されているのみだった。
「……はは」
掠れた笑いが漏れた。
(──ありがとう)
もうあの声の気配はどこにもなかった。だけど確信がある。助けてくれたのはあの声だ。幼い頃から狭霧と共にあった、あの声の主が、狭霧に力を貸してくれたのだ。
と、顔を伏せた狭霧の元へ近づく気配があった。
狭霧が顔を上げるのと、その真正面に抜き身の剣が突きつけられたのはほぼ同時だった。
憤っていて尚、猛々しく美しい日の神巫がそこに立っていた。
「──何をした」
「え?」
その表情が明らかに憤っているのを見てとって、初めて狭霧は今の状況が歓迎されていないことに気付く。
ザワついていた神官達が、日の神巫の行動で波を打ったように静まっていく。
「御玉が二つとも割れるなど……普通の人間に出来る事ではない」
「……渡していただいた破魔の矢のお陰ではないのですか? 私が相応しいのであればそう為るとおっしゃったのは日の宮さまです」
ハッと狭霧をバカにしたように日の神巫が笑う。
「私が用意した邪気を纏った御玉は一つだ。二つ割れた事をどう説明するつもりだ?」
「それは……」
本当は二つだったではないか、と言いかけて口をつぐむ。それでは元からこの選儀に不正があったと告発するようなものだ。たとえ真実だとしても、許される事ではない。
(……結局のところ何をしてもこちらの負けではないの)
だが不正をしたのはそちらだ。割れたのがそう在るべき御玉だと言う事は日の神巫が一番分かっているはずではないか。口には出さずにその意思を含めて真正面から、相手の目を見返す。
「元々、十年行われていないという選儀を進言してきたのも我らを
「何を……!」
流石に言いがかりが過ぎる。睨みつけた狭霧を嗤うように、日の神巫が突きつけていた剣を持ち上げた。
「お前が禍ツ魂であると言うのなら、この場で斬り捨てたほうが……」
「ねぇ、日の宮」
と、おっとりとした声が、場を割った。
それは大きな声ではなかったのに、堂の中に何よりもはっきりと響く。美しい鈴の音のような、清浄の声。
振り向いた日の神巫の視線の先で、月の神巫はたおやかに微笑んでいた。今目の前で日の神巫が儀礼の場で剣を振り上げていることなど全く気にもかけず、神具である月の宝珠を胸に抱いている。
「残った御玉は穢れていなかったわ」
「……それがどうした」
「私達は穢れた御玉を打ち破ることで、巫女たる資質を狭霧に問うた。確かに砕けた御玉は二つ。だけども結果を見れば狭霧はやり遂げたのでない?」
近づいてきた月の神巫が美しい指で日の神巫が振り上げた刃をそっとつまむ。まるで幼子をあやすように『ねぇ日の宮』と月の声が響いた。
「猛々しい貴方。貴方の燃えるような光を私は愛おしく思うけれど、それは魅せるものであって人を焼くものではないわ。ただ美しいだけで良いのよ」
「……お前はまた回りくどいことを」
「まぁ。ではどうかいつも美しくあって、と」
興が削がれた、と日の神巫は剣を下ろすと鞘にしまう。そして地べたに座り込んだままの狭霧を鷹揚に見下ろした。
「上御津地の狭霧」
「はい」
「我らは巫女たる資質を汝に問うた。汝は見事にこれに応えてみせた」
予想外の言葉にポカンとして狭霧は二人の神巫を見上げる。日の神巫に寄り添う月の神巫が穏やかに微笑んだ。
「よってこの儀を以て、汝を天の巫女に任ずる」
先程とは打って変わった、淡々とした声で日の神巫が告げる。
現実が追いついてこない。
呆然としたまま、狭霧は二人の神巫を見上げる。
(認められた──?)
どうして日の神巫が急に言い分を変えたのかは分からない。されど、一度言ったことを翻すようなことは流石にしまい。
狭霧は、認められたのだ。
「……っ、はい!」
改めて居住まいを正すと、狭霧は深く二人に礼をした。
「謹んで拝命いたします!」
日の神巫がフンと鼻を鳴らした。
二人の儀礼衣の裾が揺れて、頭を下げた狭霧の視界から消える。顔を上げると、二人の神巫はこれ以上何を言うでもなく、奥殿を去っていく。その背に向かってもう一度、狭霧は深く頭を下げた。
その視界の隅に。
(あれ──?)
いるはずのない青い衣が尾を引いたのが、かすかに見えた。
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