第8話 暁


 目を閉じると、いつも最初に浮かぶのは空の色だ。

 

 自分を覗き込む大きな空色の瞳。今にも涙が溢れそうなその瞳はゆらゆらと揺れていて、初めて見た時とても綺麗だと思った。

 

『ずっと一緒にいてあげる』


 そう言って布団の中で手を握ってくれた少女の温もりを、ずっと覚えている。

 

 だけど。

 暁はあの日その手を離すことを選んだ。彼女を想って、と言うと耳障りが良いが結局は自分のためだった。

 振り払われるより、自分から手を離した方が傷つかないから。

 

『郷にいた事は忘れなさい』


 五年ぶりに会った龍帝は静かにそう口にした。


『お前の名は今も昔も、暁だ』


 ──だから暁にとって、それは都合のいい誰かの夢でしかない。




   ◇◆◇




 ここ数日の龍宮では、にわかに浮き足立った空気が流れていた。


 原因ははっきりとしている。

 十年ぶりに催される選巫の儀が原因だ。

 

 実のところ、現在いる二人の神巫が立ってから選巫の儀が行われるのは初めてのことだった。儀式の詳細は神巫が独自に決めるからどう言った儀式になるかも、ようと知れない。

 もちろん参加できるのはごく一部だが、あまり変化のない龍宮では、ちょっとした催し物然となっているのは否めない。


 光が立つと、相反するように影が立つ。

 

 目立った話題がある時は人の注意が逸れやすく、その隙を狙って大胆な行動に移るものもいる。それが分かっているから、暁は龍士達にいつもより注意を怠らないようにと告げていたし、自分もそのように務めていた。

 

 そうして見回りをする中で、暁が不審な影を見つけたのは夜半のことだった。



「何をしている」



 鋭い声に、わずかに影がブレたのが分かった。

 闇に滲む黒い装束。それが天の氏族に仕える狼のものだと分かっても、暁は驚かなかった。


 姿を隠す事はすぐに諦めたのだろう。

 ゆらりと揺らいだ影は、そのまま暁にかしずくように、膝を折った。抜いた刀をピタリと首筋に当てても、狼は沈黙を守ったまま頭を垂れている。

 

 狼がいた場所は龍宮の奥殿にある書庫だった。神事の記録などが管理されているその部屋は、平生であればあまり近づく人間はいない。見張りも奥殿に配備されて数人がいるだけなので、身軽な狼であれば入り込むのは簡単だろう。

 

「顔を上げろ」


 命じられて顔を上げた狼は年若かった。

 実のところ狼は天の氏族全体ではなく、個々の主人に仕えるものだ。目の前の狼は暁のものではないはずだが、不思議と見覚えがないと言うほどでもない。


「どこの者だ」

「……今は上御津地の狭霧に付いています、龍士長」


 不意打ちで聞いた一人の少女の名に、一瞬暁は動揺した。

 

 狭霧。

 十年ぶりに選巫の儀を受ける事になった、上御津地の巫女。


 それから──。

 

 雑念を打ち払う。同時に、狭霧の名を持つ巫女に剣を向けた日のことを思い出した。あの時狭霧の前に出て庇った狼は、確かこの少年ではなかったか?


「こんな所で何をしている?」


 尋ねると、狼は『調べ物を』とだけ答える。


「調べ物? 確かに奥殿の記録の閲覧には許可が必要だが、お前の主人が誰にしろ天の氏族であれば許可は下りよう。何故こんな……」


 回りくどいことをするのだ、と言おうとして言葉を切った。それはきっと、調べていること自体を気取られたくはないからだ。

 

 天の氏族とて一枚岩ではない。天ツ水を治めるのは龍帝だが、今代の神巫達との関係は不透明だと聞く。

 神事の記録を隠れて確認するのであれば、この狼は神巫達の手の者ではないだろう。


 少年狼は黙って沙汰を待つように、暁の言葉を待っていた。暁は小さく息をつくと、剣を下ろした。


「今回のことは不問にしよう」


 意外だったのか少年狼がかすかに目を開く。


「ただ、頼みがある」

「何なりと」

「今お前がついている巫女を出来るだけ助けてやってくれ。今回の選儀の件で要らぬ妬みを買っているようだから。御津地に帰った時に、天の巫女の不出来をそしられては氏族の面目が立たない」


 白夜の言葉に今度こそ狼は意外だと言うように目を瞬かせた。


「どうした?」

「……いえ」

「咎めはしない。何が言いたい?」


 戯れでなく本心だった。

 この狼は今彼女のそばに一番近しい。ここで意図して狭霧の名を出したのであれば、その名が持つ意味を知っている可能性が高い。つまり『白夜』の事を聞いている可能性だ。

 

 少年狼は少し迷って、口を開く。


「貴方の言い方はまるで……、狭霧が選巫の儀を通らないことを確信しているようです」

「……あぁ」


 当然のことを聞くのだな、と思った。

 『白夜』の話を持ち出すような馬鹿でなくて良かったと、同時に安堵する。そうであれば先の言葉を翻して切り捨てることも考えなくてはいけなかった。

 

「今回の選儀は月の神巫の戯れだ。御津地から天に巫女を引き入れることはない。それが今の神巫達の方針だ」

「御津地の介入をいとうてるからですか?」

「そうは思っていないという口ぶりだな」

「……狭霧に言われたのです。御津地の巫女は天の氏族に仕えるものだと幼い頃から教え込まれて育つから、余程身の程を弁えていると」


 今度は暁が驚かされる番だった。

 狼の言葉に驚いたのではない。その言葉を言ったのが他でもない狭霧だと言うことに驚いたのだ。


 確かに政への介入を嫌がるなら、教えを受けない有力者の子供を入れる方が余程危ない。だから理由になり得ない。

 

 御津地の巫女を都から遠ざける原因は他にある。

 

 狭霧がそこまでたどり着いているかどうかは怪しいが、少なくともこの狼は──狼の主人は思っているのだ。

 

 改めて暁は狼の姿をしげしげと見下ろした。まだ年若いものの、言葉を選ぶ賢さを持っている。暁に対する口調も丁寧ではあるが、ハッキリとしていて、恐らく普段はもっと気さくな性格なのだろうと思わせた。

 

(彼女とは、気が合うかもしれないな)

 

 知らずそんな考えが浮かぶ。それならきっと帰りの旅路も、ただ悲嘆に暮れたものにはならないかもしれない。


「……頼んだことを忘れないでくれ」


 これ以上話していても、お互い話せる事は限られているのだからと暁は会話を打ち切った。向こうもわかっているのか、礼をするとすぐに立ち去った。


 トン、と扉に背を預けて暁は天井を仰ぐ。


 思うように思考が回らない。

 今日だけじゃない。もうここ数日、ずっとだ。


『大事な人なの』


 あの夜、聞いた言葉が蘇る。


『その人を探しに都まで来たの』


 ぐっと拳を握りしめた。


(嫌ってくれれば、良かったんだ)


 一番刃を向けたくない人に、刃を向けた。

 誰だ、と問うた時に、呆然としたように暁を見上げた空色の瞳が頭にこびりついて離れない。

 

(薄情な奴だと憤って、帰ってくれれば)


 そうなることを願っていた。

 

 忘れなければいけない記憶だった。

 自分には勿体無い、美しい夢だった。

 その日々の中心にいたのは、いつだって一人の女の子で──。


(本当は、会えて、嬉しかったんだ──)


 だからもう良いじゃないか、と自分に言い聞かせる。

 選巫の儀は決して御津地の巫女を選ばない。狭霧が通らないことは決まっている。

 

 それでいい。

 否、そうでなくてはいけない。 


 だけど──。


『大丈夫ですよ』


 昨日聞いた少女の声が蘇る。

 暁の迷いを断ち切るように、その声は揺るぎない。

 大丈夫か、と聞いたのは暁なのに、狭霧の声は逆にこちらを案ずるようだった。


 もしかしたら、と願う自分がいる。

 

 彼女が傷つくのは嫌なのに、同時に酷く望んでいる自分もいる事に嫌悪が込み上げる。


『嘘よ。だって貴方は──』


「……君だって嘘つきじゃないか」


 乾いた声が、ポツリとこぼれ落ちる。

 

「巫女にはならないと、あれほど言っていたくせに──」



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