第7話 嫌がらせ


 選巫せんふの儀を行うことが決まってから、狭霧の朝は一変した。

 

 気安く口を聞いていた御津地の巫女達は、選巫の儀を行うと言ってから誰一人として狭霧と口を聞いてくれなくなったし、何より皆早々に都を出立してしまった。


 代わりに嫌がらせのように異臭のするゴミが部屋の前に打ち捨てられるようになった。 

 巫女のお務めは何ら変わる事はなかったが、そのゴミの始末の為今までより幾分か早起きしなくてはいけなくなったのだ。

 

「朝から馬糞を集めるのも大変なことだと言うのに、随分ご苦労なことだな」

「見ているなら手伝ってくれてもいいじゃない」


 水源が豊富な天ツ水では水はケチるものではないが、余分の桶がある訳でもない。毎回井戸まで往復しなくてはならないのは、狭霧も億劫だった。

 

 握り飯を片手に定位置となった狭霧の部屋の小上がりに腰掛けて、風早は『嫌なこった』と笑う。


「オレは言ってやっただろ。大人しく帰った方がいいって。御津地の巫女と違って、天の巫女は競争が激しいんだ。そこに余所者が入ってくるとなっちゃ、見習い達はこぞって足を引っ張りたくもなるさ」

「だからといってやる事が汚いのよ。こんな所に打ち捨てるなら畑にでも撒けば良い肥料になるのに。嫌になっちゃうわ」


 唇を尖らせると、風早がケラケラ笑った。


「びっくりするほど堪えてないな。こりゃ確かに無駄な行為だ」

「笑ってないで手伝って」


 ピシャリと言って、桶を風早の目の前につき出す。


「ついでに汚れを拭えそうな大きな葉っぱがあったら取って来てちょうだい。選巫の儀まであと五日もあるのに毎朝になったら困るわ。布は勿体無くて使えないし」

「本当に変なやつだな、お前は」


 そう言いながらも風早は桶を受け取って立ち上がった。どうやら水汲みはしてくれるらしい。

 軽い足取りで出ていく風早の背を見送って、狭霧はため息をついた。子どもみたい、と小さな声で呟く。

 

(仮にも龍神様にお仕えしようと言う人が、こんな嫌がらせをしていてどうするの。入る前から天の巫女の品性を疑うことになるじゃない)


 ────

   ────

 

 不意に耳元で何かが聞こえた気がして狭霧は顔を上げた。間違いなくそれは声だった。


(どこ……?)


 気配を手繰るように呆然と中空を見つめていると、突然横っ面に衝撃を受けた。

 

「きゃっ!」


 パラパラと湿った砂粒が落ちていくのを視界にとらえる。どうやら土の塊のようなものを投げつけられたらしい。


「やだ! 外すつもりだったのに当たったわ!」

「やっぱり土と相性がいいのよ。何せ土塊つちくれの巫女なのだし」


 廊下の壁際でキャッキャと笑う声に、狭霧は右頬で弾けた泥を拭って声の方を向いて眉根を寄せた。

 何しろ今泥団子と思しき物体を投げつけたのはどう見ても十にもうすぐ届くかくらいの童達だったからだ。


「貴女達、ここは御津地の巫女の宿所よ。こんな事をしていいと思っているの?」


 汚れを拭って立ち上がると、クスクスと笑って女童めのわらわ達は子どもとは思えない笑みを浮かべる。


「土の巫女が何か言ってるわ。ここにはだぁれも貴方の味方なんていないのに」

「汚れたなら綺麗にすればいいじゃない。あなたのお仕事でしょ?」


 呆れて物も言えない。

 確かに宿所の掃除は今ここに泊まっている狭霧の仕事だ。だが本来、悪意を持って壁や地面を汚す輩などいないはずで、日々の掃除はちょっとした掃き掃除くらいのものだ。泥掃除とはかかる時間も手間も全く違う。

 

 きっとこの女童達は修行中の天の巫女達の世話係か何かなのだろう。

 天の巫女に見習いとして入る女達は有力者の娘や役人の娘達も多いと聞く。己の身の回りの世話を任せる人間を幾人か連れていてもおかしくはない。


(自分の手も汚さないのね。やり方が汚いったら……)


 郷であればゲンコツの一発でも見舞ってやりたいところだが、神聖な龍宮で童を追い回すのも気が引ける。

 

「姉様が言っていたのよ。御津地は土塊の巫女だから、土に親しむものだって」

「地を這うものが天への憧れを持つのは当然だけれど、飛べはしないのだから身の程を知れって」

「大地は生命を育むものよ」


 代わりに落ち着いた声で狭霧は言葉を返した。


 子供のしたことだ。命じたものは別にいるのだから、責める気もない。だけれど、一応龍に仕えるものとして間違った教えを当然のように振りかざす事はいさめねばならない。

 

「空を縄張りとする物達には羽を休める場所もお腹を満たす実りも必要でしょう。天の巫女は天ツ水の神事を司っているけれど、御津地の巫女より偉い訳では決してないのよ。私たちの上に立つのは天の氏族であってお前達の主人ではないわ」


 恵みというのは常に巡るものだ。

 お互いへの感謝と祈りを忘れては、神事は立ち行かない。

 

「こんな事をしてはあなた達の主人に穢れを呼ぶでしょう。その汚れた手を今すぐ清めていらっしゃい」


 そう冷たく促すと、女童は途端に気まずそうに顔を見合わせた。そうして自身の手を見下ろすと、急に怖くなったのかパッと身を翻した。

 パタパタと足音が遠ざかっていくのを聞きながら、頬についた泥をもう一度拭って狭霧は小さくため息をつく。

 

 思いの外頬も髪も汚れている。

 これではもう一度顔を洗い直さなければいけないだろう。


(お務めに間に合えばいいのだけど)


 そう思って、狭霧は肩を落とした。




   ◇◆◇




 夕刻になり、宿所に帰ってくるとやはりまた狭霧の部屋の前は泥で汚れていた。馬糞でないだけマシだが、それでも片付けるのに時間はかかる。


(全く、懲りないものね。いえ、懲りないのは彼女達に命じていた人達なんでしょうけれど)


 何回かの往復でようやく泥を流し切って、狭霧は最後の一杯を下げたまま宿所の外壁にもたれて息をついた。


(都で御津地が馬鹿にされているとは知らなかったわ)


 郷では御津地の氏族は尊ばれる存在だった。

 上御津地が神事を担当する地域は比較的広く、狭霧も見習いとして幾つかの郷を回ったが、気安さはあっても無礼な態度を取るものなどいなかった。

 

 都である天ノ宮では御津地は遠い存在なのかもしれない。

 

 天を仰ぐと、空はかすかに茜と薄紫を描いている。

 思った以上に身体が疲れていた。じきに日が沈むだろうから、その前に身の回りを片付けて眠ってしまいたい。

 

 その時──。

 

 

「どうしたんだ?」



 不意に気遣うような声をかけられて、狭霧は振り返った。

 目にはいった鮮やかな青の衣に、目を瞬かせる。びゃく、と言いかけてすぐに口を閉じる。

 

「こんばんは、暁様」


 努めて明るく微笑むと、暁は眉根を寄せた。

 

 驚いた。自分が白夜の声に気付かないなんて。

 そう思ったけれど、詮無い事だとすぐに思い直す。

 

(別れた時の白夜は声変わりがまだだったもの。気付かないのは当然ね)


「質問に答えていない」

「どうしたのか、ですか? 掃除をしていました。それだけです」


 憮然とした抗議に、平然と答えを返す。

 嘘はついていない。

 

「こんな時間に?」

「住む場所はいつでも綺麗な方が嬉しいものですよ。暁様はどうして? 私には関わりたくないものだと思っていたのに」


 暁は狭霧のことなど知らないのだから、声をかけずに通り過ぎればよかったのだ。それなのに暁は口篭って、その、と歯切れの悪い口調でボソリと呟いた。


「……泣いているかと、思ったんだ」

「え?」


 意外な言葉にキョトンとする。

 

 そして唐突に思い出す。

 狭霧は昔からよく泣く子供ではあったが、悔しい時はうつむくのではなく空を仰いで泣くのを堪えていた。下を向いたら涙がこぼれ落ちてしまいそうだったから。


(もう……)


 こみあげるものがあって、狭霧は知らず笑みを浮かべていた。

 こちらを見る暁の方が余程泣きたくなるような顔をしている。知らないふりをするなら徹底してそうすれば良いのに、それが出来ない。


 貴方は、優しいから。


 本当はすぐにそばにいって抱きしめたかった。ここに来るまでどれ程狭霧が苦労したか、一つ一つ話して聞かせたかった。黙って出て行ったことを怒って引っ叩いてやろうと思っていたのに、いざ目の前にすると愛しさ以外の何も残らない事が酷くおかしい。


 暁は狭霧に近づこうとしなかった。暁と狭霧の間には狭霧の足で五歩分くらいの距離がある。お互い手を伸ばしても決して届かないこの距離が、そのまま今の暁と狭霧の距離なのだろう。


 だから狭霧は、その距離を縮めるために足掻こうと思う。


(貴方が近づけないなら、私が貴方に近づけば良いのでしょう)


 白夜と狭霧ではなく、暁と狭霧として。

 そばにいてあげる、と言った約束を、狭霧は決して忘れていない。

 

「大丈夫ですよ」


 やんわりと暁の言葉を否定すると、暁は何か言いたげに顔を歪めた。その顔を見るに、何となく狭霧の事情は察しているのだろう。その証拠に、少し黙った後に暁は硬い声を出した。


「……君が選巫の儀を受けると言ったのは当然の権利だ。その事でもし君が不当な扱いを受けているなら」

「結構です」


 ピシャリと白夜の言葉を遮ると、豆鉄砲を喰らったみたいに暁が黙った。冷たかっただろうか、と思ってもう少し声を和らげる。


「私そこまで物知らずではないのですよ、暁様。貴方は龍士長。兵の管理は神事ではなく大きくまつりごとの部類でしょう。対して巫女は神儀官の管轄ですから、こちらに口を差し挟むのはきっと簡単じゃないはず。しかも龍帝陛下の甥子ともあろう方が、たかだか御津地の巫女一人のことでだなんて」


 図星なのか暁が黙る。しかし、と口にしたのを『大丈夫です』ともう一度笑顔で遮った。


「私はそんなに柔ではありません。でも心配して下さったのは有難いです」


 そう言って壁から身体を離す。


「ではまた」


 にっこり笑ってその場を辞すことにする。

 あまり一緒にいると幼い頃に引き戻されたような感覚になるのだ。もっと気安く、接してしまいそうになる。


 暁はそれ以上声をかけてこなかった。

 それでいい。あまり優しくされると、狭霧だって頼りたくなるのだから。

 

 

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