第6話 二人の神巫
三日後、祝いの儀の当日がやってきた。
その日朝の務めを終えた狭霧は、自分の部屋に戻るとそこに先客がいる事に気づいた。
「風早」
「ずいぶん落ち着いてるじゃないか」
小上がりに腰掛けた少年狼の姿に、狭霧は『貴方どこへ行ってたの』と苦言を口にする。
「私の御用聞きだと言っておいて、儀式の日まで顔も見せなかったじゃない」
「悪かったよ。困っている様子がないかちょくちょく確認には来てたんだ。顔を見せなかっただけで」
「それは来ていないのと同じことよ」
それで、と風早が笑う。
「案外ちゃんと務めを果たしているじゃないか。大人しく郷に帰る気になったんだな」
「あら、そんな事一言も言ってないわ」
諦めてなどいない。
きちんと務めを果たしているのは、一応上御津地の代表として来ている自覚があるからだ。今日儀式の後に、狭霧は変わらず選巫の儀を受けたいと申し出るつもりだった。
「あの子が私のことを知っていると言えない事情は分かったわ。だけれど、それは私が天の巫女を諦める理由にはならないもの」
あの子は白夜だ。狭霧には分かる。例えば狭霧のことを本当に覚えていなかったとしても構うものか。
「アンタの思い込みの強さはある意味才能だな。例えば本当に他人の空似だったらどうするんだ。生き別れの双子かもしれないぞ」
「まぁ、風早。確かにそれは考えてなかったわ」
狭霧は腕を組むと『そうね……』と真面目に考えてみる。狭霧は暁が白夜であることを確信しているが、証拠があるわけでは無い。もしかしたら別人、という可能性も考えておいた方がいいかも知れない。
「もし本当に他人の空似だったら、それを確信しないといけないわ。それから本物の白夜を探さないと。つまり私はやっぱりここに残らなければいけないのよ」
「お前なぁ……」
「何よ。協力してくれなんて言ってないのだから、いいでしょう。貴方の帰りのお務めを無くしてしまうのは申し訳ないけれど、<狼>ってきっと忙しいんだから一つくらい手が空いた方が良いでしょう?」
「オレが心配してるのは、帰りに落ち込んだお前の相手をしなきゃいけないことだよ」
「相変わらず生意気ね」
ふと思い当たって、狭霧は風早に視線を落とす。
「ねぇ、風早。今は天の巫女に
狭霧の問いに風早は『さぁ』と肩をすくめた。
「ただそもそも御津地の巫女が天の巫女になったとして、任期は二年だろう。十年前から輩出されていないとしたら、もういないんじゃないのか?」
「でも優秀であれば、都に残ることもあるのでしょう?」
「おい、お前今度はオレをジジイかなんかだと思ってないか? 十年前となるとオレはまだ四つだぞ?」
「あらごめんなさい。風早ったら偉そうだからつい……」
でも狭霧には不思議なのだ。
旅の途中で風早が言った通りなら、天の巫女よりも御津地の巫女の方が修行は厳しいという。
それなら外よりも内に優秀な人材を求めるのが普通なのではないだろうか。
「風早。以前貴方は御津地の巫女を天の巫女に入れると影響を受けるから嫌がっている、と言ったわね」
「あぁ」
「ならやっぱり不思議だわ。遠い昔龍神様が天ツ水を託したのは天の氏族であって天の巫女ではなく、ましてや御津地の氏族でもないのよ。私達は天の氏族を支えるためにいるのだと、幼い頃から厳しく教えられているわ。言うなれば身の程を
だって彼らは産まれた時から神の恐ろしさも、天の氏族の使命も聞かされていないのだから。
「龍宮の神事を取りまとめる神巫様は、代々天の氏族から選ばれるわ。神巫様の神事における影響力は唯一無二のものよ。天の巫女になったからと言って、その根幹を揺るがしたりなどできるものですか。
実際昔は御津地からも何人も巫女が都へ昇っていた。婆様も十年近く天の巫女として龍神様にお仕えしていた人なのよ。それがどうしていきなり今みたいな事になったのかしら? 権力を弾きたいなら、有力者の子女を入れるなんて最も嫌いそうじゃない」
「…………」
「……風早?」
黙ったままの風早に声をかけると『いや……』と風早は言葉を濁した。確かに狭霧の言った通りだな、と呟いて何か考え込むように風早は黙る。
(何か気の障る事を言ってしまったかしら……?)
心配になって風早の顔を覗き込もうとすると、風早は急に顔を上げてニッと笑った。
「まぁ、何にせよ昨日の今日でお前の選巫の儀が受け入れられるわけじゃないからな。しっかり断られてこいよ」
「まぁ。貴方ったら憎まれ口ばっかりね」
呆れちゃうわ、と言って、狭霧は部屋に上がる。
「そういえば風早は<狼>なのだから、当然龍宮に詳しいわよね」
<狼>は天の氏族の隠密のような役割も果たしていると聞く。そんな彼らはきっと龍宮の内部に関しても龍士と同じくらい詳しいだろう。
当然、風早は狭霧の問いに頷いた。
「当然だろう。熟知しておかないと仕事にならない」
「それなら本殿の奥には何があるのか知っている?」
声の聞こえたあの晩、狭霧は気付けば本殿に足を踏み入れていた。あれ以来声は聞こえていないから、結局声がどこへ狭霧を誘おうとしていたのかはわからない。
だけど元より声は言葉で情報を伝えようとはしていない。声が導こうとしていたのはもっと奥だ。
果たして風早は、分かりきったことを聞くんだな、と答えた。
「本殿の奥にあるのは当然、
◇◆◇
龍穴とは、その昔天の氏族に天ツ水を託した龍神が空へ昇る時に出来たと言われる大穴のことだ。
天の氏族は代々この大穴を守っていると言っていい。
本殿の奥には龍穴がある、と風早は言ったが言葉通りの位置ではない。
龍穴の周りには鬱蒼とした木々が生い茂り、あたかも森のような様相を成しているのだ。森は奥深く、本殿から龍穴の様子は拝む事も出来ない。
だが、声の言った目的地が龍穴であったのであれば狭霧は何もしなくても良かった。何故なら狭霧は祝いの儀で龍穴を訪れることが決まっていたからである。
御津地の巫女達の祝いの儀は、龍穴の北側に位置する奥殿で行われた。本殿は龍穴を囲う森から抜けて建っているが、奥殿は森の半ばに建っている。
龍宮は静かだったが、奥殿はもっと静かだった。
今年昇宮した巫女は狭霧を合わせて三名で、彼女らとはすでに宿所で顔を合わせているが、口を聞ける雰囲気ではない。
他人の吐息の音さえ耳に届くような静けさが、奥殿には満ちていた。
昼でも奥殿の中は薄暗く、篝火が煌々と燃えている。その空間だけ外部から切り取られたように異質で、神気の漂う清涼な森の中から、まるで生き物の腹の中に入るような心地がした。
その真ん中に。
一人の女性が座っていた。
凡そ人とは思えない美しい銀色の髪が背中を滑り床の上に流れ落ちている。あたかもそれは水の流れのように美しい流線を書いていた。
月の神巫。
現在の月の神巫は龍帝の妹だという。狭霧達と同じ年の子を持っていても不思議ではない歳のはずだが、少しもそうは見えない。
そういえば、と狭霧は思う。
白夜──暁は龍帝の妹御の息子だと風早は言っていた。龍帝にはかつて双子の妹がいた。一人は龍帝が寵愛していたと言われている娘ですでに亡くなっている。彼女がきっと暁の母親だろう。そしてもう一人が、月の神巫。つまり彼女は暁の叔母にあたるのだ。
意識してみれば確かに月の神巫の横顔は、白夜に似ているようにも思える。
じっとその横顔を注視していたからだろうか。顔を伏せていた月の神巫の瞳が不意に狭霧を向いた。
「……っ」
笑った。
場の雰囲気に押されている狭霧を嗤う訳でも、かと言って安堵させるわけでもない。まるで秘密を共有したことを確認するように。
その仕草は、やはりあの晩床下に狭霧がいた事に気付いていたのだと思わせた。
元々儀式を嫌う狭霧だったが、祝いの儀は苦痛ではなかった。
ともすれば眠気を覚える
まるで空から星が振るように、言葉より声が鮮明に耳に残る。
琴の音でもここまで繊細な楽は紡げまいという星降る音色。
祝詞以外の言葉は不要とでも言うように、月の神巫は言葉を発さなかった。決められた詞以外の儀式の全ては
龍宮の中で神儀を司る神儀官は月の神巫の前では、衛士と変わらぬ取るに足らないものとして扱われているように思えた。
儀式が終わると、狭霧達はようやく龍穴へと案内された。
滑るような足取りで森の中を進んでいく月の神巫の後ろを狭霧達は付いていく。鬱蒼とした森はどこまでも続くかに思われたが、唐突に森は途切れた。
「──わぁ」
思わず声を押さられなかったのは狭霧だけではなかった。狭霧と共に儀式を受けた二人の巫女も同じように声を漏らして、目の前の光景を眺めていた。
開けた森の先に、龍穴がある。
向こう岸までどれ程あるのだろうか。本殿が丸ごとすっぽり入ってしまいそうな大穴の中心から、本来であればあり得ない方向に水柱が伸びていた。
空に昇る龍を追うように伸びる水の柱。
穴の底から噴き上がっていると見える水柱の高さは、森を覆う木々の高さくらいだ。水飛沫を撒き散らすこともなく、表面はまるで
現実にはあり得ない空へ昇る水柱、これを天ツ水の人々は『
「驚いただろう」
と、場に明朗な声が響いて狭霧は声の方を向いた。白い衣を纏い、輝く金の髪を後ろで高く束ねた人物が狭霧達の方へ歩いてくる。
その人物が誰なのか理解するのにしばらくかかった。
だがこの天ツ水で金色の髪を持つ人物は一人だけ。
日の神巫のみだ。
狭霧が戸惑ったのも無理はない。日の神巫が身につけていたのは、月の神巫が身につけているような儀式装束ではなく、官位にある役人が着るような股下の分かれた衣装だったから。
「毎回これが楽しみなのだ。楚々としていた巫女達が、この大穴を見て阿呆のように口を開ける姿がな」
快活に笑う日の神巫の言葉には一切の嫌味がなかった。
大口を開けて笑いながら近づいて来た日の神巫は、月の神巫に比べて余程体躯はしっかりしている。郷では大巫女は女性なので忘れがちだが、そういえば今代の日の神巫は男性なのだった。
急いで頭を下げた狭霧達巫女の様子に、構わん、と日の神巫は片手を振ってみせた。
「私のことなどどうでも良い。それよりも逆滝だ。この水柱は決して枯れることはない龍神の加護の証。お前達が仕えるものが何であるかを良く見て帰ることだ」
確かに日の神巫の言う通り、龍穴と天の逆滝は畏敬を憶えるに十分な光景だった。そろそろと頭を上げて、狭霧達は視線を逆滝に戻す。
ただその光景を見つめながら、狭霧は全く別のことを考えていたのだが。
(声が聞こえないわ……)
ここに来たら何か聞けるかと思っていたのだが、当てが外れてしまった。小さく息をついたところで、視界の端で二人の神巫が場を離れようとしているのをとらえた。
考えれば儀式はもう終えたのだから当然だ。この場には神儀官もいるし、帰りは彼が案内してくれるのだろう。だがこの儀式を通して狭霧は悟っていた。
龍神に仕える二人の神巫。
神事に関する発言権は都の神事を取りまとめる神儀官を凌ぐと言われている。
そんな訳がない。見てわかった。神巫は明らかに神儀官より上位の存在だ。彼らの赦しなくては神儀はきっと通らない。
「お待ちください!」
声を上げれば、幸い二人の神巫は足を止めてくれた。
途端に神儀官が『慎みなさい』と声を上げる。だがその神儀官を制したのは、他でもない日の神巫だった。
「よい。我らの足を止めるのであれば相応の理由があろう」
面白そうに日の神巫が笑う。
その場に膝を付き頭を下げると、狭霧は兼ねてより望んでいたことを口にする。
「恐れながら申し上げます。上御津地の狭霧は
瞬間、空気が変わったのがわかった。
ヒリつくような視線をうなじに感じる。それだけで超えてはいけない一線に足を踏み入れた事を自覚した。
その事に臆するよりも先に、苛立ちが先に立った。何故当然の権利を主張するだけで、このような空気になるのか。
「まさか聞いていないのか」
最初に沈黙を割ったのは、神儀官だった。二人の神巫に謝罪しながら、狭霧を引き起こそうとするその手を、やはり日の神巫の声が遮る。
「待て。今ソレと話をしているのは我らだ」
顔を上げていい、と言われて狭霧は恐る恐る顔をあげた。
日の神巫の瞳から快活な光が消えている。代わりに宿った鋭利な光は、狭霧を射抜くようだった。
その瞳を真正面から見つめ返す。
「選巫の儀はもう十年以上行われていない。それが分かっていて口にしたのか」
「はい。私はその為に来たのです」
「何故?」
「上御津地の大巫女様も元々十年以上の天の巫女を務めておりました。私も膝下で龍神様にお仕えしたいと思っております」
もちろん本音は違う。
それでもずっと考えていた言葉は澱みなく狭霧の口から出てきた。日の神巫は値踏みするように狭霧を見て、馬鹿にするように笑った。
「はるばる遠くから来て、巫女の祝いを受けて帰ると言うのに。わざわざその身に不出来を負って帰らずとも良いだろう」
狭霧が選ばれないと確信するような言葉に、流石に狭霧もムッとする。
「それでは初めから認めることはないと言っているようです!」
「やめなさい! 無礼だぞ!」
焦ったように割り込んだ神儀官が狭霧を怒鳴りつける。今度は神儀官を止めることはせず、代わりに日の神巫は鬱陶しそうに片手を振った。
「そんな事は言っていない。ただとても困難だと言っている」
「良いではないの」
と、別の声が場を割った。
「月宮?」
目を剥いたのは日の神巫だ。自分に寄り添う頭ひとつ分低い顔を見下ろして、驚愕の声を上げる。
「何を驚くことがあるの、日の宮。御津地の巫女が選儀を申し出るのは当然の権利でしょう? 貴方は輝く日。
美しい声でその場を一瞬にして支配した月の神巫が、狭霧の方を見て微笑む。
「上御津地の狭霧。望み通り、選巫の儀を行いましょう。だけど日の宮が言った通り、その儀式はとても難解なの。煙る雲の中から
ねぇ、と美しい唇が紡ぐ。
「水のような、風のような貴女。貴女はそれに
クスクスと少女のような声が笑う。
白夜とは違う、無慈悲な月のような銀の目を見返して狭霧は『はい』とはっきりと答える。
「必ず」
「まぁ、楽しみね」
子供のように無邪気にそう言って、月の神巫は狭霧に背を向けた。
日の神巫はため息を付くと、神儀官の方に『手配しておけ』とぞんざいに声をかける。
そうして狭霧の方を一瞥すると、すぐに目線を外して大股で歩いていってしまった。
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