第5話 夜半の声


 宿所までの道順を狭霧はよく覚えいない。

 風早に幼子のように手を引かれて連れて行かれた事は覚えているがそれだけだ。白夜との邂逅はそれくらい狭霧にとってはショックだった。


「本当にアイツが『白夜』なのか?」


 宿所に着いて風早に聞かれるがままに頷くと『マジか……』と何故か風早までショックを受けたように呟く。そしてしばらく考え込むと『狭霧』といささか深刻なトーンで名を呼ばれた。


「龍宮にいる間、アイツが白夜だと言うことは決して誰にも言うな。誰かに問われるような事があれば勘違いだったと言うんだ。オレはしばらく戻らないが、また夕方には戻るから、頼むから面倒な騒ぎは起こしてくれるな」

「……風早まで母様のような事を言うのね」

「色々事情があるんだよ」


 年下のくせに分かった風な口を聞いて、風早は姿を消した。名前の通り風のようにいなくなる。

 

 その後狭霧は巫女の世話係という老婆に龍宮の決まりごとや、明日からのお務めについてを聞いた。上御津地の巫女として来ている以上、着いて早々落胆した姿を見せるわけにもいかず外行き用の顔を貼り付ける。

 

 御津地の宿所は龍宮の東側に位置した。案内された部屋は狭いが個室で、数日滞在する見習いの巫女に対しては随分と良い待遇をされている事は分かった。


 本当はすぐにでも白夜を探しに行きたかった。

 

 だけど風早にも言われた通り不審な行動を取るわけには行かないし、世話係の老婆にも『決してみだりに龍宮を歩き回らないこと』と釘を刺されてしまった。

 

 そんな訳で狭霧は今か今かと風早の帰りを待ち侘びながら、その日を過ごしたのだ。


 風早は、出て行った時と同じに、風のように戻って来た。時刻は言った通り夕刻で、戻るなり狭霧の祝いの儀が三日後に決まった事を教えてくれた。


 天の巫女と御津地の巫女の祝いの儀は別で執り行われる。

 今回の昇宮は狭霧が最後だったようで、狭霧の到着を持って日程が組まれたようであった。この儀式を経ると狭霧は龍の巫女として認められ、御津地の巫女を務めることが出来るようになる。


「それで、どうして白夜の事を黙っていてと言ったの?」


 必要事項を聞き終わるなり、食いつくように尋ねた狭霧に風早は顔をしかめた。

 

「慎みという言葉を知らないのかアンタは。その為だけに待ってたって顔に書いてあるぞ。可愛げがないやつだな」

「年下に可愛げがあると思われなくても結構よ。このままだと貴方はきっと何も教えてくれないでしょう。だけど私が聞けば答えられる範囲で答えてくれると思うもの。貴方は職務に忠実だけど、同時にとても情に厚い人だから」


 狭霧の言葉に風早が豆鉄砲を喰らったみたいな顔をした。


「何でそう思うんだ?」

「それこそ色々よ。例えば最初に名を聞いたときに、風早は青竹や山鳩の名も一緒に答えたこととか」


 本来従者の名など言わなくてもいいことだ。

 青竹と山鳩は狭霧だけでなく風早にも一定の距離を保ち言葉遣いも丁寧だったから、ともすればあの道程のみの付き合いだったかもしれない。

 だから名を答えたということは、風早が彼らの存在を雑に扱っていなかったということだ。


「それに白夜と出会ったときも私を庇ってくれたのだし。悪い人だと思わないのは当然じゃない?」

「……驚いた。案外よく他人を見てるな、アンタ」

「少しは見直した?」

「少しは」


 苦笑をこぼして、風早は履き物を脱がないまでも小上がりに腰を下ろす。それを了承と見て、狭霧は聞きたいことを尋ねた。


「それでどうして黙っていなくてはならなかったの? 白夜の事、龍士長りゅうじちょうって貴方は言ってたけれど」

「秘密でもないことは話してやるよ。龍士長は宮を守る龍士の取りまとめのことだ。龍士は分かる?」

「龍宮に仕える衛士のことでしょう?」

「そうだ。正確にいうと天の氏族に直属で仕える衛士の事だな。都には龍士以外の衛士もいる。龍士長は天の氏族、大抵龍帝の血縁から選ばれる」

「血縁?」


 聞き捨てならない単語を拾って狭霧は顔をしかめた。

 龍帝は天の氏族の長であり、天ツ水を治める主だ。その言葉が正しいなら白夜は、天ツ水を治める天の氏族の親族ということになる。

 

 風早が意地の悪い笑みを浮かべた。


「これで黙ってろって言った意味が分かったか? 現在の龍士長は龍帝陛下の甥子だよ。陛下が元々溺愛していた妹君のご子息で、宮内の派閥争いが原因で陛下が幼い頃よりずっと隠れて庇護していたらしい秘蔵っ子だ」

「そんなのおかしいわ。だって白夜は私と一緒に育ったのだもの!」

「では陛下が嘘をついていると?」

「……!」


 ようやく狭霧にも事情が飲み込めた。

 そういうことだ、と短く言うと、風早が立ち上がる。


「分かったら祝いの儀を受けてそのまま帰れ。ここはお前が思っているほど安全な場所じゃあないよ。無事でいたいなら余計な事は聞かず、大人しくしていることだ」




   ◇◆◇




 ────

 

 ────……り

 

 

 その夜、狭霧は不意に何かに呼ばれた気がして目を覚ました。


(何……?)


 布団から身体を起こして、立ち上がる。

 部屋の中はまだ真っ暗で、どうやらまだ朝と言う訳ではないようだ。変な時間に目が覚めた、と戸を下ろしてもう一度寝直そうとした所で、もう一度、はっきりとした声で名を呼ばれた。

 

 ──……さぎり

 

   ──……いで

 

 今度ははっきりと意味を伴って聞こえた声に、狭霧は目を開ける。

 

(いつもの声?)

 

 どうしてこんな所で。

 

 思った言葉を呑み込む。代わりに狭霧は寝巻きに着ていた淡色の小袖の上に、上掛けを適当に羽織ると、裸足に草履を突っかけて外へ出た。

 

 辺りはシンとしていた。

 狭霧と同じ宿所にいる御津地の巫女達もこの時間は寝静まっているようだ。宿所となっている建物からそっと抜け出す。

 

 空には下弦の月が薄い雲の向こうでかすかに光っていた。やはりまだ夜明けには遠いようだ。


 風早に『大人しくしていろ』と言われた事はもちろん覚えていた。だけどそれ以上に狭霧はその声を無視することができなかったのだ。


(白夜に出会わせてくれたのも、この声だったもの)


 十になった時、声のことを狭霧は白夜にだけは話していた。だけど白夜は眉根を寄せた後に『誰にも言わない方がいい』と声を潜めた。

 

『君を信じていない訳じゃないよ。だけど目に見えない者の声は聞いてはいけない、と日頃から言われているだろう。母様や婆様はきっとよく思わない』

 

 それは間違いなく狭霧を心配する言葉であったから、狭霧は大人しく頷いた。

 

 実を言うと狭霧は、この時まで声の主が上御津地に宿る土地神様の物ではないかと思っていたのだ。天ツ水は龍神様の国だけれども、郷には他にも小さな社がたくさんあるし、古くからの土地神様も祀られている。母様の言うような禍ツ魂まがつたまの声と言うには、その声は悪意を持っていないように思われたし、実際危険な目にあったことはなかったから。


 だけど今聞こえると言うことは、少なくとも声は郷の土地神様ではないのだ。

 

 ──……おいで。

 

 目を閉じて、狭霧は内に響く声に導かれるように龍宮を進んだ。郷にいた頃と違って、行く道は清い水脈を辿るように鮮明で、狭霧は迷わずに足を進めていく。


 不思議と人には会わなかった。


 水の気配は濃厚で、鼻の奥にツンとくるような清浄な空気が肺を満たす。 

 水面に持ち上がる泡の音さえ、今なら聞こえる気がした。

 

 その時──。

 

「何をしている」


 鋭い声に狭霧はハッと我に返った。

 視界の端に篝火かがりびを捉えて、狭霧は弾かれたように声の方を振り返った。声の主の姿を目に入れて、狭霧は思わず目を見開いた。

 

「びゃく……」

「……っ、こっちへ」


 名前を呼ぶ前に強く手を引かれた。言い訳をする暇さえなく、昼に狭霧を知らないと言った青年は、狭霧の身体を外廊下の床下に乱暴に押し込んだ。

 何をするの、と声をあげる狭霧が口をつぐんだのは、まるで狭霧を隠すように青年が前に立ったからだ。


「暁」


 直後、およそ人とは思えぬなまめかしく美しい声が夜を割った。


「月宮様」


 青年の声に、狭霧は思わず両手で自分の口を押さえた。

 

 月宮。

 つまり今狭霧の頭上にいる方は、龍神に仕える最高位の神巫だ。都の神事を取りまとめるのは龍帝に任命された神儀官であるが、天ツ水の儀式の核を担うのは天の氏族から輩出される二人の神巫である。


 月の神巫と日の神巫。

 

 この二人の存在がなくては、都の儀式は立ち行かない。

 神巫はその時間のほとんどを神と向き合っている為、儀式の時でないと姿を表さないと聞くが、その月の神巫が歩いていると言うことは狭霧はいつの間にか龍宮の深部に来てしまったのかもしれない。


 床下から見える景色は、整えられた庭ばかりで自分の居場所はわからない。ただ狭霧の知らない場所である事は間違いないだろう。いつの間に、一体どこまで自分は来てしまったのだと己の不明を恥じた。

 

 そうしている間にも月の神巫と青年の会話は頭上で続いていた。


「こんな夜更けに何を?」

「夜番を」


 短く青年が答えると、クスクスと笑い声が聞こえる。その声は老成した老婆のものにも、うら若き少女のもののようにも聞こえた。


「朝の日が夜の番を? それとも今夜のお前は暁つ星あかつぼしなのかしら?」

「三ツ刻には下がります。月宮様こそこのような夜更けに本殿へ御用でしょうか?」

「夜は私の時間だから。歩みを止めなければ龍が可惜夜あたらよに招いてくれるかも……」


 そこで不自然に月の神巫は言葉を切った。


「だけど残念なことに、今宵招かれたのは私ではなくお前のよう」

「……行く先があるのであれば、お供いたします。龍宮内とはいえ、このような夜半に供も連れずに独りで歩かれるのは危ない」

「月はいつでも一人きりよ。どうか邪魔をしないで、可愛い暁つ星。私もお前を隠したりはしないから」


 クスクスと笑い声。狭霧の頭上の床がただ一度だけかすかに軋んだ。後はスルスルと蛇が這うよりもわずかな絹音が頭上で遠ざかっていく。

 ドクドク、と狭霧の胸の内で心臓が酷く大きな音を立てていた。

 

 気付かれていた。

 

 月の神巫の言葉は謎かけのように不鮮明だったのに、何故かそう感じた。彼女は狭霧の存在が分かっていて見逃したのだ、とそう感じた。


 しばらくすると、青年が狭霧に出てくるよう声をかけた。そろそろと床下から這い出すと、狭霧の姿を見た青年が眉根を寄せた。


「何を考えたらそんな格好で外へ出てくる気になるんだ」

「……あ、あなたが無理やり押し込んだからでしょう?」


 床下に押し込まれたから当然の話だが、狭霧の衣服は土で汚れていた。突っ込まれた時に何かが頭に引っかかったので、多分蜘蛛の巣もかかっているかもしれない。


「……そうじゃない」


 青年は軽く首を振って、狭霧に歩み寄るとぞんざいに狭霧の髪に付いている蜘蛛の巣や汚れを払った。


「君は昼間の巫女だろう。最初の質問に答えてくれ。こんな所で何をしているんだ?」

「それは……」


 答える言葉を持たなくて口篭ってしまう。不思議な声に釣られてきたので、とはとてもじゃないが言い出せない。目の前にいるのが白夜であれば、洗いざらい話すのだけど。


「あの、その前にここはどこか聞いてもいい?」

「まさか知らずに来たのか?」


 青年が今度こそ呆れたような声を出した。昼間に引き続き、これでは頭のおかしい人間だと思われるのも時間の問題だ。


「ここは龍宮の本殿だ。夜間はあまり人はいないが、悪い気や禍ツ魂を寄せつけないため火を絶やさないから、夜は龍士が交代で警備をしているんだが……。流石にここまで侵入されては、御津地の巫女とはいえ何も聞かずに帰す訳にはいかない」


 青年の口調は詰問しているようではあったが、その裏でいたわりが多分に含まれているのを感じた。そのわずかな優しさが、白夜に繋がる細い糸のようで狭霧は懐かしさで胸が痛む。


(ただの感傷かしら。さっきからこの人は一度も私を知っている素振りを見せないのだから)


 その一瞬の懐かしさにくらんで、狭霧は気付けば事実を話していた。声に釣られて来たのだと。


「声?」

「幼い頃から聞こえるの。郷の土地神様だと思っていたのだけど違ったのね。もしくは都にも土地神さまがいるのかしら?」

「……見えない者の声を聞いてはいけない」


 ふっと青年の声が低くなった。

 驚いて顔を上げると、厳しい視線と目が合った。ビクリと身を震わせると、青年はかぶりを振って『その事は二度と口にしてはいけない』と言った。


「当に龍は天へと昇り、目に見えず人の耳に届くのは禍ツ魂の暗い誘いだけだ。そんな事を口にしては祝いの儀すら受けれずに郷に帰ることになる」


 送ろう、と短く青年が言う。


「大人しく宿所に戻って、儀式まで余計なことはせずにいるんだ。そうすれば君は巫女として認められて郷に帰れるから」


 青年が狭霧の横を通り過ぎる。

 突き放しているようでいて、相手を労る気持ちが隠し通せない、その甘さ。その優しさに、思い知る。

 

 この子は、白夜だ。

 

「白夜」

 

 呼んでも青年は振り返らない。その事に落胆する訳でもなく、狭霧は後を急いで追うと後ろではなく隣に並ぶ。


「私のことを突き放しているの?」

「何?」

「聞いたの。貴方が陛下の甥だって」


 横目で見上げると、青年は小さくため息をつく。


「分かっててそんな口の利き方をしていたのか。ほとほと呆れるよ。昼間も言ったが、私は君のことなど知らない」

「嘘よ。だって貴方は……」

「暁」


 名を遮られて、代わりに先ほど月の神巫が呼んでいた名を青年が口にする。


「白夜などという名前ではない。私の名は暁だ」

「……それなら暁でいいわ。だけど貴方は私が知る男の子によく似ているの。人を傷つけることが嫌いで、自然と相手を庇ってしまうような言葉を選ぶ所も」


 大事な人なの、と狭霧は呟く。


「その人を探しに都まで来たの。だから貴方に出会った時感極まってしまって、気分を害したならごめんなさい。言葉遣いも……以後気をつけます。暁様」


 気付けば狭霧の見覚えのある通路まで出ていた。

 見送りはここで結構です、と狭霧は暁よりも数歩前に出るとその行く先を遮る。立ち止まった暁の真正面に立って、まっすぐその顔を見つめる。

 

 あぁ。

 

 吐息が溢れる。

 目の前に立つ青年の顔を見て、狭霧の表情は知らずほころんだ。


(やっぱり貴方は、白夜なのよ)


 狭霧を真正面から見据える暁の表情は、まるで親に置いて行かれた幼子のようだった。無防備なその顔を見て抱きしめたくなる。幼い頃のように大丈夫よ、と伝えたいけれど、きっと今の彼はそれを望まないのだろう。


 暁がそのような表情を浮かべたのは一瞬だった。すぐに元の厳しい表情に戻ると、ため息を吐き出す。


「……私は生まれてよりずっと陛下の庇護の元生きてきた。陛下は母上を慈しまれていたし、だからこそ母の残した私を多くの敵から守りたかった。その御心を嘘だと言うのであれば、君だけではなく上御津地全体が罪に問われる事になる」


 それが貴方が何も言わずに郷を離れた原因?

 

 そう尋ねたくなる気持ちを堪える。

 きっと尋ねても答えてはくれないだろう。


(貴方が思っている程、私はもう子供ではないのよ)


 巫女の修行を始めて多くのことを学んだ。元から都へ行くことを決めていた狭霧は、もちろん天の氏族のことも良く調べた。

 だから幼子に向かって言い聞かせるような事をしなくても、狭霧は口を閉じることが出来るのだ。

 

(良いわ。貴方が知らないと言うなら、知らないフリをしてあげる) 


 だから代わりに狭霧は別の事を問う事にした。


「暁という名前は誰が名付け親なの?」


 暁は狭霧の急な問いに一瞬目を丸くしたが、すぐに『母上だ』と諦観とも取れるため息と共に答えた。


「それがどうした」

「いえ。素敵ね。私は貴方の瞳に優しい月の光を見たけれど、きっと貴方の母様は朝を告げる日の光を見たのだわ」


 暁は何も答えなかった。

 その代わりに静かに『もう休むんだ』と口にした。

 

 もちろんそのつもりだ。

 明日は日の出と共に起こされる。後少しくらいは狭霧も寝たい。


「急いで戻れ。もし龍士に見つかったら、御津地の巫女である事はきちんと伝えるように。この辺りであれば眠れずに外に出ていたと言っても通じるだろうから」


 まるで母様のお小言のようだ。

 狭霧は頷くと、その場から離れる。


「おやすみなさい」


 そう告げて狭霧は身を返す。

 

 宿所には幸い誰にも見られずに辿り着けた。

 部屋に着いて汚れた小袖を着替えながら、不意に狭霧が床下から出て来た時に暁が言った『そんな格好で出て来たのか』という言葉を思い出した。


 あの時暁が顔をしかめたのは、汚れではなく寝巻きに上掛けを羽織っただけで出て行ったことが原因ではないかとようやく狭霧は気付いて、恥ずかしさで穴に入りたくなったのだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る