それは蜜入りの
幸まる
スイートポテト
「同室の
領主館の厨房で、下働きのサシャは、低温貯蔵庫から出したばかりの包みを開ける。
中には冷たいバターの塊。
「同室の
広い作業台の上で、生地を麺棒で伸ばしながら、ハイスが尋ねる。
白い調理服を着た背の高い彼は、この厨房の製菓担当調理師の一人だ。
製菓用には、前日から寝かせておくような生地も多く、夕食の片付け以降に翌日用の仕込みをする。
特にハイスは、他の調理師達が明日の仕込みも全て終わった後、今のように静かになった厨房で作業することを好んだ。
サシャは甘いものが大好きなので、日中もハイスの作業を手伝うのが好きだった。
彼の周りは、いつも香ばしい匂いや、甘い香りが漂っていて、それだけで楽しい気持ちになる。
楽しそうに作業を手伝うからか、いつの頃からか、夜の仕込みも手伝って欲しいと頼まれるようになった。
作業は楽しく、ハイスとは同郷で話も合う。
それに、たまに甘いものの味見をさせてくれることもある。
だからサシャは、この夜の時間がとても好きだった。
「エルナは前から、仕入れ業者の人が好きだったの。で、二人きりにしてあげようと思って、昨日栗の皮剥きしてる時に、彼が来るタイミングでちょっと席を外したのね」
「そしたら告白されたって?」
「そう。突然手を握られたんだって。とっても嬉しそうだった」
サシャはバターの塊にナイフを当てる。
パイ生地に織り込む為に、板状に切らねばならない。
「サシャはどうなんだ?」
「どうって?」
「手を握って、告白されたいとか思わないの?」
「別に。だって、好きな人なんていないし……って、何?」
ハイスが突然サシャの手を取ったので、驚いて目を瞬いた。
サシャの丸い指先を
白い打ち粉のついた手は、筋張った職人の手だ。
何事かと視線を上げれば、真剣な蜜色の瞳とぶつかった。
いつも甘い香りに包まれて仕事をしているからか、ハイス自身にも香りが染みているみたいに、ふわりと甘い匂いがした。
サシャは、何となく落ち着かない気持ちになって、必要以上に大きく目を逸らしてしまった。
「…………手、温かくないかと思って。バターが溶けるから、出来るだけ手を冷やして扱って」
「分かったわ」
なぜか手を離した後、ハイスは大きく溜め息をついた。
「どうかした?」
「……いや。手、冷やして」
ハイスは作業台の方へ戻ってしまった。
言われた通り冷たい水に両手を浸して、一瞬ブルと身体を震わせる。
秋深まって、夜は随分と冷えた。
サシャは指先を眺める。
エルナは、仕入れ業者の彼が不意に手を握ってくれて、心臓が跳ねたと言っていた。
ドキリ、と、したのだと。
それはどういう感覚だろうか。
サシャにはよく分からない。
それが恋というものだとしたら、自分にはまだ縁のないものなのだろう。
だって今、ハイスに手を取られても、心臓は跳ねたりしなかった。
ただ、近くに寄った彼の甘い香りが、すぐ離れたのが惜しいと感じただけだ……。
翌日の厨房では、ハイスは何処か不機嫌に見えた。
いつも通り手伝おうとしても、今日は手伝いは要らないと言われ、顔も上げてくれなかった。
仕方がないので、サシャは別の仕事をする。
厨房の下働きには、いくらでも仕事がある。
忙しく動き回り、今日もよく働いたと笑い合って、エルナと遅い
いつも通りの一日。
ただ、大好きな甘い香りをほとんど吸えなかったからか、何だか物足りなかった。
その夜、サシャは厨房に入った。
今夜は手伝って欲しいと言われていなかったが、行けば何かしら手伝うことはあるだろうと思った。
厨房は、ほんのりと甘い湯気が漂っていた。
田舎にいた子供の頃から、慣れ親しんだ秋の香り。
「今夜は
「サシャ」
ハイスが驚いた顔をしたので、何となく視線をそらして鍋の方へ行く。
作業台に置かれた道具で、これから蒸した芋の皮を剥き、裏ごしをするのだと分かった。
「裏ごしするのね? じゃあ、皮剥き手伝うわ」
「今夜は手伝い頼んでないだろう」
「そうだけど、手伝ったら早いでしょ?」
ハイスの声と態度で、歓迎されていないのだと分かったが、サシャは気付かないふりをして芋の入った鍋に近付く。
すんなり帰りたくなかった。
「あつっ!」
「バカッ!」
蒸したての芋は熱いのが分かっていたのに、何を焦っていたのか、サシャは右手を伸ばしてしまった。
焼けた指先を反射的に引いた途端、その右手をハイスに引かれる。
そのまま身体ごとすくい上げられるようにして、水場へ飛ぶように連れて行かれた。
右手を握られたままザブと冷たい水に浸けられて、息が詰まった。
「大丈夫か?……っ、な、泣くなよ。そんなにひどく火傷したのか?」
後ろから抱きしめられたような体勢のまま、顔を覗き込んだハイスが
言われて、涙が溢れていることに気付く。
「ちが……、んん…分かんない……」
涙が止まらなかった。
自分でもよく分からない。
背中からの体温と、甘いいつもの香りに包まれて、ただただ、安心してしまった。
近くにいる。
遠ざけられていない、と。
ハイスはサシャの泣き顔を見て、耳を赤くして脱力した。
「何だよ、サシャ。無自覚なだけだったのか…。俺はてっきり……告白する前に振られたんだと……」
「え?」
振り返ると、間近にはハイスの顔。
「分からなかったのか? 俺、サシャにしか、手伝い頼んでないのに……」
息を呑めば、慣れ親しんだ香りと、ほのかに甘い、蒸した芋の香りが胸を占める。
右手は握られたままだったけれど、胸は、ドキリとはしなかった。
それなのに、胸を占めた香りが呼吸を早くするのだった。
秋の
冷める前に、さあ、恋しい人と口に含んで。
《 終 》
それは蜜入りの 幸まる @karamitu
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