〈後編〉

 何分も前に見たのと同じ風景が見えてくる。でもさっきより空が明るくなっているから、大分印象が違う。



 酒屋さんの隣の細い路地が見えると、トモ君が指を指して大きな声で言う。

「あ! あの道。昔、あの辺でキャッチボールしてて、ボールが路地の横の溝の中に入って探すの大変やったなー」


「トモ君が真っ黒になってて、帰った時おばさんがびっくりしてた時だよね。一体どこを探してたんだろうって思ったよ」


「でも探検してるみたいで楽しかったぞ」




 公園の横を通り掛かると、また叫んだ。

「あ! あの木に昔、よく登ったな。そう言えば木から落ちた時の膝小僧の傷痕、まだ残っとう。結菜ちゃん、商店街セールの風船もらったのに、手を放したすきに風船が舞い上がってあの枝に引っかかった事、あったやん」


「あったね、そういう事。あの時はありがとう」



 スーパーマーケットの近くには、もう働いている人の姿がちらほら見える。

「あの段ボール箱の転がってる所で拾った子猫、今も元気いっぱいでさー。みぃの事」


「あ、そーか。みぃってここで拾われたのかー」



 そんな感じで海岸に近付いた時には、空はもうかなり白っぽくなっていた。


 潮の香りが届きそうな街で、通りには食べ物屋さんも多い。フルーツと書かれた看板があって、おもてに青い蜜柑や黄色い林檎を並べているのが見える。


「やっぱ朝のデザートに果物だよな。ね、おじさん、お腹空いてきた。朝ごはんってどこで食べるん?」


 自分は連れて行ってもらってる方なのに、トモ君はそんな厚かましい事を平気で言っている。


「用意して来てないんだ。仕方ないな。向こうのコンビニでサンドイッチ買ってくるから待ってて」


 そう言うと、パパは公園併設の無料駐車場に停車すると、車を離れた。


「やったー! じゃ、その間ちょっと海の近くを探検しよ。結菜ちゃんも来る?」


「いや、私はここにいる。パパを待ってる」


 ***


 私は一人車に残って、窓から遠くの海を見ていた。トモ君が犬を散歩している親子と何か話し、犬を撫でているのが見える。


 車の中にある時計を見ると、パパが車を離れて十分ほど経つ。私は、五分もしないうちにパパは戻って来ると思っていたから、なかなか帰って来ない事に不安を感じ始めていた。


 私がこんなに不安に感じるようになったのは、一ヶ月前の事。家族が留守のある夕方、物置になっているわが家の階段の裏のスペースで一冊の雑誌を見つけてからだった。

 古新聞の間に挟まれていたけど、そんなに昔の雑誌には見えなかった。パラパラとめくった時、そこにパパの写真を見つけた。ハッとした。写真の下にはK氏と書かれてある。パパの名前は片岡康司なので、名字も名前もイニシャルはK。

 そこに書かれた文章は、私には難し過ぎてよく理解できなかったけど、あまり良いニュースではなさそうだった。「調査している」とか「業務上」という言葉が何度も使われている。

 そう言えば、その一週間位前から、パパとママは私や弟のいない部屋で、しょっちゅう口論するようになっていた。何が理由かは分からない口論。私はその雑誌を見つけた時、ここに書かれている内容が関係しているのではないかとなぜか強く感じた。でも家でその事を口に出して言う勇気がなくて、一人でモヤモヤしていた。

 そんな時、突然釣りをしに海へ行こうとパパが言い出した。わたしは、もしかしたらパパは、もう何もかも嫌になって、私と一緒にどこか遠い街に行こうと考えているんじゃないかと、そんな予感がしていた。

 車に一人残っている今も、このままママにも弟にもあえないまま、どこか外国のような場所で暮らすのかな、と極端な空想をしてはしんみりとして涙を眼に貯めていた。


 そんな時、コツンコツンと窓を叩く音がして、われに返り、音のした方を見ると、窓の向こうには白いヘルメットを被った制服姿の警察官が覗き込んでいる。驚いた私は思わず体をシートに埋めるようにして、身構えた。

 警察官は、慌てるように何かを必死に訴えている。

「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」

 そう言っているようだった。


 警察官の肩越しに、トモ君が海岸の方から死にものぐるいで走って来るのが見える。車を覗き込む警察官の姿を見つけて、焦っているようだ。

 すると今度は運転手側の窓から、コンビニの袋を持ち、息を切らして走ってくるパパの姿が見えた。パパは車のドアを開けて、私の無事を確認した。


「何か……何かあったんですか?」と警察官に向かってパパが言う。


「いえ、女の子が一人で車に残されて、沈んだ様子だったので、確認に来ました」


「スミマセン。こちらはウチの子で、釣りに来たけど、朝食がまだだったから、コンビニへ買いに行ったところです」


「僕もちょっと散歩するつもりで結菜ちゃんの側を離れてしまいました。スミマセン」

 聞かれもしないのに、トモ君はそう言って、警察官に謝っている。まるで刑事ドラマで自白して、反省した様子を見せる犯人みたいに。


「いえ、確認に来ただけですから。ただ子どもを車に残すのは短時間でも危険な事があります。コンビニにも駐車場はあるので、これからは出来るだけ目の行く範囲で用事を済ませるように」


「はい、分かりました」


「ついでに職務質問もさせてもらいますね」


「はい」


 警察官は、パパに名前や住所や勤務先を訊き始めた。トモ君は後部座席であくびを始めた。


「ついでにトランクの中も見せて下さい」


「どうぞ」


 警察官は車の後ろに回り、トランクを開けて、釣り道具を点検した。警察官の動きが一瞬、止まった。

「これは? この麻袋の中を開けてみてもいいですか?」


「えっと、それは……」パパの言葉の歯切れが悪い。

 何なのだろう。パパの意表を突かれたような顔に、私は自分の心臓が氷のように冷たくなるのを感じた。


「は?」という表情の警察官は、うつ向き加減の私の方を見て、「お嬢ちゃん、だいじょうぶだよ」と肩に手を当て、安心させようとした。

「それとも君達は果物を密輸しようとしている家族なのかな?」


「え? 何て言いましたか?」とパパ。


「袋の中には柿がたくさん入っています」


「え、えー!?」


 トモ君が慌てて白状した。「それ、俺の仕業です。食後のデザートにしようと思って、庭の柿をもいで来たんだよ」


「それにしても十個もあるじゃないか!? どれだけ食べる気なんだよ」


 パパは久しぶりに笑っていた。私も笑った。

 警察官を見送り、私達は海岸のベンチに腰掛けた。コンビニのサンドイッチを食べ終わると、袋の中の柿の実を三人でかじった。手の中の果実と同じ色に輝く朝焼けを見つめながら。


 それから年月は過ぎ、わが家の問題、パパが会社の違法な行為に関係してしまったという問題も、ただ罠にかけられただけであると判明し、片付くべき所に片付いた。そのためパパは裁判所に何度も足を運ぶ事になったけど。

 あの日パパはやはりどこか遠くへ行きたいって気持ちに急に駆られ、自分でもよく分からないまま、私を連れて出かけたのだと後から打ち明けた。

 全て片付いたはずなのに、今でもあの釣りに出かけた朝の事を思い出すと、胸のあたりがきゅっと苦しくなり、不安な気持ちと優しい気持ちを同時に思い出す。




「あの朝、スーパーマーケットを通った時、段ボール箱の影からゾンビが現れそうで、ほんと怖かったんだよ」

 そんな昔話をする私に、すっかり大人っぽく頼もしくなった大学生で私の恋人ボーイフレンドのトモ君は、「そんなに怖かったんだ。大丈夫なのに」と優しく言ってくれる。


「ゾンビが現れるのもそれはそれで面白そうだけど」なんて相変わらずの天然キャラっぽい感想付きで。




〈Fin〉


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だいじょうぶだよ 秋色 @autumn-hue

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