だいじょうぶだよ
秋色
〈前編〉
日曜日の朝、突然釣りをしに海へ行こうとパパが言い出した。それでトモ君も誘ったんだけど、それは決して気まぐれでなんかじゃなかったし、トモ君との約束を守らなきゃって義務感からでもなかった。
約束と言っても、特にかしこまったものじゃない。
五月のある昼下がり、車を洗っていたパパに、隣の家の二階の窓から顔を覗かせたトモ君がきいた。
「車、洗ってどっか行くん? 釣り?」
「いや、そんなわけないよ。 釣りに行く時は、夜明け前に出かけるんだから」
「今度おじさんが釣りに行く時、一緒に行っていい?」
「いいよ」
私とトモ君は、生まれた時から、ずっと隣同士の幼なじみだ。トモ君は、一個下でその秋、小五だったけど、小六の私より背はずっと高かった。
私達の性格は真逆で、空想好きで慎重な私に比べ、トモ君は、取っ掛かりが早いと言うか、何にでも足を突っ込んでしまう性格だった。そして失敗しても決してめげない。反面、私は学校でも何か失敗すると、すぐに下を向いてしまう。
結局、釣りの約束は、夏の間じゅう実現する事はなかった。パパの仕事が忙しくて、釣りに行く事が出来なかったからだ。
そして十月最初の日曜日、まだ朝の四時半だった。パパが突然、「結菜、今から釣りに行こう」と私を起こした。
「ママ達は?」
「ママはまだ寝てるし、まだまだ優也は赤ちゃんだろ?」
「ママがまだ寝てるのに行っちゃっていいの?」
「いいよ。ラインのトークにメッセージ残しておくから」
パパの言葉には、断れない雰囲気があった。それで私はTシャツとジーンズに着替えた。その上にパーカーを羽織り、外に出ると、もう準備は出来ていたみたいで、パパの車は、私を乗せ、スッと夜明け前の道を滑り出した。
走り出して二、三分して、パパは「忘れ物があった。すぐに引き返そう」と言う。私はちょっとホッとしていた。
なぜならこの何分間かはすごく息苦しい時間だったから。
車内では会話がなくて、と言うか話しかけちゃいけないモードで、ピリピリとした空気が張り詰めていた。
ちょっと前までは仲良し親子、仲良し家族だったのに、最近はパパは考え事をしてばかりで、仮面を被ったような表情だ。
それに夜明け少し前の下街は不気味だ。
昔からある酒屋さんの隣の細い路地。そこから白い影が見えそうで。
公園の木々も枝が妖怪の腕みたいに見えている。今にも動いて伸びてきそう。誰か通り掛かった人を捕まえるために。
古くからあるスーパーマーケットの横には段ボール箱の空き箱が積まれていて、その影からゾンビが現れそう。
もしかしたら夜明け前って夜よりも不気味かも。
だからいったん家に戻ると聞いて、少しほっとした。
家の前に停まると、パパは私に車の中で待っているように言う。でも隣の家の窓が目に入ると、私は思わず車から出た。なぜならトモ君の顔が覗いていたから。パパの車の停まる音、車のドアが開いたり閉まったりする音で目が覚めたんだろう、きっと。寝ぼけた顔をしているから。
トモ君の家は二階に行くのに、外からの階段を上ってもいけるようになっている。学校にもある、非常階段ってやつだ。
私はそっと非常階段を上ると、踊り場でトモ君に声をかけた。
「今からパパと釣りに行くんだよ。ね、トモ君も行かない? いつかパパに連れていってもらう約束してたよね?」
「ああ、したよ。え? 釣りに行くって、今から?」
「うん。都合悪い?」
「いや、行けるよ。やったー!」
私も心の中で喜んでいた。いつもなら、何にでも興味シンシンで次の行動が予測不可能なトモ君と行動するのはちょっと疲れるけど、今日は別。
私が車に戻って、暫くしてパパも忘れ物らしい荷物を持ち、戻って来た。車のトランクに荷物を入れる前、パパは後部座席にいるトモ君を見て、顔色が変わった。
「私が誘ったの。今度トモ君を釣りに連れて行くって、前に約束してたよね? だからいいよね。一緒に行っても」
「おじさん、一緒に行ってもいい? あ、釣りの道具はもうトランクに入れさせてもらったよ!」
「ああ、いいよ」
パパはそう言ったけど、何だか機嫌が悪そうだった。
車が滑り出す。
「出発進行!」トモ君が叫ぶ。私もさっきと違って、釣りに行くのが少しだけ楽しみになった。でもパパはイライラして見えた。仮面のような表情を崩さなかったけど。
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