第5話

 久しぶりの陽気に目を覚ますと、一限の講義が終わりかけて、二限が始まろうかという時間だった。一限も二限も特別重要な講義ではなかったのでもう一度眠ってしまおうかとも思ったが、ぐっしょりと汗に濡れているのが気持ち悪くてベッドから飛び出た。部屋は十一月とは思えないほど暑い。窓を開けると秋らしいそよ風が吹き込んで、布団の中で火照った体を冷ました。

 食パンを焼かずに一枚食べてからシャワーを浴びて、身支度をしてから家を出る。朝のルーティーンとして標準化された行為を行っているときだけは健康的な生活をしている気になれるが、玄関でスニーカーを履いて振り返ると、洋服とがらくたの積もった部屋がそこにあって、誰が見てもここの住人の荒んだ生活様式を想像できるようであった。

 大学に着いても講堂には向かわずにアトリエに直行する。途中から入って注目を浴びるくらいなら欠席する方が幾分かマシだった。こうやって取り損ねた単位が着々と積もって、果たして卒業できるかどうか自分では分からない。留年はせずに何とか三年生をやれていることが奇跡のようだった。






 アトリエで一人、気付くと外が騒がしくて、時計を見ると一時だった。二限も終わって昼食を済ませた人々がアトリエ棟に雪崩れ込んできたらしい。ぱらぱらと響く足音に人の声が混じっている。渋谷の交差点を想起させる。喧騒という二字が頭に浮かんだ。小説を読んでいるときや映画を見ているときに描写される喧騒のシーンは好きなのだけれど、いざ自分が喧騒の中に放り込まれると五月蝿さにやられてしまう。

 鳴り止まない騒音が空の胃袋に反響していて、空腹を満たそうと思い立った。人の減った食堂に向かおうと、廊下の足音が収まるのを待ってから外へ出る。するとちょうど津田が目の前を差し掛かったところだった。匂いで喫煙所にいたことが分かった。歩いていた津田がおう、と言って急ブレーキをかけ、バックで私の前に停車する。一連の動作の格好つけている雰囲気が野暮ったくて呆れてしまった。


「授業いないから休みかと思った」


 なんでこいつは授業で私を探しているんだと思うと若干気持ち悪い。授業にいなかったのは寝坊したからだということを伝えると津田は、小宮山が私のことを探していたと言った。そんなことを頼まれたなと納得すると同時に、対して仲良くもない人間の応対をしなければいけないことを考えると、昨日二つ返事で了承したことを悔やんだ。


「ヤニ?」


「いや、お昼食べに行く」


「ん、分かった」


 他人に自分のこれからの行動を知られるのは昔から嫌いだった。なぜこんなことを気にするんだろうと考えることもあるけれど未だに明確な答えが出ない。詮索されているみたいだからなのだろうか。それとも何かにやましさを感じているからだろうか。まあ私の人生なんて誇らしげに人に見せられるものではないけれど。

 津田は背中で手を振りながら立ち去った。いちいち格好つけている風の所作が鼻につく。彼のスカした印象は、服装からも作品からもお腹いっぱいなほど伝わる。奇天烈な意匠の服装には何やらこだわりがあるらしいが似合っているわけでもなく、ただ奇天烈さに拍車をかけるだけだ。授業の作品は社会問題がどうとか人類史がどうとかそういう題材が多くて喧しい。

 津田とは、去年喫煙所で話しかけられてから目が合えば挨拶をするようになった。何度か学科で飲みに行くとなったときに誘われることがあって渋々行ったり行かなかったりした。気取っているくせに博愛主義的なのが馬鹿にされているような気になって、対抗するように私も彼を心の底で小馬鹿にしている。


 


 昼休憩が終わった後の食堂は直前までの賑わいを失っていた。床には利用者を整列させるためのラインが引かれていてそれを守らずに跨ぐ。カウンターの横にあるトレイは不自然に熱を帯びていて食洗器から戻されたばかりであることを示していた。カウンター越しにうどんを注文するとものの数秒でどんぶりがトレイに置かれていて、手際の速さにはいつも驚く。精算を済ませて、こぼさないよう慎重に手近のテーブルに腰かけた。周りには大学院生と思われる人と何かの作業員らしき人がちらほらいるだけだった。

 最近はずっと一人で人のいなくなった食堂に来ている。以前までは、授業のない日は古川に誘われてよく二人で来ていた。授業のある日はいつも集団行動している人たちと行っていたようなので、彼女は単にお腹が空いたときに近くにいる人を誘っていただけなんだと思う。それでもそのときは、少なくとも孤独感は感じていなかった。ひとりでうどんを啜っているとそれを痛感する。食堂にいる人たちのほとんどが一人でいることだけが救いだった。ここに顔見知りがいたら泣きたくなっていたと思う。


 うどんを八割ほど食したくらいに背中の方で誰かが歩いてくる音が聞こえた。それはだんだんと大きくなって、私のすぐ後ろで止まった。


「太田さん、隣いいかな」


 急に話しかけられて胸が騒いだ。振り返ると小宮山がトレイを持って立っていた。


「どうぞ」


 こういうときの断り方を私は持ち合わせていない。小宮山は礼を言って左隣に座った。咄嗟に座った姿勢のまま椅子を担いで右にずれてしまった。


「今日はいないのかと思った」


「それ、津田くんにも言われたよ」


 小宮山はああそう、と興味無いのを精一杯ごまかしたような感じで相槌を打ってかつ丼を食べ始めた。


「古川の、見たいんだっけ」


「うん、それでこの後アトリエお邪魔してもいい?」


「いいよ、場所分かるよね」


 小宮山は小声で返事をするともぐもぐ口を動かして黙り込んでしまった。ひとしきり咀嚼した後に飲み込んだので何か話し始めるかと思ったが、箸で豚かつを掴んで口に放り込んだ。私はうどんを食べ終わっていて、出汁に浮かんでいるわかめをちまちま掴んでは口に運んで暇をつぶす。沈黙に耐えきれなくなって、「じゃあ、先に行くから」と席を立った。小宮山は「じゃあ後で」と口を隠して咀嚼した。

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散り菊とエンバー(仮) 河崎 @be_punk

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