第4話


 二年前の冬、大学の喫煙所でいつものように独りでいたところを初めて古川に見られた。ちゃんと煙草を吸うようになってから一か月くらい経った頃のことだ。古川は同級生達と固まって笑いながら歩いていて、硝子越しに目が合った。街中の変人を見てしまったときのように視線を外されて、自分が異常な人間であると自覚させられたような気がした。いつかはばれると思っていたしばれても別に良い、くらいに思っていたけれど、四角い箱の中がしばらく気まずさに満たされた。


 アトリエに戻ってしばらくすると古川が入ってきた。何か言い訳をしなければいけない気がしたけれど何も思いつかなくて振り返ることも出来なかった。


「渚、あなたいつから不良になっちゃったの」


 背中に古川のか細くて芯の通った声が刺さる。いつも以上に冗談っぽい口調なのがむしろ怒っているように聞こえた。


「不良じゃないよ」


「十九で喫煙者は不良です」


 それはそうだ。だけどそれを言ったらサークルの新歓で酔っ払って迷惑電話をかけてきた古川も不良じゃないのかとも思って言おうとしたが反論しているみたいで喉で止めた。返す言葉が見つからなくて何も喋らないでいると古川も黙ったままだった。


「ごめん」


 沈黙に耐えきれずに一言小さく漏れた。


「別に怒ってないよ」


 自分の心の内を覗かれたようで恥ずかしかった。


「美味しいの?」古川が訪ねる。


「わかんない」わかんないとしか言えなかった。


 古川はふうん、と言って納得したようだった。


「古川、煙草の匂い好き?」


「嫌い」


 何の気なしに聞いた質問が袈裟切りにされた。自分の匂いは自分では良く分からないけれどもしかすると臭いのかもしれないと思い、咳をするふりをして袖で口を覆うとオッサンの匂いがした。


「ごめん」


「だから怒ってないって」


「ごめん」


 しつこい、と言って、古川はけらけら笑った。このごめんとさっきのごめんは意味が違うから、とか言い訳しようとしたけれど、古川がずっと笑っていたので言い出す暇が無かった。ひとしきり笑うと古川が「匂いは苦手だけどさ、もし私が人生しんどくなったときは、そんときは一本頂戴ね」と言った。


「もったいないからやだ」


 気恥ずかしくて冗談で返してしまったけど、その言葉が自分を肯定してくれたようで救われた気がした。


 




 しかし、今思うとあれはただの愛想だったのだろうと思う。小宮山と別れてからしばらくは少し期待をしていたが、彼女の様子はすぐにいつも通りに戻った風で、彼女が煙草を吸う訳無いなんて分かっていたけれど裏切られたようでほのかに寂しかった。

 勝手に期待して勝手に裏切られる度に人を憎むようになるのが苦しい。人に期待するのなんて辞めてしまいたいけれど、期待せずに生きられるほど強くもないし友達もいないからどうしようもなかった。


 その冬に古川が描いていた絵は進級制作の審査会で優秀賞を獲っていて、私のは教授たちにこき下ろされた。その絵はしばらくどこかに展示されていたらしいが、アトリエで散々見たし、何より優秀作品として展示されている古川の作品を見たくなかった。





 


 最近夜に目が覚める。一度目が覚めるとなかなか寝付けなくて、トイレに行ってみたり水を飲んでみたりしてみるがやっぱり寝付けない。次第に苛々してきてベランダに出て紫煙を燻らせた。やはりというか、夜風が冷たくて、ベランダで丸くなって最低限の動きだけで喫煙の動きを完結させた。

 アパートは坂の上にあって、ちょうど目の前が開けているから山手線の高架が見える。夜に遠くから眺める山手線はきらきらしていて好きだ。自分が毎日乗っているとは思えない。今は夜中だから電車は走っていないけど、人ひとりいない街を眺めるのも好きだった。

 大学から数駅のところに借りているアパートは壁が薄くて隣の隣の生活音が聞こえるし、部屋の玄関どころか集合玄関にもオートロックが付いていなくて、女子大生が住んでいいような建物ではなかった。それでも奨学金と仕送りとアルバイトの給料を合わせれば生活できるくらいの家賃だから仕方なくここに住み続けている。


 いつの間に短くなったのか、火種の部分をサンダルで踏みつぶして火を消す。そのせいでサンダルの裏側は数ヶ所、根性焼きみたいな痕がついていた。吸い殻を持て余して、ベランダから身を乗り出して誰もいないか確認してから指で弾いて道路のほうへ捨てた。いつの間にかポイ捨ての罪悪感を忘れていて、思いだす度に、忘れていたことに罪悪感を憶える。

 吸い終えても部屋に戻らず外でぼんやりしていた。眠気が来るのを待っているのかもしれない。携帯を取り出して適当にいろいろアプリを起動してすぐに消してを繰り返す。写真フォルダを漁っていると画面内に今年撮った写真が納まっていて、案外自分が写真を撮らない人間であることに気付いた。


 フォルダをスクロールしていると一年の進級審査会の頃の絵の写真があって、その隣には古川が描いていた絵があった。時間を空けてから見た二つの絵は、写真で見ても雲泥の差だった。焼き魚のワタを口に入れたときのような苦味がして、思わずその二枚を削除してしまった。何のつもりか自分でもよく分からない。削除してから悲しくなって、やっぱりデータを復元した。もう自分の考えていることが別人のもののように理解できなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る