第3話

 古川は煙草が嫌いだったから、彼女がアトリエにいるときはなるべく行かないようにしていた。それを気遣ってなのか、古川は時折「ガス抜きしてくる」と言って、不自然に空けることがあった。その隙に喫煙所に行って帰って、しばらくすると何事も無かったように古川が戻ってくる。そのくらいが私達の距離感だった。




 何時間か描き続けても、一歩引いて見るとこの絵がスバラシイ作品に成るようには思えなかった。教授たちに袋叩きにされる予感がぷんぷんする。こりゃ描き直すことになりそうだなと小さく絶望した。小さな窓の外に見える空は少し彩度を失った青色に変わっている。この色自体は嫌いではないけれど、それが目に映るだけで風が吹いたように身震いできるので、この季節は窓を視界に入れるのに一切れの覚悟がいる。

 描いている間は思わなかったけれど、一度筆から手を離すと吸いたくなっていることに気が付いた。古川がまだいた頃は自分の意志で喫煙所に行くことはなかったから、今でもアトリエにいるときはどのタイミングで一服しに行くかが分からない。

 つなぎを半分脱いで腰のあたりで縛って、その上からブルゾンを羽織った。そういえば煙草どこにやったっけな、と体を上から叩いて探ったが、つなぎの下のジーンズのポケットに不自然な膨らみを発見した。それはつなぎの中のジーンズのポケットらしいが、これ以上脱ぐのも億劫で、つなぎの中にそのまま手を突っ込んで手の感触だけで見つけて抜き出した。ポケットから引っこ抜くのに案外苦労して、掴んだ箱を握りつぶしかけた。


 冷えた日にアトリエの扉を開ける感覚は、冷蔵庫を開けるときの感覚に近い。重い扉を両手で力一杯押すと、節電のために切られた空調のせいか秋が込んだせいか廊下は静寂に包まれている。しんと静まり返った廊下に耳を澄ませるとその瞬間、砲撃したような爆音を立てて鉄扉が閉まった。急に大きな音が鳴るたびに怒鳴り散らされたときに似た恐怖を感じて、何もしていないのに罪悪感がぼんやり生まれる。罪を犯したわけではないけれど、独りで後ろめたくなって、小走りで廊下を抜けた。




 水槽のインスタレーションには、男女入り混じった集団が円形になって一つの灰皿を囲んでいた。その中には学科の顔見知りが何人かいて、こちらに気付くと言語と鳴き声の中間らしい音を漏らした。私もそれに倣って小さく返事をする。会話に参加しているのかしていないのかよく分からないくらいの距離で火を点けて、俯きながら聞き役となる。さっきまでの話題に飽きたのか、全員が静かになって黙々と煙を吹かすようになった。静かさが気まずさに変わろうかというときに、集団の中の津田という男が「そういえば、」と私の方に言葉を投げた。


「太田さんさあ、葵ちゃんと同部屋だったじゃん。それでちょっと、気分乗らなかったら無理にとは言わないんだけど、小宮山がさ、葵ちゃんが最期に描いてた絵、見たいんだってさ」


 言葉を選びながら喋っているのが伝わる。故人の名前が出たせいで辺りに微かな緊張感が走った。恐らくは私を気遣ってのことなのだろうと思うと居心地が悪い。


「別に、見たいなら見に来ればいいよ、別に気にしないし」


 そういうと津田は、「そっか分かった」「伝えとく」とだけ言って再び黙った。また少しの間沈黙が続く。林の方から風がどうっと鳴ったのをきっかけに一人が気温の話を始めるとぽつぽつと会話が始まった。その話題の中で私は一言も発しなかった。


 小宮山は古川の元恋人で、一年の冬から三年前期の終わり頃まで交際をしていた人物だった。いつも自信が無さそうな顔をぶら下げていて、こんな頼りなさそうな男のどこがいいんだろうと常々感じていたことを思い出す。どうして別れることになったのか詳しい事情は知らないけれど、別れた翌日の古川はアトリエに入るなり、ただ「こみ君と別れた」とだけ言って絵に向かった。その映像を鮮明に記憶している。私はそれになんと返したかはっきりと覚えていない。確か「そっか」とかなんとか、それだけ言ったような気がする。そのときの彼女は、いつもの天真爛漫な感じからは想像できないほど険しい、悲しい顔をしていた。




 集団が一斉に一服し終えてぞろぞろと喫煙所を出ていった。津田と目が合い、私が「もう一本吸ってく」とだけ言うと知り合いもそうでない人も、「じゃあ」だとか「それじゃあ」だとか言っていなくなった。こういうときに平然とした顔で一行に交ざることがコミュニケーションとして正解なのだろうけど、正解が分かりつつもそれを選択することができなかった。正解を選ぶとまた次の問題が出題されてそれに正解し続けなければならない。それならば最初から不正解を選んで早々に脱落したほうが楽でいいなあ、と無理矢理正当化してみたが、そんな詭弁を弄している人間の悲惨さに気が付いた。下らない哲学は捨てて、自分の不器用さを直視は出来ずとも半目で見る。詭弁を弄していようがいまいが悲惨なことには違いなかった。


 チェーンした煙草を灰皿に落として携帯を覗くと津田から、「小宮山に言っといた」「よろしく」と二回に分けてメッセージが送られていたのを確認する。それにスタンプだけで返信して携帯をポケットに突っ込んだ。

 空はさらに彩度を失っていて、寒さが一層増している。今日はもう作業するだけの気力が残っていなかった。

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