第2話

 今年の九月、古川葵は夏と死んだ。夜の海で溺れたらしい。それが自殺なのか事故なのか私には分からなかった。




 喫煙所から寒空の下を抜けてアトリエに戻ってきた。温めた甲斐もなく、ここまでの帰路で肺の中身は換気された。アトリエ内は暖房がついていなかったせいか、むしろ外よりも冷え冷えとしている。一服行く前に空調のスイッチだけ入れておけばよかったと後悔した。扉の隣に設置されているスイッチを叩くと天井の裏でぼおおおと音が鳴ってだだっ広いアトリエ内に暖かい風が吹き始めた。

 アトリエは大学から二人一部屋で与えられているもので、同部屋となる相手は学籍番号順で決まるという、なんの面白味もない組み分け方だった。私のペアは古川で、それが唯一面白かった部分でもあったし、一番面白くない部分でもあった。学籍番号は名前順でも生年月日順でもなかった。一年の頃は同級生たちが学籍番号の順番のルールを解き明かそうと奮闘していたが、誰かが先輩から聞いたところによると入試の際の順位だということらしく、その熱はすぐに退いていった。その代わりとして番号が小さいほうが優秀だったのか大きいほうが優秀だったのかという議論が始まったが、結局今の今まで結論は出ていない。ただ、私と古川はほぼ同じ評価で入学したということだけが分かった。

 同じ高校に入るような人たちは大体同じような地域と環境で生まれ育っているから同じような人たちばかりだ。高校生の頃はそんなことは考えもしなかったけれど、大学の同期たちの十人十色ぶりを見てそんな考えが生まれた。同じ高校に入学して、同じ部活動に所属して、同じ進路を目指したのだから、環境が変わっても変わらず古川が隣にいる奇妙な縁が腑に落ちた。

 こう言うと私と古川が似たもの同士のように聞こえるけれど、実際は線香花火と煙草の火種ほどに正反対だった。線香花火が古川で、煙草の火種が私なのは言うまでもないけれど。彼女はどこでも輪の中心にいた。その輪の縁のあたりにいるのが私で、円の内側にいるのか外側にいるのか判然としない場所で内側を見ていた。

 古川の描く絵も私のそれとは真逆だった。繊細なのに力強くて、背中の向こうで描かれると自分の作品が途端に情けないものに見えてくる。それが苦しくて、周りから称賛される古川をただ憎むだけの自分が嫌いだった。美術に対して情熱なんてないくせに人並みのプライドだけは持ち合わせていた。



 アトリエの南側に置かれている遺作は二か月が過ぎても壁に立て掛けられたままだった。夏季休暇中は一度も登校しなかったので知らなかったが、古川はその間も大学に来て作品を新しく仕上げようとしていたらしかった。後期が始まって久しぶりに訪れたアトリエにそれがあってぎょっとしたのを憶えている。今にも古川がいつもの明るさを振りまいてアトリエにやってくるようで落ち着かなかったが、当然彼女が来ることはなかった。本人に代わって家族か誰かが片づけに来るのかとも思ったけれど、審査会の後にアトリエを訪ねるものは誰もいなかった。家族が引き取りもせず、先生方が回収するでもなく、この絵画の処遇は私の裁量でどうとでもなるようだった。どうとでもなるが、どうにかしようという気も起きず、そのままにしてある。この部屋は私一人にはあまりにも大きすぎて、何かで空間を埋めていたかった。

 壁に大きく立てかけられたキャンバスはF100号ほどで、下地が塗られただけのものでも迫力がある。抽象画だと言い張れば、自分はセンスがあると勘違いをしている下級生くらいは騙せそうに見えた。対して、私が今向かっているキャンバスはF10号の平凡なものだ。自分で張るのも面倒くさいから画材店で買えるサイズをいつも使っている。そんな考えが見透かされるからか課題の審査会では毎回、もっと大きいサイズに挑戦しろだとか、弱々しくて嫌いだとか散々な言われようだった。そんなことを言われても情熱が燃えることはなかった。


 着ていたブルゾンを脱ぎ捨てて、アトリエに放っておいたグレーのつなぎに袖を通す。二年の頃に大学近くのホームセンターで買ってからまともに洗っていないからところどころに絵の具の汚れが付いていて、それを着ている自分はみすぼらしくて嫌だった。構内で見かけるつなぎ姿の人たちは職人のような威厳を纏っているのに、私と彼らと何が違うのだろう。つなぎの汚れは、どんな絵を描いていたときに付けたものか思い出せるものもあったし、分からないものもあった。視界に入った変に明るい色の染みに、「こんな色使ったことなんてあったっけか」と、記憶を探ってみてもそれらしい痕跡すら見つけられなかった。

 つなぎのスナップを止めて、重々しい見た目の画材ケースを開ける。実際重くて、こんな塊を毎日満員電車に潰されて運んでいるなんて正気の沙汰ではないと気づいてはいるが、大学側の言い分は、夜中に油が発火されてはたまったものではないから持って帰れとのことだった。当時付き合っていた彼氏から譲り受けた木製の画材ケースは知らないキャラクターのステッカーがあちこちに張られていて、その時はかっこいいと思ったけれど、今見返すと何とも悪趣味なものばかりだ。そう思う度に剝がそうと試みるが、木と粘着剤の相性が良いせいか悪いせいか、どれだけ擦っても一向に剥がれる気配がなくて何度も諦めた。

 建付けの悪くなった金具を外して、パレットやら筆類、ペインティングナイフ、顔料、テレピン、その他諸々画材一式を辺りに広げるとツンとした匂いが漂った。それが空調から垂れ流される温かい空気と一緒に肺の中でぐるぐる掻き雑ぜられた。いつまで経ってもこの臭さには慣れない。慣れないどころかここ最近は特にひどく体調に悪影響をきたしている風だった。



 匂いも、目に映るものも、何もかもが自分を苦しめる毒に感じる。全て投げ出してどこか遠くへ走っていきたかったが、そんな気力も度胸も私にはなかった。私には生温い地獄から抜け出せるそのときを待つことしかできなかった。

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