33 月の華
久しぶりに見る満月は神々しくて、目が痛いほどだった。
月華は獣姿の天駆を従えて、島の中央にある森の中を歩いた。
数時間の間、天駆と話を交わすことはなかった。これから成すことをお互い思っていて、それぞれの自分の心の中だけを見ていた。
やがて青白い月の光の中、二つの人影が月華たちを迎える。弥生は真秀を庇うように立って、月華たちをにらんだ。
先に口火を切ったのは、弥生の方だった。
「やっぱり敵になりましたね、先輩」
弥生は切れ長の美しい黒い目で月華を見たが、もうその声にあざけるような色はなかった。
いつかのような激しさはもうそこにはなく、弥生も自分の使命だけをみつめていたようだった。
弥生は小刀を突き出して言う。
「お互い、獣人として生まれただけです」
天駆は月華を下がらせて前に出ると、身構えた。
そのまま両者は前に飛び出してぶつかった。
風が唸り声を上げていた。一瞬で天駆の牙に傷つけられて弥生の手足からは血が噴き出したが、それでも止まる様子はなかった。
殺し合いに情け容赦などない。たとえ弥生がまだ子どもでも、彼は守護獣人だから。
けれど猛獣に人が抗うすべを持たないように、まばたきする間に、弥生の命はあっけなく食われてしまうように思えた。
真秀は立ったまま弥生をみつめていたが、やがて彼女も心を決めたようだった。
視線を巡らせて月華と目を合わせると、真秀は言った。
「……主だからと、見ているわけにはいきませんね」
真秀は白い着物を身に着けていた。もしかしたら死を覚悟して待っていたのかもしれなかった。
彼女はその白い袖を揺らして、自分の腰に手を置く。真秀は言葉を続けた。
「先輩と命の食い合いはしたくなかった。でも……」
真秀は二本の刀を取り出して、それを手に取った。
真秀は月華を見据えて決意を告げた。
「私が運命をあきらめるのは、弥生も失うことになる」
彼女は一本を月華に投げて、刀を構える。
真秀は月華と向き合って言った。
「先輩。だから争って決めましょう。生き残るのはどちらか」
月華も刀を構えたとき、体中の血液が動き出した気配がした。
辺りには黒い霧が満ち、無数の赤い目が現れる。
月華たちを取り囲むようにして異の気配が笑っている。もしかしたら泣いているのかもしれない、祝福の声に聞こえた。
月華は刀など持ったこともないのに素早く構えを取ると、横になぎ払う。それはかわされたが、真秀の姿は奇妙なほどゆっくりと見えた。
心には何の感情も浮かんでこず、ただ無心に刀を振るう。
いにしえの時が月華を突き動かしていた。この空気を知っている。生まれる前から異の気配にみつめられていたような気がした。
たぶんそれが獣人の本性で、その道を辿れば運命がさだめる未来に行きつける予感がした。
月華は自分に誓うように告げる。
「……私はあきらめないよ」
けれど月華の中には月華だけの持つ、異なる想いがあった。
その想いが月華の手を伝って、月華の意思を形作った。
(さあ、決めよう。私の未来を)
真秀の刀が振り下ろされ、月華も同時に刀を合わせたとき、音が聞こえた。
ガラスのように月華の刀が割れて、真秀の刀が月華を貫くのを、遠い世界のように見ていた。
「我が君!」
どこかで天駆の悲痛な声が聞こえる。
月華はほほえみを浮かべて言う。
「これで、いい……」
月華は心でつぶやく。
月華の願い、それはこの命を手放すこと。
自ら命を手放すのは生命の敗北かもしれないが、それが月華の心からの願いだった。
居留地を発つ直前に伯爵に噛んでもらった。月華の体は少しずつ変化して、まもなくただの器となる。
一族を終わらせる。天駆が仕えなければいけない忌まれし一族は、月華が終えてみせる。
月華は自分を育ててくれた天駆の願いとは、異なる願いを果たす。
(私は一族の永遠より、天駆に自由に生きてほしいだけ)
天駆が必死で言うのが聞こえていた。
「我が君、我が君……っ! 馬鹿な、あなたがいない未来など……!」
柔らかな月の光が月華に振りかかってくる。優しい金の光が温かく月華を包んでくれる。
あとはもう、祈ることしかできない。
どうか、月にあらせられるという天帝よ。天駆を自由にしてください。
(私の一番大切な天駆に、自由を返してあげてください)
月華は最後の力を振りしぼって告げる。
「……大好きな、あなたに。どうか……未来を」
月華は天駆の姿を目に焼き付けるようにしてみつめると、穏やかな気持ちで目を閉じた。
誰もいなくなった森の中で、冷たくなった彼の君の体を抱き締めてうずくまった。
魔法のように獣姿は解けて人の体に変わった私の体が、彼の君と途絶えてしまった証を知らしめる。
我が君が王華国へ行くのを望んでいないのはわかっていた。私がそれに殉じるのを望んでいないのも知っていた。そのためにならどんなことでもできる、強い方だということも。
私はにじんだ声でつぶやく。
「どうして……そういうところまで、そっくりなのですか」
一族から縁を切って他国へ逃げることもできた姫君を、今も覚えている。だが民たちが傷つくのを恐れ、自身の命を縮めても当主の座についた。
実際に姫は十代で暗殺され、この世を去った。たった一人の男児を残したのは、彼女にとって幸せだっただろうか。
私は頑なに自分の願いを叶えることだけを見て、彼の君が傷ついているのを見て見ぬふりをした。
私が彼女を普通の娘として育てていれば、きっと当たり前のように成長して、年老いていくのを見届けられた。
涙が止まらなくて、どうすれば彼の君の逝った世界に行くことができるのか考えていた。
でも私が後を追ったら、彼の君に叱られる。たったそれだけのことなのに、彼の君の最後の命令が犬のように私を留まらせていた。
誰かが私の側に立つ気配がした。私は顔を上げないまま、降りかかる声に耳を傾ける。
『天駆、いつまでそうやってるんだ?』
懐かしい子どもの頃とはもうずいぶん変わったが、ウィルの声だとわかった。彼に、答える言葉もない。
どこもかしこも脱力していて、この場を動きたくなどなかったのだから。
ウィルは淡々と言葉をかける。
『僕は家族を捨てたお前がどうしようと構わない。……でも最後の家族は、守ってみせる』
訝しげにウィルを見ると、彼はポケットから手紙を取り出して私に握らせた。
『こいつが送ってきた僕あての手紙だ』
そこには白い紙にランデン語で、文章がつづられていた。
――ウィル君へ。
突然こんな手紙を送るのは失礼だとわかっています。でも時間がないので、どうか最後まで読んで下さい。
私は居留地に行った際に伯爵から噛まれ、まもなく心の無い器となります。
私が生きる屍となった後、お願いしたいことがあるのです。
あなたの母君と天駆が戦った時、私は彼女から大切なものを預かりました。今、私のお腹の中で生きています。
彼女は自身が死ぬ前に別の個体に移して助けようとしたのでしょう。幸い私は天駆に噛まれたので、うまく体に適合したようです。
私の体を棺にして、彼女は眠っています。いつか生まれる日まで、彼女を守ってやってください。
天駆に伝えてください。あなたがくれたすべてを愛しています。
あなたに会えたことが私の一番の宝物です。
さようなら。あなたたちの未来を願う一人の人間を、どうか覚えていてください。
『僕は王華一族が嫌いだ。けど今の彼女は、僕の妹なんだ』
ウィルは私の横に屈んで、彼の君を助け起こす。
『もしお前が妹を王華一族として生かす気なら、僕は伯爵様に力を借りてでも取り返しにくる』
ウィルは睨むように私を見る。その強い意思に、私はいつもロザリエルの面差しを見ていた。
じっくり見たのは何百年も前だから、忘れていたが。
すべてを手放す前に思い出せてよかったと思う。彼の君は不意に、私にそういう贈り物をくれた。
私は長く息をついて心を決める。
『……彼の君の犬として生きた生を終えよう』
月華様の腹に耳を当てると、かすかに脈動が伝わって来る。
泣きたくなるような命の温かさに、私の命もつないでいける。
まだ見ぬ小さな胎児にすべてを託してしまっては、私も伯爵のように狂ってしまうのかもしれない。
でも家族の愛というのはいつも不完全で、いびつで、止めようのないものだった。
私はくしゃりと顔を歪めて笑った。
「ようこそ、私の娘。よく私のところに来てくれたな」
そっと彼女を抱きしめて、私は命の贈り物に感謝した。
やるべきことは山積みだ。狂った伯爵の元に連れて行くわけにはいかない。幻都の一族に奪われるわけにもいかない。今度こそ私が彼女を無事に育てなければ。
でもそれでいい。毎日が忙しなく続いていく未来のどこが、悪い人生といえるだろう。
見上げた月はいにしえと少しも変わらず、優しい金の光を私たちに与えてくれていた。
私はこれで最後と月に祈ることにした。
天帝、最初の月華様。あなたたちが私に課した使命を放棄することを、どうか許してください。
あなたたちの子どもたちはもう、自分で生きる道を決められるほど、強くなったのですから。
「あなた方を心から愛していました。ありがとう。……さよなら」
やがて私は自身の命より大切な体を腕にくるんで、立ち上がった。
男装令嬢は守護獣人から独り立ちしたい~境界の街、幻都の戀~ 真木 @narumi_mochiyama
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