32 発つ日

 前夜は再び巡って来る。

 月華の額から手を離して、天駆がほっとしたように言った。

「熱、下がりましたね。よかった」

 雨に打たれたのがいけなかったのか、ロザリエルに噛まれたのが負担になったのか、とにかく月華は三日寝こむ羽目になった。

 天駆は月華の脈もはかって、一つうなずく。

「噛まれた影響も残っていないようですし、大丈夫でしょう」

「じゃあ、明日雅君のお見舞いに行ってもいいですか?」

 月華が布団から起きあがって言うと、天駆はそれにも頷いた。

 ただ天駆には月華の思うところとは違う気がかりがあったらしい。天駆は少し黙ってから切り出す。

「……よろしいのですか。夏季休暇を終える前に、王華国に発ってしまっても」

 彼は月華に、王華国に戻るのはゆっくり学友と夏季休暇を過ごしてからでいいと言っていた。

 天駆は、月華を人の世界から切り離すときを慎重にうかがっているように見えた。実際、月華もそのときを恐れる思いが消えていない。

 けれど月華はうなずいて言う。

「はい。雅君のお見舞いを終えたら王華国に発ちましょう」

 月華は、今がその時だと思っていた。居留地で心に決めた願いを、月華は果たす。

 月華は天駆の言葉を受け止めて、自分の意思を口にした。

「迷っていてはかえってつらい気もします。天駆の準備ができたのなら、私はもう友だちに会うつもりはありません」

 月華は顔を上げてたずねる。

「ただ、私を当主とするため……真秀さんを連れていくんですね?」

「はい」

 天駆は月華を見据えてうなずく。

「……そして弥生は殺します。そうでなければ地の果てまで追ってくるでしょう」

 ついにその時は来る。願い事のために、月華は誰かを傷つける。

 一度は決めたはずの願いに小さなためらいが生まれたのは、そんなときだった。

 月華は訊ねなくてもいいことを不意に口にする。

「どうして私なのですか、天駆。当主になるなら、もっと……」

 独り言のようにつぶやいた月華を、天駆は金の瞳で見ていた。

 月華がどんなに考えても答えは出なかった。天駆が頑なに月華にこだわる理由を、今も月華は知らない。

 天駆は月華を布団に寝かせて、頭をなでながら言った。

「昔話をしましょう。天帝が王華国に降り立った、その後のことを」

 天駆は窓の外を仰ぎ見た。暗闇に差しこむ一筋の月の光が、天駆の顔を映し出す。

「天帝のご子息たちは時には協力し、時には争いながら王華国を治めていましたが、ある日不幸は始まりました」

 少し声を低くして、天駆は言う。

「すべてのご子息がたった一人の子孫も残すことなく、この世を去ってしまわれたのです」

「……では、王華一族は」

 思わず月華が声を上げると、天駆は静かに頷く。

「はい。現在の王華一族は男児の血筋ではないのです。そして様々な一族が、後継者を巡って争いました」

 何か言いたげな月華を見下ろしながら、天駆は再び口を開いた。

「その頃たった一人で王華国に残っておられた、天帝の末姫がいました。姫は争いを終結するために、ある重大な決意をなさいます」

 天駆はじっと月華の目をみつめながら言った。

「彼女は大変不遇な方で、付き従うのは一匹の若い狼しかいませんでした。ところがこの狼、争いを憂えた天帝によって特殊な力を授かっていました。人に変身し……そして天帝の血を受け継ぐ女性を噛むことで、その女性を男に変えてしまうという」

 はっと息を呑んだ月華に、天駆は声を和らげた。

「こうして姫は兄に代わって王華一族の祖となり、その狼は以後一族を守りました。月の化身たる姫と対の者。満月の日は本来の狼の姿となり……ずっと、現在に至るまでお側にいます」

 月華は起きあがって天駆を正面から見た。天駆は月の光の中、徐々に黒い狼の姿に戻っていった。黒い服は硬い毛触りのする漆黒の毛皮に、鋭い牙は発達した犬歯に。それでも美しい金の瞳だけは変わらずに。

 完全に獣の姿に変わると、天駆は言う。

「私のこの姿は人に恐怖を与えるものとされました。歴代の当主にとっても同じです。皆、私の姿と声を恐れながら……ただし最初の月華様と、今の月華様を除いてね」

 天駆は金の瞳を向けながら柔らかく月華に笑いかけた。

「幼い頃から月華様は本当にわがままで、耳を引っ張ったり尻尾を引っこ抜こうとしてみたり、もみくちゃにされました。でもずっと私を愛してくださったのは知っています。……もう二度と、忌まれし獣の私を共に生きる存在として認めてくださる方とは、お会いできないと思っていたのに」

 長き孤独、疎まれる悲しさ。そんなものと割り切れるほど、天駆は強くなかったのだろう。

 彼は優しいから、当主たちにめいっぱい尽くして何も返してもらえなくても、不平一つ言わなかっただろうけど。

 天駆は月華をみつめながら告げる。

「成長されてからは例の事件のこともあってか、多少私への警戒心が芽生えたようですけど。あと、もう一つ」

 少し苦笑いして天駆は言う。

「ランデンから王華国へ戻る直前、ロザリエルは子を身ごもっていましたが、生まれることはありませんでした。だからなのかどうしても、あなたが可愛かったのです。あなたの眠るゆりかごをのぞき込んだ時から、生まれなかった子に会えたような気持ちでいました」

 天駆は再び窓の外へと視線を戻し、遠い天に向かって語りかけるように言った。

「勝手な理屈でしょう。きっと天帝も怒っておられます。けれど私はずっと、心から愛する方に、お仕えしたかったのです……」

 祈るような天駆の言葉が、天に届いたかどうかはわからなかった。

 ただ月は今も空にあって、静かに月華たちを見下ろしていた。



 月華は郵便局に手紙を届けて、幻都病院へと向かった。

 手紙は、早ければ今日の夜には着くだろう。ただ、その頃には月華は幻都にはいないかもしれない。

 病室に着いた時、雅はまだ眠っていた。すっかり獣相は消え、安らかな寝息が聞こえてくる。

 月華は花束を置いて出ていこうとしたが、ふいに隣のカーテンが開いて綾が顔を出した。

 月華は驚きをこめて言う。

「あなたも入院していたんですね」

 それはあの夜、雅と一緒にいた綾だった。彼女は少し眠たげに頷く。

「……先輩」

 綾はふいに月華を見上げて言った。

「夢を見たんです。先輩が雅と、私を助けてくれた夢。現実みたいに鮮明でした」

 月華は一瞬どきっとしたが、綾がそれを気に留めた様子はなかった。綾は軽く笑って手を振る。

「あ、すみません。こんなこと言っても先輩が困るだけですよね」

「夢でもお役に立てたならうれしいですよ」

 夢で終わるのならそれもいい。月華はうなずいて言った。

 そのまま月華が出て行こうとすると、あ、と彼女が言う。

「お見舞いありがとうございました。二学期になったらまた会いましょう」

 月華は一瞬だけ足を止めたが、手を振って病室を後にした。

 階段で一階に下りて、戸を引いて炎天下の空のもとに踏み出す。じりじりと暑さが体を這い上がってきて、一気に汗が吹き出てきた。

 月華は胸に迫る感情を抱きしめてつぶやく。

「……ええ。私こそ、ありがとう」

 あっけない別れも、きっと幸せの形だった。

 日常の最後の残滓を受けとめて、月華は天駆がやって来るのを待っていた。

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