31 終焉

 一つだけの非常灯で浮かび上がるロザリエルは、魔そのもののようにあでやかだった。

 ほんのりと紅い白い肌にくっきりとした目鼻立ち、じっとみつめられるだけで吸い込まれそうな青い瞳をしていた。

 ロザリエルはどこか狂った響きで甘くささやく。

『あら、男前。あなたとっても私の好みだわ』

 ロザリエルの言葉に天駆が表情を歪ませたのは一瞬だった。

 ロザリエルは舞うようにドレスの裾を揺らめかせて、合図をするように言った。

『遊びましょ、狩人さん』

 楽しそうに笑いながら、ロザリエルはサーベルを抜いた。

 ロザリエルは赤い血のようなサーベルを軽く振ってから、夜空に飛び立った。

 地面を蹴って天駆も跳ぶ。彼も黒いサーベルを抜いて、構えた。

 空中でサーベル同士がぶつかり合う。激しい衝突音が響いたが、両方とも吹き飛ばされることなく次の構えに入る。

 暗がりの中で赤と黒のみが動き回るのは、万華鏡でも見ているようだった。全く崩れることのない、対照のぶつかり合いだった。

 音だけ聞けば単調、けれど均衡が崩れたときは大きな反動をもたらす予感があった。

 ロザリエルも天駆も引かない中、月華は息を詰めてそれを見守っていた。

 ふいに二人の衝突を、少年の声が阻んだ。

『母上』

 けれど少年の声で二人が制止したわけではなかった。音が止んだのは、天駆が後ろへ跳んだからだった。

 月華から数歩ほどの所に、ウィルが立ち竦んでいた。

 ウィルは訴えるようにロザリエルに言う。

『そんな奴の相手をすることはない。ランデンへ帰りましょう、母上。よく療養したら、きっと……元に戻るはずです』

 けれど彼の悲痛な声に反して、再び赤と黒がぶつかり合った。

 二人の目には、今お互いの姿しか映っていなかった。

 ウィルのうつむいた瞳は、今は暗い光を湛えていた。

 ふいにウィルは月華の方を見て、口元を歪めながら言う。

『お前たちがいたから』

 彼は月華を見ているのではなかった。月華の後ろに、何人もの憎き一族の姿を映し出していたのに違いなかった。

 ウィルは月華と、月華を生んできた一族を弾劾する。

『お前たち一族が、僕たちを壊した!』

 鋭い一声と共にウィルはサーベルを抜いて、月華をなぎ払う。

 月華は思わず目を閉じてしまった。けれど痛みはいつまで経っても襲ってはこない。

 月華が目を開くと、ウィルのサーベルは月華を貫くことなく、月華の前に飛び出した人間によって握られていた。

 湿り気を帯びた風に金髪が舞い上がる。そこに立っていたのは、月華よりずっと長くウィルと過ごしてきた、フィリップだった。

 フィリップは月華を背に庇って、ウィルにさとす。

『やめるんだ。そんなことをしても君が辛くなるだけだ』

 ウィルはフィリップを見据えて怒りの言葉を投げつけた。

『黙れ! 慈しまれて育った君に何がわかる!』

 叩きつけるようなウィルの言葉に、一瞬だけ天駆の動きが鈍った気がした。

 フィリップはサーベルを握る手に力を込めて、静かに頷いた。

『そうだ。君とロザリエルがいなければ、僕は育たなかっただろう。でも、だから』

 もの哀しい声でフィリップはウィルに言う。

『僕は君に、母君と君だけの関係で生きていってほしくないんだ』

『僕には母上しかいない! 母上が生きていらっしゃるなら、最後まで僕は庇う!』

 ウィルはかみつくように叫ぶ。

『母上は伯爵様の操り人形じゃない! まだ僕の母上だ!』

『でもね、ロザリエルは私の眷属だから』

 そのとき、暗闇から優しい声が零れ落ちた。

 全く気配は感じなかったのに、伯爵がそこに立っていた。闇の外套を脱ぐようにしてするりと現れ、演劇でも見るようにロザリエルたちを見ていた。

 月華には怒りより、恐怖の方が大きかった。眷属と口にした伯爵の声を聞いた途端、ひどく体が震えた。

 ただ月華より伯爵に近いフィリップには、恐れより悲しみが勝ったようだった。フィリップは振り返って伯爵に言う。

『父上、どうしてロザリエルから理性を奪ってしまわれたのですか』

 フィリップは声を震わせてうつむく。彼の固く結ばれた口元は、フィリップの決意そのもののようだった。

 ふいに顔を上げて、フィリップは懸命に言葉を続ける。

『精一杯仕えてくれたロザリエルを、なぜ人形にしてしまったのです。もし母上がいらっしゃったら』

『ソファラ様がいらっしゃったら絶対にお許しになりません』

 そのとき、ウィルがフィリップの言葉を遮った。

 フィリップがはっと息を呑んで首を横に振った。反応したのは伯爵も同じだった。

『ソファラが?』

 問い返した伯爵に、ウィルが思いつめたような顔をしてうなずく。

 月華の心臓が段々と激しい音をたて始めていた。

 なぜかは知らないが、わかっていることがある。伯爵の前で奥方様の話は禁句だと、月華も気づいている。

 それ以上、言っちゃいけない。言ったら取り返しのつかないことになるから。

 ウィルはきっと伯爵をにらんで口火を切った。

『もう事実をお認めください』

『ウィル、やめろ!』

 慌てて制止しかけたフィリップを、ウィルは無理矢理振り払った。

 ウィルは涙を浮かべて、伯爵を見上げながら叫ぶ。

『ソファラ様はどうあっても戻ってはこられない! もう……お亡くなりになったのだから!』

 瞬間、不気味な沈黙が場を包んだ。

 天駆が動きを止めて蒼白な顔でこちらを見ているのに気づいて、月華は彼の視線を追った。

 天駆の視線の先には伯爵がいた。彼はもう笑みを浮かべてはいなかった。何の感情もない、ぞっとするほど美しい機械人形の顔をしていた。

 伯爵の瞳孔が縦に長く伸びて、瞳は血のような光を放った。

 辺りを覆いつくすのは、体中の血液が沸騰するような恐怖。

 反射的に身構えた瞬間、ウィルの居た場所が爆発した。校庭の土ごと丸く削られ、夥しい血が飛び散る。

 天駆が悲鳴のような声で叫ぶ。

「ウィル!」

 だがそこにいたのはウィルではなかった。ウィルはずっと離れた所に吹き飛ばされていて、無傷だった。

 血溜まりに倒れていたのは、ロザリエルだった。

 ロザリエルの右腕と右足は吹き飛び、深紅のドレスは惨めに破れていた。

 伯爵は感心したようにうなずいて言う。

『母の執念とはすさまじい。ウィルの名ももうわからないはずなのにね』

 彼は微笑んで優しく首を横に振った。

『わかったよ、ロザリエル。あとわずかな時間は、君の好きにしなさい』

 伯爵はそう告げて、闇の外套の中に消える。

 最初に動いたのはウィルだった。彼はロザリエルに駆け寄ろうとしながら言う。

『母上!』

『来ないで!』

 だがウィルが駆け寄る前にロザリエルは背に生えた翼で飛びあがり、ウィルから離れる。

 ロザリエルは残った左手で頭を押さえ、力なく羽ばたくのも空しく、落下する。

 ロザリエルは惑いながら言う。

『誰も……来な、いで。最後に……何かできることも、あるはずなの』

 ロザリエルは子供のように丸くなって、地面にうずくまる。

 傷口から煙のようなものが上がり、ロザリエルからうめき声が上がった。

『ダ、メ……』

 ロザリエルは一度きつく自分の体を抱き締め、ゆっくりと顔を上げた。

 淀んで血走った目が舐めるように月華たちを見回し、ぴたりと月華で止まる。

 ロザリエルは獰猛な獣の動きで真っ直ぐに月華へと飛びかかる。そのまま月華の首筋に顔をうずめる。

 ロザリエルが月華に牙を突きたてたとき、月華の視界は真っ白になった。

――あなたが一番私に近い。

 ロザリエルの声が体の内側で響いた。

 支配ではない、何か大きく温かいものが月華の中に入ってくる気配がした。

――懐かしい。天駆の匂いがする……。

 首筋から顔を離したロザリエルは、ほんの一瞬、月華に笑いかけた気がした。

 ロザリエルの体が月華にもたれるようにずり下がり、地面に倒れる。彼女の胸には一本の、黒いサーベルが突き刺さっていた。

 ウィルの呆然とした声が耳に木霊する。

『……ははうえ』

 ウィルが地面に膝をつき、がくりと頭を垂れる。

 ウィルの慟哭の声を振り切るように、天駆が去っていく。

 月華は体を叱咤して立ちあがり、天駆の去った方へと走り出した。

 激しい雨が降り始めていた。月華はぬかるんだ道を何度も転びそうになりながら山を下って行く。

 天駆の姿はない。一度も行き先を告げずに月華から離れたことのない天駆が、どこにも見つからない。

 月華は暗がりの中でつまずいて、水たまりの中に倒れ込んだ。

「……う」

 月華は上がった息を落ち着かせるために、うつ伏せのまま地面に耳をつける。

 山の反対側で、人が集まる気配を感じた。きっと雅は助かったと信じて、水溜りから起き上がる。

 山道を下りていくと、ふもとの橋の上に天駆がいた。

 びしょぬれになりながら、天駆は置き去りにされた子供のように見えた。

 天駆は月華を視界の端にとらえながらも何も言わない。月華も何も声をかけることができなかった。

 月華には、やかましいほどの雨の音しか耳に入らなかった。

 天駆は月華を見ないままにぽつりとつぶやく。

「月華様に、嘘はつかないという約束でしたね」

 天駆の言葉は、空気を震わせて月華の耳に入った。彼は彼の歩んできた道を振り返るように静かに告げる。

「百年近くロザリエルと過ごしました。人として共にあるなら十分な時間でした」

 空を仰ぎ見た天駆の頬を流れ落ちるのは、雨なのか涙なのかわからなかった。

 天駆はふいにきつく息を吸って、言葉を吐き出す。

「でも、もっと……二百年でも、三百年でも……千年でも。一緒に、居たかった」

 独り言のようにつぶやいて、天駆は頭を振った。ゆっくりと月華の所まで歩み寄ると、赤くなった目で見下ろしてくる。

 天駆は月華に手を差し伸べて言った。

「帰りましょう、我が君」

 天駆は背を軽く押して月華に歩くよう促す。

 雨の中、誰も通らない小道を天駆と並んで歩いた。声をかけられない月華を気遣って、天駆はそっと切り出す。

「申し訳ありません。お仕えする私がお側を離れるなど」

「いいんです、そんなこと」

 また沈黙が流れる。月華が俯きがちに歩きつづけていると、天駆が再び口を開いた。

「ソファラ様のことを黙っていて、申し訳ありませんでした。口にするのは禁じられた事実なのです」

 天駆は暗い声で続ける。

「三百年程前、私が王華国へ戻る少し前のことでした。ソファラ様は突然蜂起した領民によって殺されてしまったのです。ソファラ様が愛し、伯爵様が信じておられた民たちによる、獣人狩りの吹き荒れる中……幼いフィリップ様を、命を賭けて守ってくださった」

――人間に捕まったのは、小さな子どもがいて弱っている女性の獣人ばかり。

 以前フィリップが言ったことは、母のことだったのだろう。当時幼かった自分を、今も責めていた。

 天駆は悲痛な声で過去を辿る。

「あの時にもう、伯爵様は壊れてしまわれたのです。ソファラ様が生きていると思わなければ耐えられなかったのでしょう。……獣人の原型は体の強靭さに反して、心は弱いのです」

 天駆は優しく月華の頭を撫でた。

「私だって、王華の一族が絶えてしまったら……きっと、狂ってしまう」

 雨は小降りになってきた。

 曲がり道の向こうに、住み慣れた二人の居宅が姿を現していた。

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