30 血の戦い

 月華と天駆は夜も深くなってきた頃、山道で雅を待っていた。

 月華は無声音で天駆に言う。

「幻都学院にロザリエルが棲んでいたなんて知りませんでした」

 木々の間に姿を隠して天駆が答える。

「コウモリを本体とするロザリエルは、夜だけ活動する獣人です。夜に誰もいなくなる学院は快適なすみかだったでしょう。それより、月華様のお体は大丈夫ですか?」

 月華は笑って頷いた。熱は下がって、体もだるくないから十分に動けるはずだ。

 大丈夫と言おうとして口を開いた時、山道を登る足音が近づいてきた。

 月華は身を隠そうとしたが、天駆が首を横に振ったので踏みとどまる。

 足音が角を曲がり、月華の視界にその姿が現れたとき、月華は息を呑んだ。

 肩を過ぎるくらいに伸びたぼさぼさの長い黒髪、長く鋭い鍵爪、青白い顔の口の端から尖った牙が飛び出ていた。

 目の下には深いクマができ、瞳孔が開いて血走った目が月華を捉える。

 人はこんなに変わってしまうものなのだろうかと愕然とした。ほんの一月前には、彼は生徒会室で他愛ない冗談を言っていた後輩だった。

 雅は同級生の綾の手を握り締めていた。彼女は手を振り払わないにしても、恐怖を浮かべて後ろを付いて来ていた。

 月華は唇をかんで思う。

(綾さんをどうするつもりで連れてきたんだ? ……ロザリエルのおわすこの山へ)

 やはり引き返すことはできないのだろう。月華は奥歯を強く噛み締めて言う。

「こんばんは。やはり現れましたね」

 もしかしたらと信じないでいた。でももう、雅が獣人化した事実は変えられない。

 月華は雅を見据えて命じる。

「彼女を離しなさい、雅君」

 月華は腰から爪を取り出すと、雅に向かって走る。雅は屈みこんで軽く飛ぶと、森に姿を隠す。

 その一瞬の動きは獣じみていて、月華には人間だった彼の姿と重ならないでいた。

 森の中に沈黙が満ちる。月華は気を落ち着かせようと息を吐いて、注意深く森に分け入った。

 ふいに雅が、森の中から声を放ってくる。

「先輩、俺はこれからロザリエルを倒しに行くんです」

 人語はまだ忘れていないようだった。けれど安堵しようにも、彼の様相は既に人ではなかった。

 遠くから、雅はなお言葉を続ける。

「人間に戻ってみせます。見逃してください!」

 月華はそれを聞いて唇を噛む。

 一瞬見えた雅の姿が衝撃的で、月華は彼が人間に戻る姿を思い描けない。

 ちらりと草の合間に雅の姿が映る。

 月華は無言で間合いを詰めたが、彼はまた身を屈めて木の上に飛びあがった。

 雅はそこから月華の上に飛び降りてきて、月華を押さえつけようとした。

 月華は短く声をもらす。

「ちっ!」

 月華は爪で雅を押しやろうとした。だが雅は空中で体を捻ってかわすと、月華の上にのしかかってくる。

 月華は低くうめいて声を上げる。

「ぐ……うっ!」

 地面に押しつけられる息苦しさに喉を詰まらせる。目を薄く開けると、自分の首筋から血が流れていた。倒れた時に切ってしまったらしい。

 雅が小さく息を呑んで、無表情で月華を見下ろした。目が恍惚とした色をたたえていて、瞳孔が縦に伸びていく。

 被支配者を目の前にしたとき、獣人は衝動を抑えられない。

 月華は必死で雅を押し返そうとしながら抵抗する。

「や、め……」

 背筋を冷たいものが走った。雅は月華の抵抗にびくともしない。月華の首に顔を埋める。

 首を噛まれようとしたとき、雅は吹き飛ばされて木に叩き付けられていた。

 月華が起き上がろうとすると、側に現れた天駆が素早く月華に手を差し伸べていた。

 月華は天駆に制止の声を上げる。

「私一人で大丈夫です」

 思わずえらそうな口を叩いた月華に、天駆は首を横に振った。

「無理はいけません、我が君。あなたは本調子でない。すぐに済みますから、大人しくしていてくださいませ」

 天駆は腰からサーベルを抜く。彼の手足のように動くそれは、単純で強力な武器だ。

 天駆は雅にサーベルで切りかかる。雅の足元の地面が血で染まっていく。

 彼のようになりかけの眷族は獣人の心臓ともいえる核がどこにあるかわからない。主である獣人の支配から逃れられればいいが、それが体中を凌駕しているうちは血をすべて抜くしかない。

 月華は目をそらすことも叶わずにその処刑を眺めていた。彼の命が尽きる前に、ロザリエルの支配が解けるのを祈るしかなかった。天駆の方法が最善とわかっていながら、それが一番残酷だともわかっていた。

 ふいに少女の声が耳に届く。

「雅!」

 綾が茂みを分け入って来て、月華は彼女の方を振り向く。同時に、天駆のサーベルの先が綾に向いた。

 月華は息を呑んで叫ぶ。

「……やめなさい、天駆! 彼女は人間です!」

 天駆が場に居合わせた人間を口封じのために殺す確信があった。それは彼にとって悪ではない。

 立ちあがりかけた月華の前に、飛び込んできた影があった。

「い……てぇ!」

 雅は体中から血を流しながら跳んで、綾をかばった。綾に抱きつくような格好で地面に倒れこみ、がくりと手足を投げ出す。

 月華は息を呑んでその光景をみつめる。

「かばった……?」

 月華は雅にまだそんな正気が残っていたのを信じられないでいると、綾が声を上げた。

 綾は雅を受け止めて叫ぶ。

「やめて! 雅はちゃんと人間なんだから! 人を噛んだことなんてないし、これからだって噛まない。私が見てる!」

 綾はぽろぽろと涙を流しながら必死で食いつく。闇の中にたたずむ天駆を震えながらにらみつけて、雅を後ろに庇った。

 月華は綾と雅を見比べて立ちすくむ。

 ふいに雅が掠れた声でつぶやいた。

「……由宇先輩」

 雅は訴えるように月華へ言葉を告げる。

「先輩はよく知っていますよね。俺は優柔不断なんです。人に押され、回り道をしないと何も決められない。でも、今度だけは」

 うめくように、苦しげに雅は言葉を紡ぎ続ける。

「勝ち目がなくても、決めたから……。最後までやりとげます。綾と一緒に帰るって、約束したから」

 ぎゅっと綾の手を握って、雅は言った。

「見逃してください……。人として、生きていたいんです」

 雅はそう繰り返しつぶやく。焦点の合っていない目で、誓いを口にする。

 月華は一度きつく目を閉じて開いた。

 心の内で、彼らの先輩だった自分がしっかりしろと言って来る。

(そうだ。後輩たちの面倒を見るのが、私の楽しみだったんだ)

 月華は雅と綾をみつめて苦笑する。

「あなたたちは一族でもないのに、それほどまでに信頼しあえるのですね」

 月華には、ちょっとだけ二人が羨ましかった。

 天駆は月華を慈しんでくれたけれど、それは一族に絶対服従という義務感からだ。食事を作ってくれるのも、服を作ってくれたのも、全部次の世代へ受け継がせるためだ。月華のためではない。

(天駆の子供に生まれればよかったのに。そうしたら無条件で、愛してくれただろうに)

 月華は雅の横に膝をついて、彼の上体を起こす。訝しげな綾と目が合う。

 天駆が制止の声を上げるのが聞こえた。

「まさか……っ! 我が君、なりません!」

 月華は体中の意識を研ぎ澄ませて、雅を噛んだ。

 その瞬間、月華の中に流れ込んできた異の力があった。それはほんの少しだけ、薔薇の香りがした。

 天駆の制止の声は途中で聞こえなくなった。体の中をロザリエルの支配が駆け回った気がした。

 遠退いていた意識を取り戻すと、雅の面差しにいつもの後輩の表情が見えた。青い顔色は少し赤みを差して、小生意気な目が月華を見ていた。

 月華は微笑んで、ひどく重い体を起こした。

 月華は病人のような声で、強がって告げる。

「ロザリエルとの決着は、私がつけます。……私はこれでも先輩ですから」

 天駆に噛まれた月華なら、すぐに他の眷属にはならない。まもなく体の中で支配の競合が起こって苦しみはやって来るだろうが、これ以上後輩たちを苦しめるわけにはいかなかった。

 天駆がそっと月華を支えて起こす。月華は小さく頷いた。

 天駆は月華を抱き上げて夜空に跳び上がる。

 夜空を往きながら、天駆が言う。

「申し訳ありませんでした」

 月華には天駆の体を通して彼の声が伝わってきた。

「とっくにロザリエルの居場所を知っていたのに、苦しんでいるのもわかっていたのに、踏み切れなかった」

 月華と天駆の両脇を風が駆け抜けていく。天駆の声はもう悲しみに揺れてはいなかった。

 天駆は風を押し返すように決意の言葉を告げる。

「でもロザリエルの支配を受けたら月華様が苦しむ。……覚悟を決めます」

 ふいに風が止まった。月華が朦朧とした意識で辺りを見ると、そこは見慣れた幻都学院の校庭だった。

 月華を花壇の横に寄りかからせ、天駆は振り返らずに歩いていく。

 その先に、美しい深紅のドレスをなびかせた、ロザリエルの姿があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る