29 彼の回想

 月華が額に汗ではりつく髪を払おうとしたら、代わりに冷たい手があてられた。

 ぼやけた視界の中で、枕元に天駆が座っている姿が映る。

 天駆は月華の額に触れてつぶやく。

「まだ熱が高い。でも、少しは昼食を召し上がってください」

 天駆は濡れた布を月華の額に置いて、頭の下に氷枕も入れてから立ちあがった。

 月華はしばらくぼんやりと窓の外を眺めていた。薄曇りだが太陽が昇っていて、今は昼過ぎのようだった。

 月華はだるい右腕を持ち上げて額の布に触れる。こんな真夏に熱を出した自分は、やはり体が弱いのかもしれない。

 月華が天井に視線を移して木目を数えていると、障子を開けて天駆が戻ってきた。手には粥らしきものがあって、香草の匂いが漂った。

 月華は体を起こしてもらって、渡された食事をゆっくりと口に運ぶ。味は薄めだったが、久々に食べた天駆の食事はやはり美味しかった。

 月華はさじを止めて思わずつぶやく。

「疲れた」

 言ってしまった後、昨晩のことを思い出して顔が赤くなった。

 天駆はいぶかしげに月華をのぞきこむ。

「月華様?」

 月華は顔を覆いながら、顔を見ないでほしいと思った。

(昨日は勢いであんな頼み事をしてしまったけど、今は恥ずかしくて死にそうだ)

 天駆は心配そうに月華に問う。

「ご気分が悪いですか?」

「ち、違う……」

 月華はさじとお椀を持ったままずるずると布団の上を後ずさった。

 その時ふと、月華は自分の中に満ちる感情に気づく。

「……あれ。絶対の愛って、こんなに穏やかなものなのですか?」

 月華は首を傾げてつぶやく。

「前噛まれたときは、天駆が怖かったり、逆にひどく執着したり、自分が自分でないみたいな気持ちを何年も持っていましたけど」

 月華が照れを忘れて天駆を見上げると、彼は苦笑して答えた。

「月華様は大人におなりです。受け止め方が変わったのでしょう」

「そんなほのぼの言わないでください。私、あなたに恋をしたんですよ?」

 月華が非難がましい目を向けたら、天駆は申し訳なさそうな顔をしてうつむいた。

「あのときとは何もかもが違います。前のときは、月華様の体が拒否反応を起こしてしまいました。三日間死線をさまよっておられた……」

 月華は記憶の狭間に落ちたそのことを聞いて、遠い目をした。天駆が言うのだから、きっと月華は相当危うい状態だったのだろう。

 天駆は後悔に満ちた声で言葉を続ける。

「それにあの時は月華様の精神も幼かった。月華様は何が起こったのかわからず恐慌状態でした。さぞかし恐ろしい思いをされたと思います」

「……天駆、どうしてそういう大事なことを急いでしまったんですか。私は遠からずあなたに惹かれていったのに」

 月華はそのとき以来、ちょっとした人間不信になった。女の子に告白されても付き合えないし、男友達と遊びに行く事もできなくなった。

 天駆は大真面目に月華へ答える。   

「月華様と一刻も早く心を結ばなければ、月華様をお守りできなかったからです」

 それは天駆らしい、ちょっとはた迷惑な忠誠心のせいらしかった。

 月華は少しむくれて言う。

「もういいです。天駆が本気で私に愛をぶつけたら死んでいましたから。ロザリエルとは情熱的な夫婦だったそうですからね」

「伯爵様も人が悪いですね」

 微妙な笑いをこぼして、天駆は空になった月華の器を取り上げてお盆に乗せる。代わりにお茶を渡してくれたので、月華は冷たい喉ごしのそれを一気に飲みほした。

 天駆は何気なく思い出話を口にする。

「情熱、そういう頃もありました。私は見事にロザリエルに振り回されて、縁を結ぶことになりましたから。彼女には出会った時から驚かされることばかりでした」

 月華が湯のみを返すと、天駆はそれもお盆に乗せる。天駆は言葉も反応のように続けた。

「まさか伴侶となるとは……気が付けば追い詰められていて、逃げ場をなくしていましたからね」

 天駆は話を打ち切って、お盆を抱えて立ちあがろうとする。月華はそんな天駆を制した。

 月華は天駆の袖を引いて、子どものようにねだる。

「続けてください。ロザリエルのこと」

「ご不快でしょう。過去の女性関係の話など」

「聞きたいんです」

 ほとんど無理矢理に天駆を座らせて、月華もしっかり座りなおした。

 月華は憮然としながら天駆に言う。

「相思相愛なら素直にそう言いなさい」

 月華はどんな命令だと自分で思ったが、天駆は真面目に受け取ってくれたらしい。彼は真顔であっさりと言う。

「相思相愛でした」

「じゃあ何で迫られて縁を結んだとか言うんです」

 天駆は納得したように頷くと、苦笑いして言った。

「いえ、無理矢理伴侶になったわけではないんです。ただ獣人は片思いから始まるもので、私たちの場合は先に迫って来たのがロザリエルだったというだけの話です」

「幸せじゃないですか」

「男にとっては怖いやり方でこられたんです」

 月華が天駆を見上げると、彼は当時を思い出すかのように少し眉を寄せて言った。

「朝起きたら裸で横に寝ていました。私は酒で前後不覚になることはないのですけど、いろいろと妖しいものを使われたのか、何も覚えていなかったんです」

「ある意味天駆らしいです」

 月華が思わず笑うと、天駆は咎めるような口調で月華に言う。

「笑わないでください。私は本当に焦ったのですから。主君になんと言い訳すればいいのかとか、今後どうするとか、覚えていないのはもったいないことをしたとか……必死で考えたのですからね」

 最後の方に何か天駆らしからぬ言葉が混じっていたが、あえて月華は無視してやることにした。

 月華はなんとか笑いを収めてから天駆に問いかける。

「でも好きだったんですね?」

 天駆は笑ったが、その笑みは徐々に寂しそうなものへと変わっていった。

 天駆は苦い口調で言う。

「ええ。でも駄目なんですよ。私は彼女にひどい仕打ちをしました」

 天駆はぼんやりと曇り空を眺める。つられて、月華も窓の外へ目をやった。

 天駆のみつめる東には、王華国がある。月華には見えないそこをみつめながら、天駆は言った。

「最初はね、ロザリエルもウィルも王華国へ連れ帰ろうとしたんです。私たち守護獣人も家族を持つことは許されますしね。でもロザリエルだって、ランデンの一族の誇りを持っていました。私にはそれを奪うことはできなかった」

「ウィル君はそれを知ってるんですか?」

 ふいに月華は不満げに言葉を挟んでいた。

「彼の中では、天駆だけのせいにされているんじゃないでしょうか」

 天駆は静かに首を横に振って返した。

「一族の御為に私がロザリエルたちを捨てたのは事実です」

 天駆はあくまで落ち着いて言った。

「ウィルが私を憎みたいのなら憎めばいい。その代わりに母親を愛してほしい。私はウィルに、自分を守り育ててくれた母親だけは嫌って欲しくなかったし、愛情を忘れた生き物になってもらいたくもなかった」

「天駆の愛情が伝わっていないです」

「構いません。……一生、伝わらなくても」

 月華にはようやく、天駆がウィルに対峙した時の突き放した態度の理由が分かった気がした。

 月華はためらいながら問いかける。

「ロザリエルを元に戻すことはできないのですか」

 無言で見つめてくる金の瞳で、わかってしまった。天駆が、自らロザリエルを狩ろうとしていること。

 天駆は月華の預かり知らぬ誓いを口にする。

「ランデンを発つ時にお互い約束したんです。どこにいてもきっと、道を外れたら安らかに眠らせてやるとね。私はロザリエルと一緒に永眠らない代わりに、彼女に終わりを与えて、自分が永眠るときまでその事実を背負っていかなければなりません」

 天駆はお盆を持って立ちあがる。彼はすぐに踵を返したので、月華は天駆の顔を見ることはできなかった。

 天駆は月華に背を向けたまま言う。

「……後輩の少年の居場所がわかりました。ロザリエルのすぐ側にいます」

 月華は息を呑んで、一瞬だけ迷った。

 けれど後輩の雅と過ごしてきた時間が、月華の背中を押した。

 部屋を出て行こうとする天駆の背中に、思わず月華は声をかけていた。

「天駆、私も行きます」

 天駆が驚いて振り返るのを見上げてから、月華は深く頭を下げた。

「雅君を本当に元に戻すことができないか、私はまだ確かめていないんです」

 ちょっと生意気で、不器用で、でも優しい少年。

 彼を心に思い描きながら、月華も決意を言葉にしようとした。

「……もしも、彼も引き返すことができないのなら」

 そのときは月華が終わらせると、まだ口にできるほどの勇気はなかった。

 天駆がロザリエルを想う意思の強さには及ばなくとも、月華にできることなら何でもしてやりたかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る