28 願い事

 月華は息を吸って声をかける一瞬の間、怖いとも思った。

 絶対だった彼の、絶対でない感情を知った今、以前と同じ顔をして話ができるのか、不安だった。

 月華は震えた声で彼に呼びかける。

「天駆」

 過剰な反応をして、天駆は月華の方を振り向いた。

 そのとき彼の顔に浮かんでいた感情を、月華は今まで知らなかった。

 迷子の月華をずっと必死で探していたような、一方で天駆自身がずっと迷子だったような、途方に暮れた顔に見えた。

 天駆はしばらくそのまま微動だにしなかった。ふいに天駆はよろめくように月華に近づく。

「……月華様。今まで、どこに」

「居留地に旅してきました」

 天駆は不可解といった様子で首を振り、言葉に詰まって俯いた。

 月華は苦笑しながら言ってやる。

「もうこの世にいないと思いましたか?」

 天駆は噛みつくように声を荒らげて言い返す。

「想像したくもありません!」

 真秀は側にいる存在をあいまいにすると言っていた。だから月華は、ずっと気配すら消えていたのだろう。

 天駆は月華に駆け寄って、震える手で月華に手を伸ばして問う。

「お体は、お食事は……!」

「そんなに死にそうに見えますか、私は」

 月華は、今日は全体的に歯切れの悪い天駆の言葉に答える。

「すっかり元気ですよ」

 月光で月華がそれほど痩せていないのはわかったのだろう。天駆は少しだけ安心したようで息をついたが、すぐに緊張をまとって月華を見た。

 天駆はうなだれて月華に謝罪する。

「申し訳ありませんでした、月華様。噛んで月華様を支配していたのは事実です。弁解の余地はありません……」

「私は弁解を聞くつもりで帰って来たんです」

 月華は彼の目を見据えて言う。

「でも、約束してください。どんなことを聞かされても逃げませんから、今度こそ嘘をつかないでください。いいですね?」

 天駆は深くうなずいて月華に応える。

「わかりました。誓って嘘はつきません。その、ですから」

 天駆は顔を歪めて、頼み込むように言った。

「……もう少し近づいて、よく顔を見せてください」

 その言葉に、月華はゆっくりと近づく。

 天駆は声をにじませてつぶやく。

「月華様……。無事で、本当によかった……」

 天駆は月華の顔を震える手で包んでみつめたまま、涙を流していた。

 しばらくして、二人は住み慣れた居宅に帰ってきた。月華は心配そうな天駆の視線を受けながらテーブルの向こうに座る。

 天駆がようやく座ったのを確認してから、月華は口を開いた。

「居留地でディアマンテ伯にお会いして、一族については多少詳しくなりました」

「伯爵に、ですか」

 さっと顔色を変えた天駆に、月華は言葉を続ける。

「天駆は私を当主とするために、弥生君と争って真秀さんを生贄にしようとしている。合っていますか?」

「はい」

 間髪入れずに天駆はうなずいて告げた。

「古代から当主は何人もの生贄の血を得るのを儀式としてきました。どんなに減らしても、一人は必要です。それは年々弱まっていく一族の血を次世代に受け継ぐため」

「どうしても、ですか」

 深く頷いた天駆に月華はうつむき、顔を上げて言った。

「では次に、天駆が私以外の一族の後継者を抹殺したというのは事実ですか?」

「それを言ったのはタンレンですね?」

「天駆。質問しているのは私です」

 月華がきつい口調で問い詰めると、天駆は表情を歪めて言った。

「事実です。もっと言えば次期当主としてどのご子息につくか考えあぐねている守護獣人たちをあおって、自滅させたというのが正しい」

「罪悪感はないのですか」

 これにも天駆はためらいなく頷いた。

「ありません。彼らに正統性はない。そう当主や一族を説得したのですが、彼らは私の言葉を受け入れませんでした。一族全体の粛清を行うより他なかったのです」

「私は自分が正統だとは思いませんが。月の満ち欠けと共に変わる存在など」

 天駆は首を振る。穏やかな眼差しで月華を見て言った。

「いいえ。月華様は私が長い間待望していた方です」

 でもと言いかけて月華は口をつぐんだ。

 結局なぜ天駆が月華を手塩にかけて育てたのかはわからなかった。天駆の中で何か、月華の知ることのできない基準があるように思った。

 月華は下を向いて違う問いを投げかける。

「あなたにはかつて伴侶に選んだロザリエルと、親子同然に過ごしたウィル君がいます。ランデンの一族にとって、家族に勝るものはないそうです。家族の方があなたにとって大事ではないのですか?」

「我が君に勝るものはどこにもおりません。月華様」

 月華にとっては勇気の必要だった問いかけにも、天駆はためらいなく答えた。

 その答えは、ある程度の予想はしていたので衝撃は少なかった。こんな訊き方ではこう答えるに決まっているのが天駆だった。

 一度言葉を切ってから、月華はゆっくりと問いかけた。

「では私があなたに、ウィル君を殺せと命令したらどうでしょう。できますか?」

 天駆が息を呑むのがわかった。月華の意図が計りきれないといった様子だった。

 月華は追及するように問いを続ける。

「あなたの口から聞きたいのです。私はあなたの妹、あるいは娘のように育ってきました。あなたはどこまで私とウィル君をはかりにかけられるのですか?」

 これは大事なことで、月華はどうしても今聞いておかなければならなかった。

 月華は時を刻む針の音を耳の端に入れながら、根気よく天駆の答えを待った。

 天駆は何か言おうとして口を開いては閉じるという素振りを繰り返していた。

 長い沈黙の後、天駆は苦しげに口を開く。

「……私は」

 ぽつりと口にした言葉を一言も聞き漏らすまいと、月華は耳を澄ませた。

 天駆は彼が考えた想像をかき消すように、震えてつぶやく。

「私には……それだけはできません」

 その答えがずっと欲しかったから、月華は心の底にそれを受け入れた。

 月華は笑って、戸惑った様子の天駆に言った。

「ごめんなさい。ありがとう。それでいいんです。……どうかそのままでいてください」

 天駆が養子に対しても情の深い男だったと知ってほっとした。これで心を決めることができる。

「月華様?」

 天駆の声ではっと顔を上げる。月華はいつもの癖で微笑みそうになったが、それが彼を心配させてきたのだと笑いを引っ込めた。

 月華は顔を上げて言葉を切り出す。

「あなたに頼みたいことがあります」

「何なりと」

 天駆がうなずいてじっと金の目を向ける。月華はためらいながら言葉を続けた。

「簡単なことなんです。どうしても、一つだけ」

 簡単、けれどとても繊細な一言を、月華は告げた。

「私はあなたと結ばれていたい。……だからもう一度、噛んでくれますか?」

 天駆は硬直して、ひととき月華をみつめた。

 月華には時が戻ったような、来たことがないところに来たような、不思議な錯覚があった。

 それは天駆も同じだったようで、彼は月華に問う。

「かつて伴侶を選び、捨てた私が……再び愛を望んでいいのでしょうか」

 月華は微笑んで、温かみを分け与えるように天駆の頬に触れた。

 月華はうなずいて天駆に告げる。

「……はい。あなたをいつも慕ってきましたから」

 天駆も月華の頬に触れて、労わるように引き寄せた。

 月華は不意の優しいキスに目を閉じながら、彼を無心に慕っていた頃に戻っていった。

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