27 唯一
月華は揺りかごのような振動を感じながら眠っていた。
浮遊感で体が重くなったり、軽くなったりする。
その中で月華はちょっとだけ、幼い頃の抱っこの感覚を思い出した。月華の場合抱き上げてくれるのも背負ってくれるのも、天駆しかいなかったけれども。
――天駆なんてきらい。
幼い日は、月華は嘘ばかり言った。
(天駆が離れていこうとすると尻尾を掴んでしがみついたくせに。天駆がいなければ何もできなかったくせに)
月華は天駆にそんな迷惑をかけ通しだったから、せめて学院ではいい子でいようと思ったのだった。問題を起こさないことだけ考えて、全部天駆の望むままに行動した。
天駆が月華を騙していたことを知ってからは反抗することだけを考えた。月華がいなくなればどうせ新しい主でも見つけるのだろうとまで思った。
でも、どれも違う。天駆に甘えるのも、従うのも、反抗するのも、今の月華が望むことじゃない。
(私は天駆に何かしたかった。ただ、それだけ)
浮遊感に終わりの予感を感じて、月華は目を開いた。
月華に、低く穏やかな声がかけられる。
「そろそろ到着だよ、月華」
はっと気づいて体を起こすと、正面の座席で伯爵が微笑んでいた。
慌てて服装に乱れがないか調べる。結構長い間寝入っていたようで、髪が少しもつれていた。
船の窓の向こうには、海峡にそびえたつ幻都が見えた。
今は黄昏の空に包まれていて、いつもと雰囲気は違っていた。けれど一目でそれとわかったのは、生まれた国よりも馴染みが深かったからだった。
伯爵は優しく月華を労わって言う。
「よく眠っていた。体調はどうだね」
「良いみたいです。ありがとうございます、伯爵」
月華は真秀たちより一週間遅れての帰都だったが、伯爵の私有する船に便乗したので行きよりもゆったりとした海の旅だった。
居留地の伯爵の住まいで静養して、食欲も体力も随分回復していた。
月華はほとんど客室で眠っていたが、伯爵の住まいの、冷えた石作りの壁の感触は覚えていた。
伯爵は気づかわしげに月華へ言う。
「本当に良かったのかね」
月華はそんな伯爵に、首を横に振って答えた。
「伯爵様は最大限のことをしてくださいました。感謝の言葉もありません」
「そうか」
伯爵はうなずいて、二人の間に沈黙が流れる。伯爵はもう月華の選択を持ち出そうとはしなかったが、月華がそれを口にしたときからどこか哀しそうだった。
月華はふと話題を変えて言う。
「伯爵様の奥方様にお会いできなかったことだけが心残りです」
月華が口にした名前に、伯爵は嬉しそうな表情を見せて柔らかく微笑んだ。
「私も君に会わせたかった。純心で領民思いの自慢の妻だ。ただ病弱で眠っていることが多いし、まして外には出してやれない」
「奥方様は、生まれつきの獣人ではないとうかがいました」
伯爵は頷いて答えた。
「人間は獣人化させてしまえば長き時を共に過ごせるとはいえ、その弱さゆえにハンターに狙われるからね。人間は、妾妃の一人として迎えればいいと言うのだろうが」
「ランデンには美しい方がたくさんいらっしゃるのでしょう」
月華が言うと、伯爵は可笑しそうに笑った。
「私はソファラ以外を愛したことはない。獣人が伴侶以外とつがうなど、めったにないものだ」
伯爵は深く頷いて朗らかに言った。
「ソファラが私の求婚を受け入れてくれるまで二十年かかって、フィリップが生まれるまでは百年かかったからね」
「ひ、百年ですか」
時間そのものより、その間をうれしそうに語る伯爵の心が月華を驚かせた。
伯爵は思い出すように続ける。
「獣人の中でも結ばれるまで長かった方だ。私はただソファラがいてくれればいいと言っていたのに、ソファラは子ども扱いしないでと怒るんだ」
顎に軽く手をあてて伯爵は窓の外を見た。
「なにせ側に刺激的な恋人同士がいたからだろうか。ふふ、ソファラは羨ましそうに二人を見ていた。君もよく知っている、天駆とロザリエルだよ」
その時のことをみつめ返すように、伯爵は小さく声をたてて笑った。
「二人とも獣人だと情熱が違うのだろう」
失礼と伯爵はつぶやいて目を細める。船の速度は随分と落ちてきていた。
伯爵は独り言のようにもう一度告げる。
「……私はただ、ソファラがいてくれればそれでいいんだ」
その言葉は、なぜか月華を体の底からぞっとさせた。月華は自分がわからなくて、自分の胸を押さえた。
伯爵は元のように朗らかに問う。
「どうかしたかね?」
「い、いえ。きっとフィリップ君にとっても自慢のお母様ですね」
月華が目をそらしながら急いで言うと、伯爵は優しく微笑んだ。
「フィリップはまだ子供だ。私とソファラがどれだけ苦労してあの子を守って来たのか知らない」
月華はほっと安堵する。一瞬、伯爵にとっての家族にフィリップがいないように感じたのは、気のせいだったのだろう。
軽い上下の揺れが起こり、船は無事に関所の港に着岸した。月華は荷物を確認して、襟を正してから伯爵に向き直る。
「本当にありがとうございました。一生忘れません、伯爵」
頭を下げると、伯爵は軽く月華の肩をたたいて頷いた。
「大したことはしていないよ。君が望むことに少しばかり手を貸しただけだ」
伯爵は目を細めて月華の背を押す。
「お行き。……君にとっての唯一の存在のところに」
歩き出した月華の上に、月光が降り注いでいた。
夏の夜空に相応しく、空にはたくさんの星が浮かんでいた。
月華はぼんやりと空を見上げながら、人のほとんど通らない細道を踏みしめて歩く。
月華にとって、星は一つ一つを見てもそれほど感動しないが、数多の輝きを見ると心の中がほっと温かくなる。ちょうど、一人一人には関係が薄い、学院の友たちのように。
月華は集団の中の、目立たない一生徒に過ぎなかった。それでも月華は幻都学院が好きだった。毎日が意味も無いお祭りのような日々でも、今はこんなに過ぎし時が懐かしい。
月華は足を止めてじっと空を仰ぐ。ひときわ大きな光が視界に広がる。数多の星が好きでも、あの金の光に敵うものはない。
ずっと、月華が一番好きだったのは天駆だ。本当は天駆が月華を騙していたことなどどうでもよかった。
ただいにしえからの血塗られた歴史も、天駆の使命も、汚れたことを何も知らずに天駆に頼りきって生きてきた自分が恥ずかしくて、情けなかった。無力感に泣きたい思いがした。
(どうか、月にあらせられるという天帝よ。あなたの力をほとんど失ってしまった出来損ないの子孫に力をください)
月華は月に向かって祈る。
(私に、あなたの愛し子たちを守り続けてきた彼を変えられるだけの力を)
湖に架かる橋の上で、空を仰ぐ人物の姿が見えた。
音の無い世界で、彼の金の瞳が哀しみに濡れていた。
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