26 抗うもの

 温泉は、細い木道の続く先にふいに広がった湖のほとりにあった。

 月華たちが着いた時はもう真っ暗で、道の端に置かれたカンテラが橙色の光で辺りを淡く照らし出していた。

 案内人が石造りの小屋の戸を引きながら言う。

「女性の脱衣場は右手です。帰りはカンテラの灯りを辿ってお戻りください」

 弥生と真秀はお礼を言って、月華は声の代わりに礼をした。

 案内人は月華の意思もくみ取ってくれたようで、朗らかにうなずく。

「一刻ほどでお迎えに上がります。一族の者も、客人に襲いかかったりはいたしませんからご安心を」

 月華には、終始紳士的で穏やかな彼らを見ていると獣人ということを忘れそうになる。ランデンの獣人たちはめったに人と交わることなく、領地にひっそりと住まうと聞いた。

 それでも獣人の本性として、愛や支配のために噛むことは変わらないらしい。月華は一人で来なくてよかったと今頃になって思った。

 月華は男として振舞って生きていた。なるべく真秀を見ないようにしながら急いで着替えて露天風呂へと向かう。

 ごつごつした岩場の隙間に、乳白色の湯が湧きあがっていた。温泉なら幻都で見ることはあるが、こんなに濃い白色の湯は初めてだった。

 その色と芳香を楽しみたくて、水辺で座ってまず指で遊んでいた。やがて後ろから真秀がやってきて声をかける。

「入りましょう、先輩」

 その声が笑っていて月華が振り向く前に、真秀は湯溜まりに足を入れる。

 月華はつと息を呑んだ。真秀の体にはほとんど胸はなく、作りものめいた肌の白さをしていた。

 真秀は月華の視線に気づいたのか、淡く笑って言う。

「驚かれましたか。私の体は無性なんです」

「真秀、大事な体を見せるな」

 弥生もやって来て、自身が間に入って真秀の体を隠す。

 真秀を抱え上げてゆっくりと湯に入れた弥生、彼の体も改めて見た。

 以前彼を噛みかけて拒絶反応が出たとき、月華は彼の胸を少し叩いてしまった。……彼には、女性の胸もあったように思った。

 弥生は真秀の横に浸かりながら、月華を見上げる。

「入ったらどうですか、先輩。不可思議なものを見る目で見られるよりは、説明した方が気が楽です」

 月華はためらいながら、二人に背を向けて湯に足を踏み入れた。

 肩まで浸かって体に浸透する温もりを感じながら、月華は二人の声に耳を傾ける。

 真秀は昔語りをするようにして切り出す。

「幻都の一族には時々、同じ日に無性と両性具有の子が生まれるそうです」

 弥生は真秀の言葉を包み込むようにして続ける。

「それは分かたれた半身。生涯をかけて結ばれる存在」

 弥生はふいに、固い口調で言葉を重ねた。

「……けれど無性の子は、二十歳を迎える前に眠りにつくとも言われます」

 月華が呼吸を止めると、真秀が穏やかに言った。

「だから私はまもなく生を終える。それなら先輩が当主となるために、王華の生贄になってもいいと思っているんです」

「真秀! 僕が許さない!」

 湯が動いて、弥生が必死に否定するのが聞こえた。

「幻都の一族だって、生贄で命をつないできた。僕は真秀が生き永らえるためなら、何を犠牲にしてもかまわない!」

 弥生はぐいと月華の肩をつかんだ。月華は振り向いて弥生のまなざしを正面から見ることになった。

 弥生の目は月華への殺意というより、命に縋っているように見えた。弥生は痛いほどに月華の肩を握りながら言う。

「……由宇先輩を生贄にすればいいんだ。幸い、今僕たちの手の中にある」

 けれど真秀はそんな弥生の腕をつかんで、首を横に振る。

「先輩は天駆さんと離れた。害してはいけない」

 真秀は無理やり弥生を自分の方に向かせて言う。

「弥生、わかって。それは特殊な力があった古い時代の獣人の話。今や私は只人なのよ」

「やってみなきゃわからないじゃないか!」

 落ち着いた真秀に比べて、弥生の声は子どもがわがままを言っているように聞こえた。

「君は僕と共に生まれた、僕の半身なんだ。僕は命を終えるときまで、君と共にいると誓ったんだ……」

 月華は弥生がむき出しの気持ちをぶつけるのを聞いて、ふいに理解したことがあった。

(私と天駆はどうだっただろう)

 月華が思いを馳せるのは、ずっと天駆のことだ。

(私はいつも天駆に子どものように守られてきたと思っていた。でも、彼の気持ちを考えたことはあったか?)

 天駆は月華のことを、私がお育てした正統な血筋の君と繰り返し口にした。彼は仕えるようで、育てるようで、彼が月華を見上げる瞳はどこか子どもじみていた。

 月華には真秀と弥生の関係が、ふいに自分と天駆に重なった。

(今、わかった。天駆だってずっと怖かった)

 自分を置いて先に逝ってしまわないでほしい。ただその一心で、今となっては生贄という役に立つかわからない手段にすがっている。

 ……それは先に逝く親に追いすがる子どもと、何が違うというのだろう。

 月華の目の前がぼやけて、湯の中に音をたてて水が落ちた。月華には、それが自分の涙だと認識するのには少し時間がかかった。

 真秀が気づかわしげな声で言う。

「先輩?」

 月華はその声を遠くに聞いていた。

 天駆は一族も他の一族も傷つけて、月華すら騙して当主を継がせようとした。残酷で、自分勝手で、月華は天駆が怖くて憎くて、他の一族に頼ってまで逃げた。

(でも私は自分で決めたことがあっただろうか)

 月華は笑うことで、自分の意思を誤魔化してきた。あつれきを恐れ、天駆に嫌われたくないという思いばかり先走って、ただの人形に成り下がろうとした。

 月華は喉を叱咤して声を絞り出す。

「……私は」

 掠れた声が月華の喉からこぼれる。

(私は何をしたい?)

 月華は真秀に問われたことを自分に問う。

 天駆が悪いと言うのは簡単だし、生贄なんて残酷だと文句をつけるのは所詮他人事だ。

 月華の未来なのだから、月華が決めなければいけない。その決定が他人からどう取られようといい。

(自分に嘘をつかなければ、それでいい)

 月華は息をついて言葉を口にする。

「先に上がります」

 声を出した月華に真秀は何か声をかけようとしたようだった。

 でも月華は振り返らずに脱衣場まで早足で向かった。脱衣場に入るなり扉をしっかり閉めて、深呼吸をする。

(考えてみればもうずっと前に答えは出ていたのに、私がそれを認めたくなかっただけだ)

 月華は自分に誓うようにつぶやく。

「天駆のところに……戻らなくては」

 血塗られた玉座を嫌っても、月華を縛る愛を憎んでも、何も変わりはしない。

(やっと見つけた。私がやりたいこと。私にしかできないこと)

 月華はそれを言葉にして確かめる。 

「天駆を一族の歴史から解放する」

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