25 居留地
ランデン人の居留地である人工島は、歩いて一刻ほどで一回りできるという。
幻都との外交官が駐在するところだが、お抱えの商人や家人も周囲に居を構えているから、小さな街ほどの規模があった。
そこに月華と真秀が船に揺られてたどり着いたのは昼前だった。
月華は船に乗った記憶がないから、緊張してそわそわしていた。そんな月華とは対照的に、真秀は眠ってばかりだった。
着いたというのにまだ眠っている真秀を起こすのをためらっていたら、彼女はぼんやりと目を覚まして言った。
「おっと……すみません」
真秀はのろのろと動き出して準備を始める。月華は真秀が鞄を下ろすのを手伝って、船着き場に向かった。
真秀は船旅の間中、景色も見ずにひたすら眠りつづけていた。今も目は半分以上寝ていて、いつも優れない顔色を見ても、あまり体が丈夫でないように思えた。
月華と真秀が船着き場に足を踏み入れると、待ちわびたように弥生が走ってきた。
弥生はほとんど悲鳴のような声で真秀を呼ぶ。
「真秀!」
弥生と真秀が離れていたのはほんの半日だが、弥生はぎゅっと真秀を抱きしめて忙しなく顔色をのぞきこむ。
「大丈夫? じきに迎えが来るからね。すぐ行こう」
弥生はそれが当たり前のように、真秀を背負って歩き出した。まもなく真秀はまた眠りに落ちたようだった。
弥生は不機嫌そうだが一応月華を見てうなずくと、先に待合所の屋根の下で座った。月華もそろそろとその横に座る。
居留地だけあって、歩いている人はほとんどがランデン人だった。彼らが口にしているのもランデン語だ。もっとも向こうは逆に、幻都から来た月華たちに視線を送っていた。
弥生は何かに気づいたように、おもむろに席を立つ。月華たちの前に音もなく一人のランデン人が立ちふさがった。
ランデン人の男は月華たちをざっと見渡して、幻都語で問う。
「伯爵様の客人ですね?」
弥生は警戒を崩さずに注意深く頷く。男は頷くと、軽く一礼した。
「ようこそ居留地へ。お待ちしておりました。ご案内いたします」
流暢な幻都語は一朝一夕で身につくものではない。よく見ると東方の特徴も備えた目鼻立ちで、控えめな笑みをたたえた男性だった。
彼はふいに月華を見やって、苦い調子で言う。
「そちらは、王華の一族だそうですね」
月華は男を見上げる。彼は複雑そうな表情を浮かべて、少しとまどった様子だった。
男は月華の後ろに別の姿を見るようにしてつぶやいた。
「天駆がお仕えしているという」
男が天駆の名を口にした瞬間に顔を歪めたのを、月華は見逃さなかった。
弥生は言葉を選びながら、ためらいがちに言う。
「あなた方は天駆をよく知っているんでしたね」
弥生の言葉に、男はますます顔を歪めて返した。
「知っているというより、私ほどの年頃でロザリエルに同情しなかった者はいません」
男は一度ため息をついて月華を見た。
「私たち一族は、王華の一族とは感覚が違います。私たちは、一度家族となった存在が何より大切ですから」
男はそれ以上この話題に関わりたくないらしく、行きましょうと短く告げる。
迎えの車に乗り込んで、一刻ほどで立派な居館に案内された。
そこは深い森の中にあって、四階建ての洋館だった。薄緑を基調にした屋根の下、背筋を伸ばした貴婦人のような細身の尖塔が添えられた建物だった。
夕暮れ時の森によく映える建物の前で、月華たちは車から降りる。
弥生は門をくぐりながら感心したように言う。
「結構新しい建物ですね。まだ数年も経っていない」
「お気づきですか」
運転手が月華たちの荷物を下ろしてくれて、にこやかに返した。
「フィリップ様の別荘です。自身で設計なさったんですよ」
中に入るとエレベーターもついていて、金銀宝石で飾り付けるより機能的な作りをしていた。
月華たちの鞄は執事らしい男に託されて、別の使用人がエレベーターに案内する。弥生は決して背中から真秀を離すことなく、華奢な体からは意外なほど軽々と彼女を運びながら問いかけた。
「ところで、どうして伯爵の所ではなくその息子の別荘に案内されているんですか?」
弥生の声は多少いぶかしげな調子だった。
ただ案内人は気を悪くした様子もなく返す。
「失礼、説明が遅れました。伯爵様の滞留していらっしゃる居館はここから遠く、船旅でお疲れの今日に移動するのは強行軍です。本日は旅の疲れを癒していただく目的でこちらに案内させていただきました」
弥生はうなずいて言葉を返した。
「わかりました。とりあえず真秀を休ませられればそれで結構です」
まもなく三階にある客室に案内され、弥生と真秀は一つの部屋、月華は隣の別の一室に入った。
月華は案内人が去った後、広いベッドにそっと座って石造りの天井を見た。
これが別荘だというなら、フィリップが本来住むランデンの屋敷はどんな所だろう。月華は考えようとしたが、きっと確かな事実に想像が及ばない。
幻都の滞在先のホテルでフィリップは質素に生活していたが、この屋敷を見ると彼の元の暮らしが少し透けて見えた。
月華はベッドから立ち上がって、窓から外を見た。遠くに湖が見えていて、真秀たちの家のように静けさが漂っていた。不思議と湿気も少なくて涼しく感じる。
月華はベッドに戻ると、日が落ちるまでぼんやりと窓の外を見ていた。やがて控えめなノックの音がして、顔を上げる。
月華が慌てて扉を開くと、真秀が弥生と一緒に部屋の前に立っていた。
真秀は弾んだ声で月華に言う。
「温泉があるそうですよ。先輩も一緒に行きませんか?」
見ると二人とも海水浴のような袋を握り締めている。心なしか弥生の目もきらきらと輝いているようにも見えた。
真秀はうれしそうに言葉を続けた。
「ここは、古い時代から保養地なのだそうです。ランデンの一族の人達もいらっしゃるそうですが、よければどうですか?」
「いいから早く行こうよ、真秀。温泉なんだからさ」
弥生は急かすように真秀に振り向いて言う。
月華はそんな弥生を見て、彼の子どもらしい一面を見た気がした。
月華はうなずいて簡単に荷造りすると、真秀たちに続いて屋敷を後にした。
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