24 関所にて

 それから三日ほど、月華は真秀の家で療養していた。

 その時間は、三食きちんと摂って、よく眠り、他愛ない家族の光景に包まれていた。格別のものは何もなかったが、月華には心地よかった。

 四日目の朝、フィリップがランデン人の居留地に行ってみないかと言いだした。

「由宇は父上の招待状を持ってる。ちょうど真秀や弥生も行く用事があるみたいだし、一緒に行ってみるのもいいんじゃないか」

 フィリップは枕元の小袋から赤い刻印の捺された招待状を取り出して、月華に見せた。

「これは君の権利だよ?」

 月華はフィリップの手から招待状を受け取る。

 そういえば伯爵から招待状をもらって帰宅したものの、天駆に見せるわけにもいかずにずっとポケットに隠していたのだった。

 フィリップは首を傾げて苦笑する。

「一度来たら帰れなくなるのを心配してる? まあ恋に落ちた獣人はそういうこともするけどね。君は一族にしてみたらまだ子どもで、ほっとけないだけだよ」

 放っておけない。真秀も月華を見てそう言っていた。

(私は真秀さんたちに比べれば先輩だけど、異の者としては子どもなんだ)

 ランデン人に混じって新しい生活を始める。伯爵がくれた選択は、暗い洞窟の中にあった月華の世界に異なる道筋をもたらしたようだった。

 ふと日かげの位置が変わって、座敷に光が入ってきた。フィリップは外を仰いで、月華も黙って光に目を細めた。

 こくりと頷いた月華を見て、フィリップはちょっとだけ笑って部屋を去っていった。

 途端に静かになった気がして、月華は寂しさを感じた。木目の天井を眺めてから、外の世界に目を向ける。

 森を切り開いたと思われる、一面緑に囲まれた場所だった。農家ほどではないが野菜や果物が畑一面に植えてあり、遠くで弥生が収穫を行っている。

 用水路の水音が聞こえていて、小さく縁側の風鈴が鳴った。

 切り離された日常がこの家には広がっている。

 いつの間にか縁側に真秀が座っていて、風に目を細めていた。

 真秀は安心したように月華に言う。

「ちょっと気持ちは落ち着いたみたいですね、先輩」

 彼女は相変わらず体調が悪そうで髪がもつれている。今しがたまで寝ていたようだった。

 けれどその停滞した空気とは違い、ふいに真秀は切り込むように月華に問いかける。

「自分を裏切った天駆さんが憎いですか?」

 あまりに唐突だったので、月華はとっさに目を伏せて答えを拒絶した。

 真秀は焦るでもなく言葉を告げる。

「伯爵の一族に加われば復讐だってできるでしょう。でも私には、そういう意味で先輩が苦しんでいるようには見えないんです」

 真秀は淡々と、何を考えているのかわからない黒い瞳で月華を見つめて続ける。

「先輩はいつも、人に嫌われないようにと一生懸命に見えました。でも人がどう思うかなんて、どうだっていいんじゃないでしょうか」

 真秀は月華の枕元に大切に置かれた招待状を見やって告げる。

「居留地に行けば、伯爵に問われるでしょう。君はどうしたいのかと。私たちも先輩の意思を待っています。もしかしたらその結果、私たちは道を分かつのかもしれませんが」

 真秀はふらりと立ち上がって部屋を横切ると、障子を開く。

「誰だってわがままなんです。先輩もそれでいいはずですよ」

 真秀は部屋を仕切っている障子をそっと閉じて、部屋を後にした。

 月華はゆっくりと横になって、今しがたの真秀の言葉を心の中で反芻していた。

 月華はどうするか、まだ一つも決めていない。

 けれど選択に向き合う気力は少しずつ蘇って来ていて、やがてはその時を迎えることができるような気がしていた。




 翌日の朝早く、弥生とフィリップは先にランデンの居留地に発った。午後から月華は真秀と一緒に居留地に向かうことになった。

 月華は午前中に荷物を整えて、幻都の海に張り出した人工島へと出発した。

 居留地は関所を通って、幻都の自治区の許可した船でのみ渡ることができる。ただそれほど厳しい閉鎖空間でもなく、幻都の商人が数日に一度居留地に立ち入っていた。

 道中、真秀が月華の体調を気遣って歩く速さを落としてくれているのがわかって、月華はなるべく早く歩くように努力した。

 真秀は周りを気にしている月華にそっと言う。

「大丈夫です。誰も気づきません」

 関所に向かうに連れ、人出もあふれてきた。けれど誰も彼も自分の当て所を目指して歩いていて、月華たちに目を留めた様子はなかった。

 真秀は前を見据えながらぽつりと言った。

「私は周囲を霧のように包みますから。私の側にいる限り、先輩の存在もあいまいになるんですよ」

 月華はふと観察するような目で真秀を見てしまった。

 華やかな美貌を持つ弥生が人でないというのはわかる気がするが、この穏やかな少女がその主というのは、今も実感がわかない。

 真秀は苦笑を浮かべて告げた。

「相手が天駆さんでは、恐れるお気持ちはわかりますが」

 異の一族たちが認める天駆という存在が、今はよくわからなくなっていた。月華の知っている優しい天駆は、全くの偽りであったかのような気さえしてくる。

 長雨続きの晴れ間、月華はいつ天駆に見つかるかとひやひやしていた。しかし半刻ほど歩いた後、月華たちはすんなりと関所までたどり着いていた。

 月華は手続きのために関所の建物へ入って行く真秀を見送って、外の待合所で休憩していた。

 関所自体は大して大きくない、一階がほとんどがらんどうの二階立てだが、今日は人出が少しある。他国から派遣されてきた役人も三人入口の方に立っているし、敷地内の外れにはお土産の出店だってある。

 ただ、今日ランデン人の居留地に向かう者は他にいないらしい。ちらりと真秀の背中をのぞいた時、人工島行きの列に並んでいるのは真秀だけだった。

 ぼんやりと人波を見て気を紛らわせていると、ふいに肩を叩かれた。真秀が戻ってきたのかと顔をほころばせて見上げたが、瞬時に月華の顔は凍りついた。

 その人は月華に向かって声をかける。

「居留地へおいでですか? ランデンの御方から招待があったのでしょうか」

 立っていたのは関所の役人、その格好をしたタンレンだった。

 月華が息を呑むと、タンレンは頭を下げて言葉を切り出す。

「お久しぶりです。覚えておいでですか」

 タンレンは黒髪に髪を染め、派手な羽織もまとってはいなかった。役人の地味な紺の制服に身を包み、深く帽子を被っていたので、気づかなかった。

 月華は立ちあがり、そこから離れようと後ずさった。けれどタンレンはしっかりと月華の腕をつかんで離さなかった。

 タンレンは気づかわしげに月華へわびる。

「失礼。驚かせてしまいましたね。大丈夫です。私は天駆に言われてきたのではありません。あなたの居留地行きを止めようとしに来たわけでもありません。どうぞお気を楽に」

 タンレンはそう言って、月華を待合の椅子に座らせた。月華が困惑をまとっているのに苦笑して、タンレンは側の椅子に腰を下ろした。

 タンレンは何気ないふりをして隣の月華に話しかける。

「私はここでもただの雇われ人です。この関所は小さいですが故買屋がよく通過しましてね。それを見つけるのが私の仕事です。私はこういう小遣い稼ぎが大好きなんですよ」

 苦笑いしながらタンレンは言って、ふと真剣なまなざしで月華を見た。

「……きずなはねじれてしまったようですね」

 そっと言われたが、彼女にとってそれはとても重要なことに違いなかった。

 答えない月華に、タンレンは心配そうな表情を浮かべた。じっと月華の顔を覗きこんで言う。

「体調がお悪いだけではなく、お変わりになりましたね。笑顔が抜け落ちました」

 言われてみれば月華の表情はその通りだった。今の月華には、意識して作ろうとしても笑顔が生まれなかった。仮面がはがれてしまったように、無表情だった。

 タンレンはうなずいて今の月華を肯定した。

「そのまま、天駆と離れて暮らすのがよろしい」

 月華が横目でタンレンを見ると、彼女は静かに月華を見返して言った。

「あなたは天駆の希望に沿って無理に自分を作ってきたでしょう。けれどあなたは天駆の操り人形ではありません」

 月華はタンレンを不思議そうに見上げた。タンレンは苦味を含んだ笑みを浮かべる。

「遠い昔、王華の一族と守護獣人はきずなを結びました。本来のきずなは、互いを補い合う、優しい、美しいものだったと言います。……でも今となってはあなたのような子どもを苦しめるだけのきずなが、私は心底嫌いです」

 それはタンレンの器用そうな素振りには似合わない、暗く強い意思を持った目だった。月華はうろたえながらタンレンを見て、次の言葉を待った。

 タンレンは過去の過ちを語るようにして言う。

「繰り返される生贄の儀式、王華の後継者争い。やがては主たちは逆に、守護獣人たちに噛まれていく……。かつては人々を導くため、強き支配が必要だったのかもしれない。でも今生きる子どもたちがそれで苦しむなら、私達はもう存在してはいけない一族なのです」

 タンレンは窓の外に目を移した。海の向こうの方からゆっくりと船が近づいてきて、港に着いたのが見えた。

 タンレンは立ちあがって、帽子を深く被りなおした。

「天駆は一族の腐敗に失望し、自分が育てた正統な後継者がすべてを支配する、かつての栄光を取り戻したかったのです。……そのためにあなた以外の兄弟を抹殺してでも」

 天駆が珍しく月華から離れていた今年の始め、月華の兄たちが亡くなった。

 それを天罰だと言いきった、天駆の冷えた声。

 月華はその声を思い出して、頭を押さえてうなだれる。

 タンレンは深く一礼して月華に言った。

「だからもう終わりにしてください。あなたがいなくなれば、天駆の望みは完全に打ち砕かれるのですから」

 タンレンは音も立てずに静かに去っていった。

 入れ違いに真秀が通行証を持ってやって来る。

 真秀は安心させるように月華に言った。

「もう乗りこんでいいらしいですよ。行きましょう」

 月華はうなずいて真秀の後に続いて、小さな航海に出ることになった。

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