Ep.3 "On the Train"

 失踪から二時間ではさすがにまだ警備の手が回っていないようで、すんなりと列車に乗り込むことができた。最終便の一本前だが、休日前で住宅地に向かうとあって、二等車のコンパートメントは八割近く埋まっている。


 適当なコンパートメントに入ったトーリはブラインドを下ろした。座面が硬いので着ていたコートをアイリスの席に敷いてやり、それから自分も座る。


「……ありがとうございます」

「いやいや、当然だよ。あんまり柔らかくなくて悪いけどそのままよりましでしょ」


 遠慮がちに礼を言うアイリス。トーリは笑ってひらひらと手を振った。


 好感度稼ぎだとかそういうものでは決してない。トーリは女性と一緒にいるなら相手が誰だろうとこのぐらいの気遣いはする。だって本当に硬いのだ、この座席。


 乗り込んだのはサンピエール行きの急行列車。できるだけ早く国境を越えてしまおうと思って最短距離でリュメリアに向かう路線を選んだ。

 終点のサンピエールというのがクレストニア側の国境の町だ。そこから徒歩で国境を越えたら今日は宿を取って寝るつもりでいる。トーリ一人なら自由市まで乗りっぱなしで適宜睡眠をとるので構わないのだが、蝶よ花よと育てられた王女様はおそらく耐えられないだろうと考えての判断だ。


 発車を待っていると、コンパートメントは続々と埋まっていく。とうとう空きがなくなったようで二人のところに相席希望の若い男性がやってきた。


「すみません、こちらいいですか」


 トーリは快く承諾し荷物を持ってアイリスの向かいから隣に移動した。男性は流石にアイリスの向かいは避けてトーリの前に座る。


「いやはや、急に寒くなってきましたね」


 男性が話しかけてくるのでトーリも「本当に」と返した。


「本格的な寒さはまだだと思っていたんですがね……。暖かい服はまだ出していなかったので困りましたよ」

「うちもそうですよ。おかげでこの子にこんな男の服を着せる羽目になって……」


 と、アイリスを指す。怪しまれる前に話題に出しておくのである。


「妹さん……ですか?」


 男の台詞には何か間があった。あまりにも似ていないからか、自分で言いながら首をかしげている。

 察したトーリはあっけらかんと言う。


「義理ですよ」

「……そうなんですか」

「ええ。最近母が再婚したんですけどね、よりにもよって相手が芋野郎! 家にも細かい規則を大っ量に持ち込んで、面倒くさいったらありゃしない」


 トーリがヘルツフェルド人という意味のスラングを使って毒づくと、途端に男は同情し、哀れみの視線を向けてきた。


「そりゃ大変だ」

「本当に大変ですよ。大学生にもなって門限が七時だなんて信じられます? 一分遅れただけでキレるんですよあいつ」

「うわぁ……。大学生の男の子に門限ですか」


 もちろん全て嘘っぱちである。

 しかし男はトーリの言うことを全く疑っていない様子で、完全に二人のことを義理の兄妹だと思っているようだ。そう、妹。


 今のトーリの格好は、白地に細く縦縞が入ったシャツに茶色いウエストコート。スラックスはグレーで第一ボタンを開けた胸元には真っ赤なリボンタイを付けている。見た目はそこそこ裕福な家の子息といったところだ。


 金属同士の擦れる音が響き、列車が止まった。住宅街の駅だ。


「……おっと、もう着いたのか。それでは僕はここで」

「そうですか。良い夜を」

「君もね」


 男は粗方の乗客と一緒に降りていった。トーリは手を振って見送る。すっかり騙されてくれて助かった。

 と、アイリスがシャツの袖を引いた。


「何々?」

「……お話があります」

「それはここでいい話?」

「はい。大切な話です」


 アイリスの表情は硬い。トーリは「わかった」と答えて通路にさっと視線を走らせた。人はいない。

 トーリが神妙な顔で頷くとアイリスは小声で話し出した。

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花菖蒲のアンセム 芦葉紺 @konasiba1002

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