Ep.2 "Before the departure"
「詰んだ……人生全部棒に振った……」
自宅にたどり着いてしばらく経った。必死の逃避行の熱が少し冷めてきて、少し冷静になったトーリは頭に手を当てて考え込む。
飛び級に飛び級を重ねジオール大学を首席で卒業し、軍属のエリート研究員として就職。功績を上げ十五歳にして既に中尉相当官への昇進も果たしている。間違いなく順風満帆と言っていい人生だった。
――それが、王女攫って全てパアである。
王女様。それも妖精さんみたいな可愛い王女様だ。
どうしよう。本当にどうしよう。
トーリはあまり広くない部屋の中を行ったり来たりする。
出会って二分でいきなり拉致なんて初対面は最悪に近いだろう。……いや、大人しくついてきてくれたから悪くないのか?
だとしても、男と政略結婚するのが前提で育てられてきた王女様だ、一応女の自分に惚れてくれるだろうか。
人生設計が完全に狂ったことについて悩んでいたはずなのに、恋愛初心者なのにいきなり駆け落ちだなんてハードルが高い……と明後日の方向に悩みが逸れ始めた。
頭を抱えてうずくまったトーリの横、ウェディングドレス姿のままのアイリス姫は生まれて初めて見るであろう庶民の家を物珍しそうに眺めていた。
「あれは? あれはなに?」
「……ジャケットの埃を取る道具ですよ」
「ふうん。……じゃああれは?」
「じゃがいもの保存袋です」
王女様が私を落ち込ませてくれない。
状況を理解しているのかどうなのか、アイリスはベッドの上に品よく座り楽しそうに体を揺らしている。
「……アイリス様」
「はい」
「私はあなたを拉致したわけです」
「そうですね」
「なので、逃げなくてはいけません」
「わたしもそう思います」
しっかり相槌を打ちながら聞いてくれるのは良いのだが、物分かりが良すぎて逆に心配になる。
トーリは一度大きく息を吸って吐いた。それからアイリスの前にしゃがみ込む。
「アイリス様」
普段は道化た琥珀色の瞳に真剣な色が浮かぶ。
アイリスは真正面から見つめられている状況に目を逸らしたくなりながら続きを促した。
「なんでしょう?」
「今回の結婚、……本当にお嫌だったのですよね?」
なんだ、そんなことかとアイリスは苦笑した。
『攫いに来ました』だなんて気障なことを言っておいて、やっぱり不安になったと見える。
アイリスがどうして応じたのかも知らないで。
「はい。……その、お相手のノラン公は……わたしの父ぐらいの歳で」
「中年で」
「だいぶ……ふくよかでいらして」
「太ってて」
「……頭の、毛が……その……お少なくていらっしゃるのです」
「ハゲだと。……それは嫌ですね」
トーリは思わずくすりと笑みをこぼした。
「まずはリュメリアに向かおうと考えています。あの国の自由市では市民権を金で買えるので。幸いそろそろ夜なので、さっさと列車に乗って逃げてしまいましょう」
「わかりました。それでいいと思います。……行きましょうか」
アイリスがドレスの裾を翻してすぐに玄関に向かおうとするのでトーリは慌てて引き留めた。
「待ってください、着替え! 着替えがまだですから! あと荷物!」
***
「すみません、これが一番小さいものなんです。歩きにくかったら背負いますので……」
「……たぶん大丈夫です」
トーリの服を着たアイリスは腕をぴんと水平に伸ばしてくるりと回って見せた。
もう流石に伸び止まったが、トーリの身長は成人男性の平均にほんのわずか及ばない程度だ。対してアイリスは初等学校を出たばかりと言っても通用しそうな小柄な体躯。雑巾代わりに使おうと取っておいた中等学校時代の服を引っ張り出してきたが、それでも袖やら裾やらが少し余る。
「もしかしなくても靴もサイズ合わないな? ……えぇ、履けなくなった靴とか絶対処分してるよ……。7サイズぐらいの時のはまだ捨ててないかなぁ……」
トーリはぶつぶつと言いながら棚を覗き込んだ。普段使いしている三足は外に出しているので収納されているのは全てもう小さくなった靴なのだが……。
「……え、こんな捨ててないことある? 十足ぐらいないこれ? ……まいっか、これなら多分アイリス様が履けるやつもあるはず!」
棚の中に適当に置かれていた靴は全部で十一足。王都で一人暮らしを始めた大学入学時、つまり十一歳のときのものから全ての靴が取ってあった。靴がぼろくなる前にサイズアウトして次の靴を買うのを繰り返していたので安物だがまだ十分履けるものばかりだ。
だから誰かに売れるはずと思って取っておいたものなのだが、そんなことはトーリは忘れ去っている。
「あった、5サイズ! うわー懐かしっ、こんなの履いてたなぁ……」
この家にある靴の中では、これともう一つ上のサイズのものだけが女性用である。
「アイリス様、ちょっとこれを履いてみてください」
「どれですか?」
ふわーっと浮いているような足取りでやって来たアイリスはトーリの指した靴を履いて二、三歩歩く。
「どうです? 大きいですかね……?」
「少し大きいです。……これは何歳の時にはいていたものなのですか?」
「大学に入ったばかりの頃なので……十一歳かな? 多分そのぐらいです」
「……」
答えるとアイリスは悄然と黙り込んだ。
「どうしました?」
「……わたし、十七歳です」
「えっ!?」
同い年か少し下だと思っていたトーリが思わず目を見開いて驚くとアイリスは俯いた。
「見えない、ですよね……。あなたがうらやましいです、背が高くて」
「あー……」
小柄な友人たちにやっかまれたことは何度もあったが、今でもどう返すのが正解なのかわからない。トーリが神妙な表情をして黙り込んだ。するとアイリスはおかしそうに笑った。
「……なんて。気にしていませんよ、王族は代々小柄な人ばかりですし」
「そうなんですか」
「はい。……そういえば」
アイリスは至って普通の調子で言った。
「あなたの名前を聞いていない気がします」
「……え??」
トーリは荷造りの途中の姿勢のまま固まった。頭の中の混乱がそのまま口から流れ出る。
「あれ、自己紹介ってまだしてなかったけな? おかしいなぁ言ったはずだけど……。まあ忘れることもあるよね、うん。私だし。えってか名前知らないでずっと大人しく話聞いてたの? 警戒心なさすぎない? 大丈夫なのかなぁ……」
「わたし、勘は良いので」
独り言にも律儀に返答するアイリス。澄んだ菖蒲色の瞳が頭一つ下からトーリを見上げる。
「お名前は何というのですか?」
「トーリ・アシュフィールドです。陸軍技術院所属の中尉相当官で、来月……えっと……多分十六歳になります」
「トーリ・アシュフィールドさん……」
アイリスは噛み締めるように名前を復唱した。それからぱっと花が咲くように笑って手を合わせる。
「ではトーリと呼ぶことにします。わたしのことはどうぞ、アイリスと。敬語も不要です。……よろしくお願いします、トーリ」
「よろしくお願いします。……じゃなくて、よろしく」
初めて見るアイリスの満面の笑みにトーリは思わず視線を逸らした。
彼女もこの状況を楽しんでいるのか、上気して少し桃色に染まる白い頬。菖蒲色の瞳はきらきらと輝いて、とても直視できたものではない。
トーリは頭を振って邪念を追い払い、作業に集中した。
「よし、終わりっと」
荷造りを終え、トーリは鞄を担ぎ上げて玄関で待つアイリスに視線を向けた。
「……じゃ、行こっか」
「はい」
夜の帳が降りた街にアイリスは何も持たず、トーリは二人分の荷物を入れた旅行鞄を持って踏み出していく。
旅は始まったばかりだ。
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