Chapter I "Beginning of the journey"
Ep.1 "Warp and weft"
橋から乗り出してカモの親子を見ていたら、うっかり財布を湖に落とした。給料日直後で当面の生活費が入っていた財布をだ。
トーリはまだ十五年しか生きていないが、既に五度犯した愚行である。なので彼女の動揺は薄かった。
ちなみに五回というのは回収できなかった数で、回収できたときを含めるなら余裕で二十回は財布を落としている。笑いながら頭を掻いて「いやー財布落としたんすよねー」はもはや職場での鉄板のトークネタだ。
トーリとて何の対策もしないわけではない。前回その話をやったとき、落とさないようにベルトループに繋ぐといい、と同僚に教わったので実践してみた。
……最初はちゃんとやっていたのだが、翌日辺りから早くも繋ぐのが面倒になって、三日たつ頃にはそんなアドバイスなど頭から消え失せていた。
しかし運が悪い。二週間前に良い服を数着買ったところでたまたま金がないのだ。
職場にはどうせ平日は軍服しか着ないしたまの休日にしか着ない私服など適当でいい、という所員が多い。多いというかそんなのばかりだ。だからモテないんだよ、とトーリとしては思うわけだが一番の下っ端なのでそんなことは言えない。
だが、伊達男ならぬ伊達女トーリ・アシュフィールドとしては週に一、二回しか着ない――そして見せる相手もいない――私服だとしても手は抜けない。トーリは入所二年目の新米研究員だが、おそらく服飾に掛ける金は部署一の自信がある。
とにかく、これ以上貯金を切り崩すのはまずいのでトーリは日雇いの仕事をすることにした。第一王女アイリスの結婚式の会場設営係である。知り合いの王宮付き庭師に無理を言ってねじ込んでもらった。
「そのバレッタ、めちゃくちゃ可愛いですね。似合ってます! その髪型もすごい可愛い! ……じゃ、お互い仕事頑張りましょう!」
「ありがと、あなたのキャスケットも素敵よ! 頑張りましょうね!」
「お疲れ様です。あ、ところでエプロンの刺繍はご自分でされてるんですか?」
「……はい。そうですけど、」
「やっぱり! すごく丁寧に縫われてるなって思って気になってたんですよー。丁寧な仕事をされる方って尊敬します」
「そんな、ただの趣味ですから。……ありがとうございます」
すれ違う王宮勤めの女性たちにいちいち声をかけるトーリを横目に、庭師のビルは溜息を吐いた。
「相変わらずの軟派だな。姉ちゃんがこんなんならそりゃ弟もああなるわ……」
呆れた様子のビルの台詞にトーリは怪訝そうな顔をした。
トーリにはジェラルドという双子の弟がいる。父親の友人であるこのビルは勿論ジェラルドとも顔見知りなのだが。
「こんなんとは失敬な。……ってか、ジェラルド? あいつがどうしたのさ? なんかやらかした?」
「聞いてないのか? あいつ、友達の彼女を間違ってナンパしちまったんだよ」
「馬鹿じゃん」
トーリは間髪入れずにそう突っ込んだ。
ビルも呆れた様子で目を閉じて首を振った。
「本当に大馬鹿野郎だよ。その友達と喧嘩して三針縫うわ、そのうえ自分の彼女にバレて振られて大泣きして暴れるわ……」
「……すごい、無職のくせに」
「それは知ってたのか」
ジェラルドはトーリには及ばないがそれなりにいい頭と、トーリには及ばないがそれなりにいい顔だけが取り柄の中身は子供みたいな奴だ。ぺらぺら喋るくせに肝心なことを伝えるのは下手で、マザコンで、デリカシーというものが欠如している――トーリ評。姉なのでどうしても目線が厳しくなる。
こちらも飛び級で中等学校を出たが、生来の根性なしな性格のせいでせっかく就職した大手商会を辞めてしまい、現在無職の身である。
「まあ流石にね、父さんが教えてくれたよ。……そっかー、軟派野郎になっちゃったかー。お姉ちゃん残念」
「お前もお前だけどな」
「私は野郎じゃないから許されるんだよ。……あと、お顔が天才的に良いから。こちがメインリーズンかな」
トーリがウインクして見せるとビルははいはい、と手を振った。
「尊敬するよ、その自信過剰っぷり」
「ありがと!」
溜息を吐くビル。トーリは構わず彼を急かし、次に花を飾る場所に向かった。
午前中はずっと花の鉢を式場になる教会のあちこちに飾って、終わる頃には夕方だ。ここで一夜を明かすのだというアイリス姫とその世話をする召使たちを除けばもう残っている者はいない。
トーリは折角だからと大陸一と名高い聖堂を見て回っていた。
一通り回り終えて帰ろうと思ったとき、ふと人影に目が留まった。
「あの子は……?」
真冬で花もなくうらぶれた中庭に、今にも消えてしまいそうな儚げな少女が立っていた。
冬の妖精か何かのような精緻な美貌と腰まで届くかという長い銀髪。総レースの真っ白いドレスに華奢な体を包み、頭には神秘的なマリアヴェール。明らかに高貴な身分のご令嬢だ。
トーリは少女の正体を察した。
クレストニア王国第一王女、アイリス・コーデリア・ルイーズその人だ。明日には夫を迎えノラン公爵夫人になる。
そこでトーリは昼間見た、彼女の許婚のノラン公の見るに堪えない行動を思い出す。見たと言うか、ドア越しに盗み聞きした。奴は白昼堂々メイドを口説いて肉体関係を迫っていたのだ。
(紳士の風上にも置けない下種野郎め)
思い出すだけで腹が立ってきた。こんなに綺麗で無垢そうな王女様が、あんな奴の妻になるだなんて。
(結婚、嫌じゃないのかな)
――トーリの胸中に浮かんだ問いに応えるように、彼女が「……いやだな」と呟いたから。
あまりにその横顔が寂しそうだったから。
理由なんて後からいくらでも思い浮かんだ。ただそのときトーリは、高鳴る鼓動が煩いぐらいに響く中、「このままにしておけない」と、ただそれだけ思ったのだ。
そして、その衝動のままに行動を起こしていた。
「王女様」
騎士のように足元に跪くと、アイリス姫はぱちりと瞬きをした。――ああ、なんて綺麗なんだろう。
「あなたを、攫いに来ました」
今どきは芝居でもないような気障ったい台詞が気付いたら口から出ていた。夢の中か、熱に浮かされでもしたように。
彼女が背に乗ってくれたとき、トーリはこのまま死んでもいいと本気で思った。
有り体に言えば。
――一目惚れ、というやつだった。
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