花菖蒲のアンセム

芦葉紺

Prologue "Escape"

「はあ、はあ……!」


 右足を前に出す。同時に息を吐く。

 左足を前に出す。同時に息を吸う。


 呼吸のたびに大きく胸を上下させ、急いた調子で少年は駆けて行く。

 少しよれたシャツとサスペンダー付きズボンの、どこにでもいそうな庶民の少年といった風体だ。

 ややうねったブルネットの一つ結びが実用一辺倒のキャスケットのアジャスタからぴょこんと飛び出、走るのに合わせて小刻みに揺れている。


 年は十五になるかならないか。女顔気味の容貌にはまだ幼さが残って――否。女顔ではない。れっきとした少女だ。凛々しい顔つきだが、同時に男ではなかなかない華やかさがある。


 健康的に日焼けした頬に汗の滴が流れ、ウエストコートに落ちた。


 こんなに全力で走るのは何年ぶりだろう。飛び級を繰り返し、体育の授業すら碌に受けてこなかったトーリの膝関節は悲鳴を上げている。


(私の馬鹿……!)


 知れず、奥歯を噛み締めた。


(確かに度胸は私の長所だよ。うん。でもさ、こんなとこで発揮しなくていいんだよな……!)


 彼女の背には、小柄な少女一人分ほどの大きさの白い物体。というか、小柄な少女が一人。それも婚礼衣装に身を包んだ。背に負って必死に走っていることからも察せられる通り、式場からさらってきたのである。


 それだけならまだいい。よくないが。


 少女の頭を覆う精緻な刺繍が施されたマリアヴェール。多分手のひら分の面積でトーリはしばらく暮らせてしまう。

 華奢な体を包む総レースの婚礼衣装。トーリが一生かけても買えないだろう。

 左の薬指に嵌められた、危なっかしいぐらいの繊細な細工が美しい婚約指輪。もしかしたら国宝とかだったりするのかもしれない。


(本当に、)


 やけっぱちになってトーリは足を速めた。


(何で王女様なんか拉致ってるんだよ、私の馬鹿――っ!)

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