7.クラリスという名前

 客室という名目を与えられた部屋の蝋燭は今、一つも灯されていない。


「だ、旦那様。その」

「腕を見せて」

「え……?」


 まだかすかに日の差す窓辺に立ち、私はおずおずとリボンの巻かれていない右腕を差し出した。あとの残る素肌を旦那様の手がでる。


「……っ」


 私は思わず腕を引っ込めてしまった。


「も、申し訳ありません」


 無礼をびる私に、彼は静かに「痛むのか」と尋ねてくる。


「いいえ」


 痛むのは傷跡ではなく、胸のほうだ。ずっと独りかもしれないと思うと怖くなることがある。


 とにかく、器量を買われてこの屋敷に来たのだ。これ以上はここにいられない。


「明日の朝、屋敷を去ります。腕のことを隠していて、申し訳ありませんでした」

 深くこうべを垂れた。

「どんな罰も受けます」

 声が震える。

「ですが、私の家族には容赦して頂けないでしょうか。まだ幼い妹たちがおります。貰い手がなくなることだけは避けたいのです」


「……おまえ、セリアという名前はまことか?」


 己の耳を疑い、顔を上げた。


「本当はクラリスではないのか?」

「な、なぜそれを」


 顔から血の気が引いていく。彼は怒るでも驚くでもなく、ただ私を見返す。


「やはりな。クラリスという名前、赤い髪、火傷……」


 二の句が継げずにいると彼は静かに頷いた。


「ずっと探していた。謝らなければならないのはこちらのほうだ」

「謝るって……?」

「もう十年以上前の夜だ。私は母の元から無理やり引き離され、馬車に乗せられていた。ナスヴェッタ家の屋敷に連れて行かれるためだ」


 しかし途中で馬車の車輪の具合が悪くなり、ある村に立ち寄ろうとしていた。

 村の名前を聞き、息が止まる。私が暮らしていた場所だった。


「ま、まさか」


 旦那様の瞳の中に火の粉がちらついた気がした。

 あの日の光景が幻燈のように思い浮かぶ。



 その日は村の祭りがあり、子どもたちも夜更かしが許されていた。

 私は祭りには顔を出さず、闇夜の中で木登りをしていた。よそから来たという美しい男の子をこっそり連れ出して。

 彼と一緒に流星群を見ようとしたのだ。


―― なんだろう?


 森と村の境目を見下ろすと、やけに明るい。

 「星が落ちたのかも」と思って胸をときめかせたが、それは炎だった。男の子は「母さんからの手紙が燃えちゃう」と泣き叫んだ。


 二人で木から下り、無我夢中で走った。燃えていたのは、男の子が乗ってきた馬車だった。ランタンが倒れたらしい。

 彼は躊躇ちゅうちょせず火の中にとび込んだ。私は燃える馬車から彼を引きずり出したところで気絶した。


 自分の腕の痛みに気付いたのは目が覚めた後だ。


 男の子を救い出した礼として、そして嫁入り前の少女に火傷を負わせてしまった詫びとして、実家は多額の金を受け取ったという。

 しかし、彼がどこの誰かという情報は一切教えてもらえなかったそうだ。



「あのときの……?」


 旦那様は服のボタンを外し始めた。上半身をさらけ出しきびすを返す。


「あっ」


 つい口に手を当てた。

 自分の右腕と同じ種類の傷痕が彼の大きな背中を覆っていた。私は無意識のうちに手を伸ばしその肌に触れていた。


―― 一切触れるなよ。


―― あの旦那様は誰とも寝ないのよ。


 背中を見せてもらった今、彼が他者と触れ合うことを避ける理由が痛いほどにわかる気がした。


「また会いたいと思っていた。会って、直接謝罪をしたいと」


 服を直すと彼は再び向き直る。


「妹の嫁入りが心配だと言っていたな。おまえに縁談が来たことは無かったのか?」

「ありませんでした」

「……火傷のせいか?」

「いいえ」

 私は明るく笑う。

「男勝りなんです。私は器量はそこそこですが」

「自分で言うのか」

「たとえ嫁に出されたとしても、この性格じゃ三日で追い返されます」


 この腕を憂うことがあっても、そう思い込むことにしている。


「では、ずっとここにいればいい」


 旦那様は戸惑う私の手を優しく取り、甲に口づけした。


「クラリス。ここにいて」


 甘く優しい響きが私の耳朶みみたぶをくすぐった。




 

 ……結局、ナスヴェッタ家のご当主様は生涯誰とも結婚しなかった。勿論お世継ぎも生まれず、遠い遠い親戚が後を継いだという。


 天に召されていく彼のかたわらには、長年仕えた一人のメイドと彼女の子どもたち、そして孫までいたそうな。



 めでたし、めでたし。


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贄姫ならぬ贄メイド?~私は一生独身だってば!~ ばやし せいず @bayashiseizu

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