合歓の木

相園 りゅー

 

 壁のコルクボードに「合歓ねむの木」と書かれたメモを見つけて、僕は首をひねった。

 ――――これは、いつ書いたものだろう?

 

 机の横にコルクボードを掛けてちょっとしたメモを貼り付けるようになったのは、大学生の頃。尊敬していた先輩の部屋へ物を借りに行ったとき見たものを、自分なりに真似しようとした結果だった。先輩は偉人の言葉や本の引用部分なんかを書いていて格好良かったけれど、今の僕が書くのはせいぜい、気になる本のタイトルやゲームの覚え書きくらいだ。

 初めの頃はそれこそ、自作小説のネタを書き付けていたことも、あったのだ。生活が忙しくなるにつれ、アウトプットする機会自体をなくして、メモの内容は段々と下らないものになっていった。今となってはもう、形だけ残った紙の群れが、僕の自堕落な生活を睨みつけている。

 

 「合歓ねむの木」のメモはちょうどコルクボードの真ん中あたりに、他の紙の上からピンを刺す形で留まっていた。シャープペンシルで書かれた均質な太さの線で、僕の字に間違いないように思う。けれど、僕にはこんな言葉を書いた覚えが全くなかった。寝ぼけたり酔ったりしている時に書いたのだろうか? それにしたって、あまりに脈絡が無い。

 ネムノキ自体は知っている。ピンク色の糸が合わさったような、奇妙な花の咲く木だ。念のためスマートフォンをひらいて検索してみると、漢字も合っている。

 夜になると葉を閉じる習性から「眠る木」の変化した名前であること。中国ではおめでたい意味のある木であること……。そこまで調べて、画面をとじる。


 何気なくもう一度メモを見ようとして、僕は目を剥いた。

 書かれている文字が、変わっていたのだ。

 ついさっきまで「合歓の木」のメモがあったはずの場所に、全く同じようにして、「歓喜の瞬間」というメモが貼られていた。

 ゆっくりと手を持ち上げて、僕は「歓喜の瞬間」の紙をめくってみた。重なっているのではない。裏に書かれている訳でもない。床を見渡しても、メモ用紙は落ちていない。間違いなく、誰も触れるはずのないこの短い時間に、「合歓の木」が消え去って「歓喜の瞬間」が出現したのだ。

 しばらくの間、突如現れた奇妙なメモと見つめ合っていたが、やがて、僕は自分がそれほど動揺していないことに気がついた。不思議なことに、むしろこの奇怪極まりない文字たちと、しっかり向き合ってみようという思いさえ生まれていた。

 どのような出来事にしろ、……と僕は考えを整理する。この文字は僕に読まれるために、ここに出てきたんだ。

 メモに書かれている「歓喜の瞬間」。先程とは違って、意味を検索する必要はなかった。当たり前の言葉だから、ではない。この言葉を目にしたとき、僕の脳裏には一つの明確な光景が浮かんでいたからだ。



 大学二年の五月のことだった。

 夕暮れの空が最後の赤みを失いつつあった午後七時。僕ともう一人は、小川を見下ろす土手の草むらに、並んでしゃがみこんでいた。どこか見えない所で鳴き交わす虫の音も、絶えず囁きかけてくるせせらぎの音も、とっくに慣れて気にならなくなっていた。そんな音たちの只中で、僕たちは時折ときおり発せられる互いの声だけを聴いていた。


「十九時、光ってない」彼女が言った。

「了解」僕が応えて、手元の紙にゼロを書き込んだ。


 僕たちがやっていたのは、教授から頼まれた一種のアルバイトだった。キャンパスの裏手を流れる小川で、蛍がいつ光るかを調査するのだ。里山保全、なんていうものがしきりに叫ばれた時代のことだったから、指標としての蛍の調査はそれなりに重要だった。らしい。

 調査は二時間。ひたすら持ち場に立って、計測時間になったら光っている蛍を数えて記録する。それだけの、いわば退屈なものだと聞いていたし、実際に始まってからは、聞いていた以上に退屈だった。なにしろ、その年の調査を始めて数日、まだ蛍どもは一匹も光っていなかった。なんにもない小川を二時間も眺めて過ごすのは、僕にとってはかなり堪える苦行だった。

 僕がこの調査に参加したのは、ゼミへ入るのに有利になる、という噂を聞いたから。それだけだった。環境問題に対する熱意は無かったけれど、キャンパスライフをなるべく楽に送ろうという気概には溢れていた。横にいる彼女の動機も、きっとそんなものだろう。と、この時の僕は考えていた。

 彼女、北見とはその日会ったばかりで、たまたま同じ持ち場に割り当てられただけの、関わりの薄い人だった。同級生だと知ったのも、集合して軽く自己紹介しあった時がはじめてだ。肩甲骨くらいまでの黒髪を無造作に束ねている、化粧っ気のない女性で、調査時間が始まってからは殆ど喋らずに暗い川面ばかりを見つめていたから、これはかなり根暗なやつだと思った。


「十九時十五分、光ってない」

「了解」


 北見は川面から目を離さずに報告する。反対に僕は、もうかなり暗くなった空や、遠くに光る住宅街の方なんかを見て過ごす。

 たまに僕も小川へ目を凝らしてみるけれど、だんだん暗くなっていくこと以外には変化が無い。じっと見ているのも馬鹿らしくなって、まだしも雲の流れている空へ視線を逃がす。そんなことを、その日はもう一時間以上続けていた。


「十九時三十分、光ってない」

 北見がそう言ったので、僕は自分にできる唯一の仕事である、記録のために手元を見ようとした。

 その瞬間だった。

 視界の端を、何か強烈な光が過った。バチリと音のするような衝撃すら僕は感じて、思わず彼女の肩を叩いた。

「ね、あれ!」


 僕の指差す方を見た彼女は、口を「あ」の形に開けた。

 その光は間違いなく蛍だった。薄い黄緑色の光が、規則的に明滅を繰り返しながらフラフラと宙に浮かんでいる。しかしそれは、彼女が熱心に見つめていた川面とは、全く違う所にいた。

「ほんとに、いた……」

 僕たちの見つけたその年最初の蛍は、まるで木々の葉擦はずれから生まれ落ちたかのように、僕たちより五メートルほど高い斜面にある森から、ゆらゆらと降りてくるところだった。


 いつの間にか、北見の左手が僕の服の右肘あたりを掴んでいた。何かを言おうとしたはずだけれど、彼女の瞳が、たった一匹の蛍を映し続けているのに気づいて、僕は口を噤んだ。

 まだ口を「あ」に開けたままの彼女の顔が、蛍以外の光も無いのに妙にはっきりと見えて、努めてそのことを考えないようにしていなくてはならなかった。

 蒸し暑さが増し始めた五月の夜。紛れもなく、十九時三十分のことだった。

 


 追憶から目を覚ますと、またメモの文字が変わっていた。

 書かれているのは「胸のときめき」。今の今まで考えていた彼女との記憶に引きずられるように、僕はまた、一つの出来事を思い出していた。

 


 蛍の調査以来、僕と北見は急速に仲良くなっていった。

 彼女は初め思ったような暗い人物ではなく、むしろかなり多弁なほうだった。あの日彼女が無口だったのは、蛍に集中し過ぎるあまりのことだったらしい。そんな風に目の前のことにのめり込む姿は、ふらふらしがちな僕にとって、新鮮な驚きと憧れの対象だった。

 ラウンジの前を通りかかる時、窓際でひたすら線を描いている北見を見かけることがあった。講義で配られたプリントの外枠や裏側を、つたや花をデザインした枠で埋めるのが、彼女の癖のようなものだった。僕が使うのよりも細い芯のシャーペンで、みっしりと描かれていく複雑な線たちは、それ自体が北見の美徳のように思えた。

 僕たちは違う学科同士で、取る講義はあまり被っていなかった。まあ、僕が楽な講義ばかり取っていたせいもある。北見は反対に、二年生にしては専門性の強い、ヘビーな講義を多く取っていた。だから、数少ない機会である一般教養のコマや昼休みなんかには、けっこう頑張って彼女の姿を探したものだ。……北見のほうも、僕を探してくれていたと思いたい。


 前期の終わりも近づいた、七月のある日。僕と北見は講義が終わったばかりの教室で昼食を摂っていた。四十人ほどが入れる中くらいの教室で、長机を挟んで斜向かいに僕たちは座った。

「さっき言ってた映画、今日まだ上映あるみたいだよ」

 北見が言うので、僕もプリントの隅にある小さい字に目を落とした。

 ついさっきまで受けていた映画論の講義の最後に紹介された映画は、どうも教授のイチオシらしかった。大学からほど近い駅の映画館の名前と、数日分の上映予定まで書かれている備考欄から伝わるのは、「絶対に観ろ」という教授からの圧だ。そうでなくとも、この時期に薦められる映画なら、観ておけば期末レポートで有利になるだろう。

「北見は今日あと三限だけだっけ?」

「うん、そっちは四限まで?」

「そうだね。自主休講サボりでもいいけど」

「だめだよ」

 彼女の視線に肩を竦めて、僕は惣菜パンを頬張った。

 そうして他数人の友人を誘って、僕らは放課後に映画を観に行くことにした。


 映画は父親との関係に悩む少女と周りの人物を描くもので、正直言って、僕にはよく分からなかった。一緒に行った女子の中には泣いている人もいたから、刺さる人には刺さる内容だったのだろう。北見もうっすらと目を赤くしていたけれど、彼女の場合は瞬きを忘れていただけということも有り得る。

 全員押し黙ったまま、駅前のファミレスに入った。僕以外は、きっと頭の中で感想をまとめるのに忙しかったのに違いない。僕なんかよりよっぽど真面目な友人ばかりなのだ。その証拠に、北見がポツリと感想を言い始めた途端、みんな堰を切ったように話しだした。

 真面目な顔で意見交換をする北見たちの輪には入り辛くて、僕は何度もドリンクを取りに行って過ごした。そうでない時は、みんなの意見が一致しているような単語だけ頭に入れて、相槌を打つ。

 中心になって議論を進めている北見の横顔は、僕と話す時よりも輝いて見えた。彼女の描く、あの複雑な蔦の文様が、僕以外の人を取り巻いてぐんぐん成長しているような気がした。


 感想会は三時間ほど続き、僕のトイレ回数が六を数えた頃に解散となった。

 下り方面の電車に乗るのは僕と北見だけで、他の友人たちとは改札前で別れた。僕も帰ろうと北見の方を見ると、彼女は何故か足を止めて、駅の時計を見上げていた。

「あのさ、もう一回映画館行っていい?」

 彼女の言葉に、僕は特に迷うことなく頷いた。もう遅い時間ではあったけれど、これからもう一本映画を観るくらい、なんてことはないと思ったからだ。

「もう一回観るの? それとも別のやつ?」

 北見は首を横に振って、少し笑った。

「ううん、ちょっと買いたい物があるだけ」

 映画館に着くと、北見は一目散に売店へ向かった。どうやらもう店を閉める時間だったらしい店員に頭を下げながら彼女が買ったのは、その日観た映画で主人公の少女が持っていた、白いクマのマスコットキーホルダーだった。

 銀色のチェーンに揺れるクマを目の高さに掲げて、彼女はそれと僕とを見比べ、破顔した。

「やっぱり似てる」

 差し出されたクマを戸惑いながら受け取った僕に、北見は言う。

「映画観てる時から気になってたんだけどね、そのクマ、君とそっくり」

「そう、かなあ」

「うん、かわいいでしょ、あげるね」

 もう用はないと言うように背中を向ける彼女に、僕は上擦った言葉しかかけられなかった。頭の中にはこだまのように、「かわいいでしょ」という声ばかりが満ちていた。



 メモの文字はまだ「胸のときめき」のままだった。

 久々に思い出した彼女の声が渦巻いて、目が回るような気分を抱えたまま、僕は部屋の隅にある押し入れを開いた。

 最近あまり着ていないシャツやパーカーに埋もれるようにして、学生時代に使っていたリュックが押し込められている。引っ張り出すと、背面にはあの時の白いクマがぶら下がっていた。記憶にあるよりも薄汚れて見えて、僕は慎重にチェーンを外したあと、クマの頭を指で弾いてみた。色が元に戻ることはなかった。

 目と目の間が離れていて口が半開きの、間抜けなクマと睨み合いながら机に戻ると、メモの文字は変わっていた。

 今度は「安らぎの場所」と書かれている。



 図書館でレポートを書いている時、北見はよく僕の文章を覗き込んで「読みやすい」「小説みたい」と言った。僕は彼女が何を指してそう言っているのか分からなくて、いつも「そうかなあ」と返していた。北見は文学を扱う学科で、僕はそうではなかったから、小説のような文章を書けるとすれば彼女の方だと、ずっとそう思っていた。彼女のレポートを見せてもらっても、整った文章だと思うばかりで、僕の文章に優れている所があるようには感じない。

 それでも褒められるといい気になるもので、調子に乗った僕は幾度か、短い小説を書いて彼女に見せた。感想を話す彼女の言葉はさすがに巧みで、僕が褒められたい部分も、違和感のあった部分も、しっかり読み込んでくれていた。その度に僕は有頂天になって次を書こうとしたのだけれど、結局、小説執筆は数回で終わってしまった。その後も北見には何度もせっつかれたが、なかなか書こうというコンディションになれなかったのだ。

 ゼミの課題は増えていき、課題以外の時間にパソコンなんて見たくないと感じるほどになっていった。

 いつしか僕らは四年生になり、卒業論文を書かねばならない時期を迎えていた。


 図書館は人が増えて落ち着かない場所になってしまったので、空き教室にノートパソコンを持ち込んで論文作業をするのが主になった。大概は同じ学科の友人と一緒で、そこへ時々は北見も顔を見せた。

 その日の北見は眠たげで、案の定しばらくすると僕の持ち込んだ参考文献の山の陰で眠り始めたようだった。他の友人たちも仮眠をしていくことはあったので、僕は特に気にせず作業を続けた。少しだけ、資料を取りに行く回数は増えたにしろ。

 そうこうする内に集中が乗りだして、論文はざくざくと進んでいった。

 ふと気がつくと、教室の中は二人だけになっていたし、北見は起きて、僕の参考文献の一冊を食い入るように読んでいた。

「それ、面白い?」

 僕は彼女に訊ねた。僕が自分の研究のために持ってきた本だけれど、卒論さえなければ進んで読みたいとは思えない本だったからだ。

「うん……」

 彼女の声は、あからさまに上の空だった。僕は僕で集中が切れてしまい、会話が続かない状況がさびしかったので、重ねて話しかけた。

「北見って、きょうだいは居るんだったっけ?」

「……うん」

 彼女は静かに顔を上げて、次いで読んでいた本の背表紙を僕に見えるよう持ち上げながら言った。

「あんまり、家は、好きじゃないけど」

 僕は無神経な質問を恥じて、しかし謝ってしまうのは違うという気もして、ごにょごにょと言い訳じみたことを並べた。彼女はただ「うん」とだけ答えて、その話は、それで終わりになった。


 帰る間際に、北見は読んでいた本を棚に入れながら、小さな声で僕に言った。

「またそのうち、小説書いてね?」 

 その時の僕は、どうして今そんなことを言うのかと疑問に思いつつ、また曖昧に「そのうちね」と言ったのだったと思う。


 その後の数週間で、僕らはなんとか卒論を完成させ、ほうほうの体で卒業を勝ち取った。

 そして北見は、普段着のワンピースで卒業式に出席したのを最後に、全ての知人との連絡を絶った。

 僕にも、他の友人たちにも、そして恐らく家族にも、一切を告げずに彼女はどこかへと消えてしまった。

 それは多分、僕らは北見の安らげる場所になれなかった、ということだった。



 目を上げたとき、メモは白紙になっていた。

 この数分間の間にあったことが全て夢だったように思えて、ぼんやりとスマートフォンを操作すると、画面は「合歓ねむの木」を検索したときのままだった。

 夜になると葉を閉じる習性から「眠る木」の変化した名前であること。中国ではおめでたい意味のある木であること。そんなことの書かれたページを下までスワイプして、僕はネムノキの花言葉の一覧を見た。

 ネムノキの花言葉は「歓喜」「ときめき」「安らぎ」。そして「夢想」と「創造力」。


 僕は理由の分からない確信めいたものが湧くのを感じながら、紙をコルクボードから外して、自分の正面に置いた。ペンが走った跡も無い、まっさらなままのメモ用紙だった。

「ああ、いいよ、分かったよ」

 僕は握り慣れたシャープペンシルを構えながら呟く。そして一気に「合歓の木」と書き殴った。

 書き終えた文字は、初めに現れたそれと全く同じ筆跡に見えた。

「書けっていうことなんだろう、そのためだったんだろ」

 ぶつぶつと独り言を言う僕を、他の誰かが見たなら不気味がるに違いない。でも、ここには誰も居ない。居るのは白いクマのキーホルダーと、僕の中に遺された彼女との思い出だけだ。これをどうしようと、もう僕の勝手だ。

 僕は今から、北見との思い出を小説にしなければならない。あの馬鹿が付くくらい真面目で、訳が分からなくて、それでも僕にとって最上の光だった人のことを書かなくてはならない。

 書き出しはもう決まっていた。


 ――――壁のコルクボードに、「合歓の木」と書かれたメモを見つけて、僕は首をひねった。



<了>





※お題「コルクボード」「花言葉」「熊」


合歓ねむの木の花言葉

「ときめき」「安らぎ」「歓喜」「夢想」「創造力」

GreenSnap STORE <https://greensnap.co.jp/columns/silktree_language>参照


※ホタルの数え方は「〜頭」とするのが主流ですが、主人公が興味を持っていない人物であるということを表現するため、「〜匹」と表記しています。

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合歓の木 相園 りゅー @midorino-entotsu

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