2 ノエル、ひとまず他人の振りに徹する。
「……嘘だと言ってくれ」
ぼそりとつぶやいた私を見て【
いますぐこの場でしゃがみこんで頭を抱えて喚き立てたい気持ちをぐっとこらえて、彼女から勢いよく目を逸らすぐらいに留めている自分を褒めてやりたい。
ノエル・エテルネル――濁流のように頭の中に流れ込んできた情報と私の名前が一致する。それはゲーム【エトワール・ブラン】に登場するキャラクターの名前だ。くそ真面目な、いわゆる学級委員長タイプで……ツンデレ。スマートフォンの画面で何度か目にしたイラストどおり、雪原のような銀髪をポニーテールに結い上げ、眼鏡の奥には藍色の双眸が鈍く輝いている。何度も自室の鏡で見た私自身の容貌を、噛みしめるように思い出す。
萱島拓真の九番目の恋人が好んでいたアニメや漫画やライトノベルやらの「常識」と、いまの私の状況は酷似していた。端的に言えば、あれである。
転生した。
つまり元の「俺」は死んだということ。
そして私、ノエルとして生まれ変わったのだ。
お決まりのパターンどおり、トラックに轢かれたんだか屋上から飛んだのかいきなり背後から刺されたのか――そのあたりの記憶はまったくないが、自分がどうやって死んだのかなどというのは今更詳しく思い出したところで意味がないだろう。
認めたくはない、認めたくはないがこの鮮明すぎる「俺」に関する情報が、私の理解及び解釈を是としている。
幼き頃から思慮深く聡明と言われ続け、最優秀学生として表彰されたことも一度や二度ではない、生まれながらの優等生であるこの私が……私の前世が、軽薄で軟派な男であったことも衝撃だが、差し当ってそれを超える問題が眼前に存在している。
その名のとおり星のような瞳を瞬いて、異世界から現れた聖女【
私立遊蘭館高等学校、二年六組――千本木カズサ。
染めたことなどないだろう真っ黒な髪は腰までの長さのストレート。
顔の半分を隠すほどの長い前髪のせいで、表情が読み取りづらく、いつもクラスでぽつんとひとりで窓の外を見ていた。とびきりの美人であることは間違いなかったが、近寄りがたい雰囲気を醸し出していたため、話しかける者は男女問わずいなかった――たったひとり、「俺」を除いて。
一つ年下の彼女は図書委員で、「俺」はデートの予定がない日は図書室で授業の予習をして、本を一冊借りて帰るのが習慣だった。通っているうちに、同じ作家が好きだということが判明すると、意外にもカズサの方から声をかけてきたのだ。
『こないだ出た新刊、司書の先生にリクエストしたので来月には借りられると思います』
涼やかな声音が清らかな水のように頭の中に沁みていくのが心地好かった。
『先輩はこの本もお好きかと。読んだら感想、聞かせてください』
先輩というありふれた呼称が自分だけに向けられるものであることが嬉しかった。
カズサからの好意に気付いていたし、「俺」はそれを受け入れるだけで良かった。
千本木カズサは「俺」の、十番目の恋人……いまとなっては元カノである――前世の彼女のことを元カノと言っていいのか、という点については棚上げにしておくのだけれど。
で、異世界から招かれた主人公(プレイヤー)である【白銀星】となって、ゲームキャラクターとなった「私」、ノエル=エテルネルの前に現れたわけだった。
なにがどうして、と頭の中は疑問符でいっぱいである。
お気楽に勝ち組人生を謳歌していたツケが死後に回って来るとか聞いてないぞ、おい。転生したらおじさんだったり幼女だったり魔王だったり悪役令嬢だったりするんじゃないのか。ねえ⑨ちゃん、異世界召喚されてきた元カノと異世界で再会する展開もあるなんて聞いてないよ?
よくよく見たら他人の空似で自分の勘違いなのではないかという淡い期待は、三度見の段階で粉々に打ち砕かれた。
間違いない、此処にいる異世界転移者、聖女エトワール・ブランこと――主人公は、千本木カズサである。
何なら先ほど自己紹介したときに、そう、彼女自身も名乗っていた。
ところで、前世の「俺」の行いのせいで、さしあたって、わりと大きな問題がある。
『先輩、こないだの火曜日……どうして、図書室に来なかったんですか?』
蝉の鳴き声をBGMにカズサと下校していたときだった。
カズサの当番日は火曜日で、その日は必ず図書室に寄ることにしていた。委員の仕事をこなすのを時折眺めながら、宿題を片付けたり本を読んだりして待つ――特に付き合い始めてからは恒例だった。
『あ~、うん、ごめん……母さんが今日の夕飯で使うからって、急にレッドキドニーを買ってきてくれ、って電話入っちゃって』
その日はちょうど彼女③ちゃんの誕生日でさ、と言うわけにはいかないのでとっさに別の言い訳を用意した。レッドキドニーってなんだよ。何作る気なんだよ、母。
「俺」はカズサに他にも恋人がいることを伝えていなかった。
他の子たちにはお付き合いする前に、自分が自由でいたいことと、特定の女の子に絞らない、気軽な関係でいたいことを説明している。
が、唯一カズサにはそういった断りを入れていなかった。なぜなら……。
『そうですか……ふふ、お母さま、きっとお料理上手なんですね♪』
ぱんと手を打ち合わせて、満面の笑みを浮かべたカズサを横目にほっと胸をなでおろす。やれやれなんとか誤魔化せたか、と思った次の瞬間、ぐいと腕を引っぱられて、体勢を崩した。
「俺」はさほど背が高い方ではなかったので、女子にしてはやや長身のカズサはほんの少し背伸びをすれば、ほぼ同じくらいの身長になってしまう。
『ねえ、先輩?』
耳元にカズサの唇がぐっと寄せられた。少し濡れた吐息が、耳朶に吹きかけられてぞくりとする。
直接流し込まれたのは、とびきり甘くて、ひんやりと冷たいシャーベットのような囁き。恋人からそんなふうに迫られたら、期待こそすれ恐怖などおぼえないはずだ。
それなのに、先ほどから冷や汗が止まらない。
『もし、私以外の女の子と遊んでいたら、なんて思うと私……』
俺がごくりと唾を呑み込む音まで、鮮明に思い出せる。
『先輩を、うっかり、壊してしまいそうです♪』
どっどっどっと心臓が激しく打つのを感じた。ドキッとするどころではない。ときめきとは違う何かで胸がざわめいている。
真夏だというのに、ぞっと寒気が走った。
意気地なしの「俺」は、壊す、の意味をカズサに追求するのは避けた。
おそらく防衛本能とかそういう何かだろうとは思う。はは、と乾いた笑いでごまかしながら、早く別の話題に変えなくてはと必死に頭を回転させていたような気がする。
おそらく死後、不誠実な「俺」の実態は明るみに出たに違いないが……その修羅場を想像すると、いまでも背筋がひゅっと冷たくなってしまう。
落ち着け、と自分に言い聞かせながら私は前世の回想を中断した。
カズサには、私が萱島拓真の生まれ変わりであるとバレるのはよろしくなかろう。証拠も記憶も何もかも持ち合わせていないが、まさか前世の「俺」が死んだ要因は……いや、まだ不確実な仮定は控えねばなるまい――前世の記憶を取り戻して中身が拓真と混ざってしまったとしてもノエルは堅物秀才路線なんだ、短絡的思考はやめよう。
なにしろ私の目の前には要注意人物、千本木カズサ――【
「考えろ……いまはおそらくチュートリアルのはず」
熱心にプレイしているわけではなかったが、元カノ⑨にログイン状況を逐一チェックされるし、感想を求められることもあったから、課金なしで遊べる範囲でプレイしていた。
この【エトワール・ブラン】(通称:エトブラ)というゲームは、王立マグノリア学院の生徒となったプレイヤーが、周囲と交流を深めながら様々な行事を経験していく。最終目標は、自分の世界への帰還であるのだが……最近更新された本編ストーリーでも、そんな私にとって、願ってもないハッピーエンディングの気配はなかった。それどころか「ドキドキ☆サマーキャンプ」とかそういう浮かれた夏休み向けの期間限定イベントを開催していたような気がする。
それは、横に置いておいて。
私、ノエル・エテルネルは【
その真っ只中に、私は前世の記憶という厄介な情報を得てしまったようだった。難儀なことだ、まったく。
「あの」
顎に手を添え、うんうん思案していると、凛とした声が耳朶を打った。
はっと顔を上げれば怪訝そうにカズサが私を見ていた。
「あなた、ノエルさん、でしたか。さっきから何をひとりでぶつぶつ呟いているんですか?」
不気味です、とばっさり切り捨てられる。
このきつい物言いも、なんだか久しぶりに耳にすると趣深い気がするようなしないような。そうそう、付き合う前まではこんな感じだったっけ。カズサは警戒心が強い野良猫のようなところがあった。懐に入ってからは、時々、危うげで不安定な面を見せながらも、基本的には「俺」にだけは甘くて。
その特別感にずるずるはまってしまったわけだが……よし、今度こそおなじ失敗はしないぞ。
こほん、と咳払いをして彼女に向き直った。
「すまない――考え事をしていた。さてここは礼拝堂だ。聖マグノリアというのは……」
「このネヴュラ王国を建国した初代の王様、フランチェスカを守護したとかいう聖女様でしょう? 知っています」
「……へ?」
「だって、あなたがぼうっとしている間にそちらの看板を四回ほど読みましたから」
「読んだ、だと?」
古びた木の看板には、確かにこの礼拝堂の簡易説明が書かれているのだが――ノエルの疑問に気づいたらしく、仕方なくといったようすでカズサは口を開いた。
「はい、読みました。異国の文字のはずなのに、見ているだけで普通に内容が頭に入って来てちょっと驚きました」
そういえば、カズサは本や教科書はもちろん、カフェのメニューや、掲示板の張り紙、ポケットティッシュに挟まれたチラシに至るまで、書いてある文字は片っ端から読まないと気が済まないタイプだった。
「ふむ、【
知らんけど。
目を眇めてそれっぽく言っておけばキャラとしては正解だろう。ノエルの意識と前世の拓真の意識が混在しているせいで、気を付けていないと発言が現代日本人っぽくなってしまうかもしれない。そんな私の心配などよそに、礼拝堂を興味津々といったようすでカズサは見上げていた。集会などのたび長話をしたがる学長の持ちネタのひとつだが、二代前の国王が高名な建築家に命じて何十年もかけて建設したらしい。赤と白、黒の石材を組み合わせてモザイク状にした外壁は華麗で、はめ込まれた薔薇窓との調和がどうとか。ただ私はあまり芸術方面には興味が薄いため、学長ほど情熱的な解説は出来そうにない。
「中に入っても?」
「――ああ、構わないぞ。学院の生徒は基本、出入り自由だからな。ただ夜間は施錠されることになっているから注意するように」
そもそも午後八時以降は寮の外に出てはいけないと定められている。
王立マグノリア学院は全寮制で、男女比は七:三ぐらい。男子寮の青焔寮、緑流寮、女子寮の赤嵐寮の三つで集団生活を行っている。詳しくは女子寮の寮長から説明があるだろうから、私が言うまでもないだろう。
こつ、と足音が礼拝堂に響き渡る。
格子窓から差し込む光が、灰色の床に光の文様を描いていた。生徒の中でも敬虔な聖マグノリア信徒が、この礼拝堂で祈りを捧げているのを見かけるのだが、ちょうど今は午後の講義の真っ最中だからか、私たちの他に誰もいないようだ。
天井には聖マグノリアが、英智の泉を訪れたフランチェスカに聖剣を授ける場面が描かれている。ちなみにこの聖剣とやらはネヴュラ王国の国宝として儀式などでいまも使用されていた。
ああ、そういえば私も一度、宰相である父に同行した式典で見かけたことがあったな。
そんなたいそうな謂れのある宝物とは思えない、古臭い代物だった。金や宝石などをあしらってもいなければ凝った意匠の装飾もされてもおらず、飾り気が全くない黒ずんだ金属の剣。この絵の中では誇張しているのかいかにも神々しい光線みたいなものが剣から迸っている。気合を溜めればビームでも放てそうな雰囲気だった。
「……気は済んだか?」
学長が絶賛するほどの名建築とは思えない、現代の女子高生には退屈な場所だと思うのだが――ちら、とカズサの横顔を盗み見て、ぎょっとした。
おいおいおいおいおい。
最初は目の錯覚か何かだと思った。
真昼とはいえ礼拝堂は薄暗く、燭台に灯された蝋燭の近くでなければ何かを落としてもすぐには見つけらないほどだ。
私も彼女の隣に居なければ気づかなかっただろう。
(こいつなんで泣いてるんだ!?)
咄嗟に口元を手で押さえたおかげでなんとか声を出さずに済んだ。
カズサは喚きたてるでもなく静かに泣いている。抑えきれない感情が、言葉の代わりにこぼれているみたいに。
名画に感動して? いや、まさかそんなわけはない。
と、自分で自分にツッコミを入れつつ、はっとした。
そうだ、カズサはわけもわからないまま異世界に飛ばされた可哀想な女の子なのだ。礼拝堂に入りたい、と言ったのも人目を避けて、心を落ち着かせられる場所を探していたのかもしれない。くそ、あまりにも鈍感すぎる。前世の「俺」のコミュニケーション能力はどこに消えたんだよ。
「あ、あぁ、そういえば、私は礼拝堂の外観をもう少し観察しておきたかったんだ! ゆっくりと見学でもしていてくれ!」
カズサの返事を聞くより先に、私は礼拝堂の出口に向かって足早に歩きだした。
ドアを開ける前に振り返ると、先ほどとまるで変わらない姿勢で聖マグノリアと向き合う【
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