後編 すてきなプール
プールのど真ん中、経験者向けの往復遊泳可能なコースを、なにか毛玉のようなものが低速で遊泳していた。背部についたゴムべらのようなものを懸命に上下に動かすことで推進力を得ているらしい。無様で汚らしく、なにより『毛』が体中にもっさりと生えたその利用者から、おれたちは目を離すことができない。どう考えてもこのプールにそぐわないものであることは明白だった。
彼以外に水の中で動く者がいなくなったことで凪いだ水面を、抜け落ちる焦げ茶色をしたほこりのようなものがすべっていく。それはふよふよと漂い、水中にいる他の利用者のつるんとした皮膚や機構にまとわりついていった。緩慢な動きを繰り返し、ようやくプールの端にたどり着いた毛玉がくるんと一回転して向きを変える。けむくじゃらの胴に生えた四本足と、おれや真山さんの持つ皮膚の質感に似ているように見えなくもない水かき、あまりにも哺乳類的な大きな前歯がのぞく。勢いをつけるためか、先ほどから上下していたひらっべたい尻尾がひときわ強く水面を叩いた。『お触れ』の上部にまで達しそうなほどの大きなしぶきがあがり、プールからだいぶ離れたところにいたおれの顔にもしずくが届く。
その瞬間、プール全体の照明が落ち、垂れ下がったピンク色の隙間から鉄のアームに吊られた赤いランプがいくつも降りてきた。辺りにけたたましいサイレンが鳴り響き、それに呼応するようにしてそこかしこで悲鳴があがる。いったんゴーグルを外し、真山さんがおれの隣に戻ってきた。とても、険しい顔をしている。それこそ、彼と初めて会ったときと寸分違わず同じ表情をしているように思えた。
「久しぶりだね。あんな客を見るのは」
「そ、そうですね」
彼が大きなため息をつく。それが体にのしかかってくるような気がしたので肩を回していると、監視員室からアンコウのヒレを持った男ふたりがプールに向かって駆けていくのが見えた。ゆったりと泳いで対岸についた毛玉、ビーバーの肉体を持ったそれが、ようやく事態に気づいたのか慌ててきびすを返そうとする。が、とうぜん逃げられるわけもない。飛び込んだふたりによって彼はあっという間に取り押さえられてしまう。監視員の片割れが、監視室に向かって右手を掲げる。ややあって頭上の『お触れ』が動き出し、『毛皮禁止!』と書かれたものだけがピックアップされていく。それらはみるみるうちに厚さを増し、プールのまわりを壁のように固めていった。
「なんで、なんで。わたしは、わたしはただ泳いでいただけなのに」
屈強な腕に押さえつけられたビーバーから、徐々に毛皮が剥がれ落ちていく。あっ。思わずおれは声をあげる。そこには、白いシリコンキャップと黒いゴーグルの男がいた。先ほどの笑みとはほど遠い、困惑とおびえが入り交じった表情をしている。どうして、どうしてこんなことをされなきゃならないんだ、横暴だ。静まりかえった室内に、彼のむなしい嘆きがこだまする。無遠慮な質問を受けたときのいらだちを思い出したことも相まって、今度は真山さんではなくおれが大きなため息をついてしまう。まさか、彼はほんとうになにもわかっていないのだろうか。
「すみません。『お触れ』が出ている以上、毛皮のある方を遊泳させるわけにはいきませんので」
「お触れ。またお触れか。わたしはもううんざりしてるんですよ。別に法律じゃないんでしょう強制じゃないんでしょう。だったらどうしてそこまでそれをきちっと守らなきゃいけないんだ」
「殺すぞ」
「は?」
「はいそれですその顔です、あなた今こう思いませんでした? 急に殺すぞ、なんて言われて不快だ嫌だな恐ろしいな、なんか健全で健康的で平和な暮らしを阻害されてる気がするな、って。そう思いませんでしたか思いましたよね。そういうことを防ぐために『お触れ』があるんです」
「お、おい、おいおい。それってつまり、私のこのビーバー肉体が不快だと思われてるって、そういうことなんですか」
すっかり人の姿に戻った彼が、同意を求めるようにあたりを見まわす。が、返ってきたのはちゃぽん、という水音だけだった。ヒレ。腕。貝殻。触手。水かき。プールの利用客が水中から出したそれらには、彼から抜け落ちた毛がまんべんなく付着していた。じゃぽ、じゃぽ。水面が、ビーバー男が現れる前の揺らぎを取り戻していく。が、先ほどまでと打って変わって能面じみた無表情で、彼らは取り押さえられた男のもとへにじりよっていく。
「わ、わたしから見ればっ」
監視員の腕を片方だけ振り払った男が、シリコンキャップとゴーグルを乱雑に外した。
「お前たちのほうがどう考えてもおかしい。もううんざり、うんざりなんだよ。覚えているか? みんな生まれたときはこの姿だったはずなんだ。毛皮があったはずなんだ。皮膚があったはずなんだ。なのに、それとはほど遠いものを皆こぞってつけたがったり貼り替えたがったりする。どうして、どうしてだ。おかしい、おかしいじゃないか」
目をかっと見開き、彼は全身を使って抵抗を試みる。自身がゆったりと泳いでいたときよりは大きな、それでも先ほどのホタテジェットの子よりは比べものにならないほど小さなしぶきと波が、プールの水面をかきみだす。それが体や『施術』で手に入れたり取りつけたりしたものに当たるたび、利用客たちの顔が無表情を通り越してどんどん怒りと嫌悪に塗りつぶされていく。
あれはもう、だめだね。眉根を寄せた顔で苦笑いしながら、真山さんがおれのほうを見る。しばらく口の中で言葉を転がしてから「そうですね」と口にすると、彼はおれの背中をぱんぱん、と優しく叩いてきた。
「もしかして朝倉くん、思い出してるの」
「え、ええ、まあ」
「いやあ、気にすることないって。あのときでもきみはあれよりぜんぜんましだったから」
ここはプールだろ。みんながみんな、好きに楽しく泳いでいい場所のはずだろ。そうなんだろ。なおも訴えを続ける男の姿が、おれの記憶の中で自分の姿とつながる。初めて、このプールにやってきた日。おれも、あそこまでではないにしろ似たようなことを思い、口に出していた。なにもかもが整えられていない生まれたままの状態でいても恥ずかしいと思っておらず、気にしていないわけではなかったが人よりも少し体毛が濃かったり皮膚の油膜が分厚かったりするかなあ、まあ大丈夫でしょ、という程度にしか考えられていなかったおれの甘ったれた根性は、あの日完全に打ち砕かれたのだ。
「あの、この『お触れ』にあるように、あなたのような方を遊泳させるわけにはいきませんので」
「え、それって差別じゃないんですか強制力あるんですか」
「いや、ないんですけど『お触れ』なので。皆さんがそういうことが嫌だ不快だ阻害されてると感じることは『お触れ』で規制されてて、いや強制じゃないんですけど、いちおうそういうことになってて」
「そんなのおかしいでしょう、ここはプールですよ」
「プールだからなんですよ」
「はあ? それってどういう……」
いやだから。きみは汚いんだよ。ばっちいんだよ。いてもいいけど、いちゃいけないんだよ。わかるかな。
監視員と押し問答をするおれに、まだ知り合いでもなんでもなかった真山さんが言い放ったあの一言。それとあの険しく固まった表情のおかげで、おれはいかに自分がこの場にそぐわない人間であるかに気がつくことができたのだ。監視員になかばつまみ出されるようにして更衣室に強制送還され、ショックでなにも考えられないまま着替えていたおれに、わざわざやってきてくれた真山さんはちょっと言い過ぎちゃってごめんね、でもね、と前置きしてからこう言った。
「きみだって、きっと心の底ではずっと思っていたはずだよ。自分のこの毛が、あともうすこし薄かったら。肌が、あともうすこしつるんとしていたら。自分のここが、自分のあそこが、あとちょっと、ほんのすこしだけでも違っていたらって。きみはプールに魅力を感じてここに来たんだろう? だったら、今、なんじゃないのかな。行動するのは」
さあきみも、こっちにおいでよ。その瞬間、彼の体におれはすがりついていた。そういえば、あのときの真山さんは今のおれと同じマグロ皮膚だった。そのふっくらとはりを持ちつつもつるりとして哺乳類感のない肌をなでながら、あなたの言うとおりなのかもしれない、ずっと自分の体がなにかの規範からずれているような気がして悩んでいたのかもしれない、というようなことをうわごとのようにおれは吐露した。真山さんは口をはさむことなく、ただ黙ってその話を聞いてくれた。そのことが、うまい具合におれの中の毒素のようなものを絞り出してくれたのかもしれない。今まで考えもしなかったことが頭をよぎり、携帯・電子機器使用禁止という張り紙もかまわず、おれはロッカーから携帯を取り出し検索エンジンを起動した。もう、なにをそこに打ち込めばいいかはわかっていた。そうしておれは『施術』の予約を入れたのだ。
「わかってるのか。ここはおかしいんだ。垂れ幕が増えに増えてどんどんどんどん窮屈になって、自由に泳げなくなるかもしれない。いずれ水すらもその垂れた布が吸い取って、プールがすっかり干上がるかもしれない。それに無理やり適応していくつもりなのか。それでいいのか」
いつの間にか男を取り囲む監視員の数は五人に増えていた。今やプールから水揚げされて床に組み伏せられてしまっている彼は、性懲りもなく自分の主張をわめいていた。たしかに、真山さんの言うとおりなのかもしれない。思い出してみてわかった。おれはあそこまでひどくない。ひどくなかった。だから、こうしてプールで泳いでいることができる。ここの一員に、なることができている。
「プールにてご遊泳中の皆様にご連絡もうしあげます。毛玉の清掃とその発生源への対応が完了いたしました。お体の洗浄をご希望の方は、監視員室までお申し出ください。この度は。たいへんご迷惑をおかけいたしました」
赤いランプが幕の隙間に引っ込んでいき、プールがいつもの輝きを取り戻していく。他の利用客たちも、あるものは泳ぎや遊びを再開し、あるものは毛を洗い流すために水から出て監視員室へ向かうなどしている。そこにはいらだちと嫌悪と不快感に満ちた雰囲気はない。ただ、すこやかな喜びだけが満ちていた。
「さ、じゃあ僕たちも泳ごうかね」
「そうですね」
おれたちはベンチからようやく立ち上がり、プールの縁へと歩を進めていく。横目で右手のほうを見ると、今まさに男が監視員室の中へ連行されようとしているところが目に入った。そんなおれに気づいたのか、ぐにゃりとしていた彼の体に、急に芯が通ったかのように力が戻った。
「ああどうも。マグロ皮膚のお兄さん。あなたはどう思うんですか。おかしいでしょう、おかしいですよね。自分で考えてのことなんですかそれは。さっきも聞きましたけど、本当に? それらしい理由をそれらしい状況に当てはめて自分と同化させてるだけでしょうぜったいに。本当に、本当にそのマグロ皮膚は」
「いや、やってよかったと思ってますよ。今じゃ前の自分が信じられない。鏡を見たり、こうして泳いだりするたびに実感しますね。誰に言われたわけでもない、これはおれの意思です。いや、ここにいるみんなも、たぶんそう考えて『施術』を受けたんだと思いますよ。嫌だなって思ってたことが解消されてすばらしいことが起きるなら、それってすごく幸福なことじゃないですか」
みじめな男から視線を離し、おれはプールの青い水面に向き直る。すでに真山さんは泳ぎ始めており、ぴんと張ったヒレははるか遠くに見えた。それに早く追いつこうと、水に入る。ゴーグルを装着し、息を整える。際限ないんですよそんなの、終わりなんてないんですよそんなの、苦しいじゃないですかそんなの。顔全体が水にひたる直前、そんな言葉が聞こえた気がした。が、泳ぎが軌道に乗って息継ぎをするころには、その言葉の響きはおろか男の姿すらもどこかに消えてしまっていた。距離を示すラインが、先ほどよりも速いスピードで流れていく。全身が水をとらえ、マグロ皮膚のうえをするするとすべっていくのがわかる。
気持ちいい。本当に、気持ちいい。胸の奥から湧き上がる多幸感に酔いしれながら、おれはプールの壁がせまってくるのを待った。ここは経験者向けの往復コースだ。思い切りそれを蹴り飛ばし向きを変えれば、また逆の壁まで泳ぐことができるはずだ。フォームが崩れるのもかまわず、すこしだけ顔を前に向ける。プールの壁も真山さんも、まだ見えない。あるのはいやに澄んだ水だけだ。
終わりのある脱毛体験コース 大滝のぐれ @Itigootoufu427
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