終わりのある脱毛体験コース
大滝のぐれ
前編 きれいなプール
あの、それってマグロ皮膚ですよね。二五メートルのプールをきっかり二往復。壁に手をつき顔を水から出したおれに、となりのコースから声がかかった。ゴーグルを外しながらそちらを向くと、レンズによる黒みが抜けた視界の中で白いシリコンキャップをかぶった男が突っ立っているのが見えた。
「は、え、そうですけど」
「やっぱりそうですよね。いやあそうだと思った。人の皮膚みたいなでこぼこしたキメとか、表面に張ってる皮脂の膜みたいなものとか、なにより体毛が見えないですもんね。いやあ、どうりで」
こちらの困惑をよそに、彼は笑顔でうんうんとうなずきながらなにかを納得したようなそぶりを見せている。ここには週三回、夜のほぼきまった時間に泳ぎにきているが、こんな人を見るのは初めてだった。いつも泳ぎに来ている常連の人はもちろん、定期的には来ないまでも今ぐらいの時間にときどきやってくるような人とも違う、どこかずれた雰囲気を感じる。水とは別種の冷たさが体をよじのぼっていく気がした。あいまいに笑いながら、おれはおでこにあげたばかりのゴーグルをさっと目元に引き寄せる。
「あ、待ってくださいよ。もっと教えてください、マグロ皮膚のこと」
「え、はあ、はは」
「さ、ほら遠慮しないで」
「はははっ、いやあ、その」
さて泳ぐか、とプールの対岸に目を向けようとしたところで、ふたたび体の向きを変えさせられる。先ほどと寸分違わぬ笑みに出迎えられ、適当に作ったよそいきの顔と笑い声がさらに大げさなものになっていく。別に会話や出会いを求めてここにきているわけではないし、というかそもそもコースのど真ん中でなにも気にせず突っ立って平気な神経がよくわからなくもあるしで、関わりたくない、放っておいて早く泳ぎたい、というのがおれの本音だった。プールに来たらあれをしてこれをして……というルーティーンがこちらにはある。それを崩されるのは不快だった。
が、彼を見ているうちに、キャップから横からはみ出た髪の毛や上半身のところどころに生えた『体毛』から水がしたたっていないことがわかると、その気持ちの端から恐怖がすこしずつ染み出していった。ただの一度も、全身を水にひたしていないらしい。更衣室とプールを繋ぐ通路に避けられない配置でシャワーはあるので一度は体を濡らしているはずなのだが、だとするとそれが完全に乾く数十分の間、プールに来たというのにまったくなにもしていないということになる。ウォーキング? ウォーキングをしたいんですかね。そうしたらいちばん端のコースでできますよ。初心者コースでも歩けないことはないですけど、まあ基本的にはみなさんそっちでやっていますね。そんな言葉が頭をよぎる。が、口に出すことはしなかった。彼の体も表情も、さっきからおれを見つめたままの状態でぴくりとも動いていない。なにかただならぬ気配が、そこにはあった。マグロ皮膚の話をするしかないか。意を決し、おれは口を開く。
「別に。なんてことはないですよ。普通にその、クリニック? で『施術』してもらったんです」
「へえ。それでそれで」
「そ、それでって。ええと、前からマグロ皮膚、というか『施術』にはあこがれていて、いい機会だからと思ってやったんですよ」
「前から? 前ってことは、以前は違ったと」
「いや、あの、ええと」
「どうなんですか。前がなかったら前からなんて言いませんよね後だったとしても前がなかったら後からなんて言いませんよね」
「まあ、そうですね。あるできごとが起きる前は、別にそう思っていなかったといえば思ってなかったですね」
「なんだあやっぱりあるんじゃないですかそういうの。聞かせてくださいお願いしますよ。わたし、そういう話にすごく興味があって」
ゆたかな体毛をたたえる腹を突き出し、男がおれのほうへ一歩ぶんにじり寄ってくる。なおも彼の口から放たれる無遠慮な質問を適当にいなしながら、失礼な人だなあとかどうしたものかなあとか考えているうちに、おれの意識は彼のいるコースのひとつ奥、子供や初心者用にもうけられた幅の広いコースに泳ぎだしていった。
そこには背中にホタテジェットをつけた女の子がおり、父親らしき男の手を掴んで泳ぎながらの息継ぎ練習を始めたところだった。ぶくぶく、ぱー。ぶくぶく、ぱー。繰り返されるリズムに合わせ二枚貝が収縮を繰り返し、すさまじい推進力が生まれていく。おかげで水面は揺れに揺れ、それはやがて水位が変わるほどの波を発生させ始めた。近くにいたカツオノエボシ皮膚の親子がおもちゃのアヒルのようにひっくり返り、フジツボ胸を持つ男のそれから断続的に触手が飛び出し、プランクトンを絡め取っていく。波がくるたび、口に消毒された水が流れ込む。呼吸を確保するため立ち泳ぎの姿勢になり、あの子供と同じようなボビングと息継ぎを繰り返す。他の利用客の混乱の中でも、ふたりはペースを崩さずにプールを往復していた。が、そのことを非難するものは誰もいない。プールとはそういうものだ。みんなが譲り譲られながら、水と触れ合ったり泳ぎを極めようと試みたりする場所。そこに、怒りや排斥の感情なんて存在しない。むしろ、あのお父さんも子供のスピードについっていっているから足とかに同じ機構があるのかな、子供も彼も手術受けるの大変だったろうな、という尊敬の念とねぎらいの気持ちをおれはいだいていた。他の利用客もきっとそうだろう。皮膚を剥がして外部に別のものを入れ込む『施術』は、大変な痛みをともなう。相当な苦しみを経験したはずだ。
それに比べて、目の前にいるこの男はいったいなんなのだろう。対岸のプールの壁を蹴って、おれの意識がこちらに戻ってくる。波にさらわれたのか、男の姿は消えていた。が、彼が立っていたところにぼこぼこと泡が湧き上がっているのが見えたのでプールに潜ってみると、そいつはなおも水中で口を動かし続けていた。相も変わらず、なにかをこちらに語りかけているようだった。詳しい内容はよくわからなかったが、おおかた先ほどと同じようにマグロ皮膚について質問や感想を繰り返しているのだろう。
すみません、では私はこれで。彼と同じように伝わらない言葉を水中に放り、おれは足を浮かせてプールの壁を蹴った。指先が水を割っていく感触をたしかめながらバタ足を開始し、そこに少しずつ手で水をかくクロールの動作を合わせていく。底に描かれた距離を示すラインがどんどん下に流れていくのを感じながら、このプールに通い始めたころのことを思い出す。あのときにくらべれば、本当にめざましい進歩だ。マグロ皮膚ではなく、生まれたままのそれが全身の筋肉や骨を包んでいた、あのとき。声や態度に出さずとも、泳ぎにきている人がおれの泳ぎや姿を見て失望したりあわれみの視線を向けていた、あのとき。だが、もうおれは変わった。変わることができたのだ。
『施術』をしてから初めてプールに泳ぎにきたあの日を、おれは生涯忘れることはないだろう。そのときはまだトビウオ皮膚から慣らし始めた段階ではあったが、それでもおれはいたく感動し、泳ぎ終わったあとにシャワールームですこし泣いてしまった。こんな、こんなちょっとの勇気とお金で、嫌だな変えたいなどうにかしたいなと思っていたことが解決するなんて。本当に、気づけてよかった。勢いよく放たれるお湯で涙を隠しながら、歓喜にふるえたものだった。今までのすべてが、なにか大いなるものに許されたような心地さえもしていた。
気がつくと、おれは一息にプールを三往復していた。さすがに体のふしぶしにけだるさを感じ、たまらずプールのへりに手をつき体を持ち上げた。途端にのしかかってきた重力を感じつつプールサイドを歩き、飲みものやタオルなどを置けるスペースに近づいていく。
「おお、朝倉さん」
「真山さん。お疲れ様です。今日はずいぶんと遅かったですね」
「仕事が長引いちゃってさあ」
適度なつやとしめりけの、黒々とした皮膚が隆起する。飲みものを飲み終えたばかりのところだった真山さんが、ストレッチのために両腕を頭の後ろに持ってきたためだ。半年前にカジキ皮膚とヒレの施術を受けた彼とは、同じような時間に泳ぎにくることが多いためよく顔を合わせていた。話をするのがここにくる主目的ではないのはもちろんだったが、皮膚へ『施術』を受けていることや、普段は似たような業界で働いているということといった共通点が多いことが会ううちにわかってきたため、労をねぎらいつつ運動の合間に少し話をするのが習慣になっていた。
「取引先がごねにごねてね。今もう朝から泳ぎたくてしょうがなかったから、急いで来たんだよ」
「いやあ、本当にお疲れ様です」
「もうぼく朝倉くんのとこに転職しようかなあ。その様子だと定時であがってすぐにきたんでしょ」
「おかげさまで」
「もうそっち行っていいかなあー」
「ははは、ぜひぜひ。大歓迎ですよ」
おれは休憩がてら、真山さんはストレッチがてら、水滴のついたベンチに横並びで座る。そこからは、大量の四角い水の中でおのおの楽しんでいる人たちがよく見えた。天井からいくつもだらりと垂れ下がり、プールをシャワーカーテンのように囲んでいる『お触れ』の垂れ幕のあざやかなピンクも、いつも通りの幸せな風景にいろどりを添えていた。おれから見て右手奥、比較的空欄が目立つ真新しい幕に、脚立に乗った監視員がなにかを新たに書き込んでいるのが見える。重さでときおり分厚いそれがたわみ、べおんべおんと奇怪な音がした。
「真山さん、あれ」
「ああ、なんかまたお触れ増やすらしいね」
「ええ、皮膚の取り締まりだったらどうしよう」
「それはないよ。他の人に不快感を与えようがないんだから、この完璧な肉体は。規制されるなんてありえないよ」
ここは、他ならぬプールなんだよ? まぶしい笑みを残し、真山さんはゴーグルを装着しながらプールに消えようとした。が、その腕と歩みが不自然な位置で止まる。どうしたんですか、と言う間もなく、おれも異変に気づく。他の利用客たちが、それこそ先ほどのホタテジェットの子供までもが、泳いだり遊んだりするのをやめ、ただ一点だけを見つめている。
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